翌朝、小柴が朝餉の膳を運んできた。
麦飯に浅利の味噌汁、香の物。膳を濡れ縁に置く間にも、小柴は二度ほど口元を押さえて咳き込んだ。昨日より咳が激しい。
「冷え込みましたから……朝は少し出やすくなるんです」
小柴はそう言って笑い、母屋へ戻ってゆく。源一郎は汁を啜りながら、その背中を目で見送った。
──朝餉を済ませると、源一郎は母屋の奥座敷に呼ばれた。
座敷の主である辰五郎は長火鉢の向こうで煙管を燻らせていた。源一郎が向かいに座ると、湯呑みに茶を注いで押しやる。
「昨夜は遅いお帰りだったようで」
「あぁ。早速、勘蔵の賭場を覗いてきた」
「へえ」
辰五郎は煙をゆっくりと吐いた。驚いた様子はない。
「で、どうでした」
「三十人ほどの客がいて盛っていたな。中盆も壺振りも手際がいい。向こうは若い衆が多いようで、壁際には用心棒の浪人が三人」
「三人、ね」
「まぁ……あれで全部じゃあるまい」
辰五郎は煙管の雁首を長火鉢の縁で軽く叩いた。
「賭場に置いてるのはほんの一部でさ。勘蔵は二年ばかり前に、歩行新宿の外れの旅籠を一軒、借金の形に取り上げておりやしてね。看板は残っちゃいるが、今じゃ旅の泊まり客なんざ一人もいねぇ。その店に、浪人どもが少なくとも十人は寝起きしてまさぁ」
「十人か」
「ええ。使い勝手のいい手駒として飼っておるんで」
荷運びの人足や駕籠かきを束ねる男である。宿場の誰がどこに泊まりどこへ出入りしているかは、黙っていても耳に入ってくるのだろう。
「勘蔵本人とも話した」
「ほう」
「酒を注がれて、誘われた。辰五郎はもう終わりかけている男だ、俺のところへ来ればいい目を見せてやる、とな」
辰五郎は笑うばかりで怒らなかった。湯呑みを口に運び、一口啜ってから一言だけ。
「あいつの言いそうなこった」
「断っておいたぞ」
「そいつはどうも」
源一郎は茶を一口飲み、湯呑みを置いた。
「もう一人、気になる男がいた。三十半ばくらいの痩せた男だ。身なりは番頭のようにきちんとしていたが、目つきが蛇のようでな。若い衆も浪人も、その男には道を空けていた」
辰五郎の手が止まった。
「そいつぁ巳之助って男で」
「巳之助」
「元は女衒を生業にしてた奴でね、今じゃ勘蔵の右腕と言っていい。歳は若ぇが頭の切れる男さ。子分を在方へ回らせて娘を仕入れてきちゃあ、宿場の店に入れる。口が上手くて、どこの親も丸め込まれる」
この時代においては確かに、時として女衒が困窮した家を救うこともある。しかし、それは娘という犠牲の上に成り立つ。そして、女衒である巳之助の奴は利益のために人の不幸や困窮を利用しているだけ。辰五郎の口ぶりは平静であったが、煙管を握る指に力が入っているのを源一郎は見ていた。
「昨夜、その巳之助が客だった職人の男を一人、船宿の奥に連れていった」
源一郎は三吉という職人のことを話した。負けが込んで勘蔵に金を借り、結局借りた札を一度に失ったこと。証文が五枚目だと言われ、娘を奉公に出せと諭されていたこと。
辰五郎は黙って聞いていた。
「……止めることができなかった」
「そりゃそうでしょう」
辰五郎は短く言った。
「借金の証文があって、親が頷いた。賭博の借金を、娘を奉公に出して前借金から返済させるって言うんなら、建前上は奉公口の世話だ。他所の貸し借りに、あっしらが口を挟むわけにはいかねぇ。挟めば、それこそ勘蔵の奴に縄張り争いの口実をくれてやることになる」
辰五郎は煙管に刻みを詰め直し、火を移した。長く煙を吐く。
「人情はあるつもりだが、どうにもしようがねぇ。あっしらは、ああいうのを幾度も見送ってきたんでさ」
その物言い──。勘蔵の威勢を見た後では、老いにより気弱になっているようにも感じられる。それから辰五郎はその話を打ち切ったのだった。
§
昼前、源一郎は留たちの掛け取りに付いて、北品川の北の外れへ出た。
歩行新宿との境目あたりは、表通りから一本入った辻に床店が並んでいる。葦簀を立てた小さな台に飴や小間物、草鞋や煙草を並べた店が十ばかり。どれも辰五郎の場所割りで店を出している者たちである。
留は一軒ずつ回って場所代を回収した。帳面に名を書き、銭を数えて巾着に入れる。床店の主たちは留の後ろに立つ見慣れない男──源一郎をちらちらと見る。
留はどうにもそれが面白くないらしい。勘蔵からやられっぱなしになっているのも、親分である辰五郎から用心棒を帯同させられているのも、自らが不甲斐ない訳であると分かってはいるのだが、店主たちの目が源一郎へ流れるたびに銭を受け取る手がわずかに荒くなる。
「……今日は静かなもんだ」
四軒目を回ったところで、留が前を向いたまま言った。
「いつもならこの辺で、向こうの若ぇのが湧いて出てくるんだがね。先生がいるっていうんで、遠慮してんのかもしれやせんなァ」
言い終わらぬうちであった。
辻の向こうから男たちが肩で風を切るようにしてやってくる。五人。着物の裾を端折り、肩に木刀やら六尺棒を担いでいる。その後ろには、もう一人。
月代を伸ばし放題にした浪人であった。
源一郎はその顔に見覚えがあった。昨夜、賭場の壁際に座っていた三人のうちの一人。賭博場に入ってきた源一郎を、じっと見ていた男である。
先頭の若い衆が床店の台を足で小突いた。並べてあった飴が盛大に転がる。
「おう、ここァ誰の許しで店を出してんだ!」
「だ、誰のって、ここらは辰五郎親分の──」
「この辻は歩行新宿のほうが近ェだろうが。場所代ならこっちへ払うってのが筋じゃねぇのか! あぁ!?」
床店の主が青い顔で留を見た。留が前へ出る。
「おい! この辺りは昔っからうちの縄張りだ。言いがかりはよしてもらおうか」
「言いがかりだぁ?」
若い衆が留の胸倉を掴み、ぐいと引き寄せた。ここで引いては負け犬と後ろ指を指される──留も負けじと相手の襟を掴み返す。額と額がぶつかりそうなほどに顔が寄り、留の後ろの若い衆たちが色めき立った。
「──待て待て。双方ともそう逸るな」
源一郎は横合いから、留の胸倉を掴んでいる若い衆の手首を取った。