手口を捻り少し力を込める。若い衆が顔をしかめ、掴んでいた指がほどけた。源一郎はそのまま留の肩を押して、後ろへ退かせた。
「……先生。こいつは売られた喧嘩だぜ」
留が乱れた襟を直しながら、低く言った。
「わかってる。だが、まぁ待て」
源一郎は前へ出た。若い衆たちの目が、一斉に源一郎に向いた。
一人の顔色が変わった。昨夜、船宿の戸口に立っていた男である。
「こいつ……昨夜の……」
「何だ、知ってるのか」
「賭場に来た遊び人だ。浜で留んとこの連中をのしたって野郎だよ」
若い衆たちが顔を見合わせた。代わりに、浪人が前へ出た。
「貴様、辰五郎の飼い犬だったか」
低い声であった。痩せて頬骨が浮き、目の下が黒い。色褪せた紺の着物──着た切り雀なのだろう、継ぎ接ぎの跡がある。
「昨夜は客人と思い黙っていたが。辰五郎に雇われた用心棒とあっては捨て置くわけにもいかん」
「別に雇われたと思っちゃいねぇよ。たまたま腕を貸してるだけだ」
「同じこと」
浪人が構えを取り鯉口を切った。床店の主たちが慌てた様子で逃げ、背後の留たちも息を呑んで後ずさる。
源一郎は動かなかった。刀の柄に腕を乗せたまま、抜くことをしない。口元に不敵な笑みを張り付けて、浪人を見ていた。
「抜かんのか」
「おいおい、この程度のことで刀を抜いちまうってのか? 自制心ってもんが足りねぇなぁ」
「……舐めるなよ」
浪人が抜いた。
抜き打ちに、袈裟懸けの一刀が来た。速い──。食い詰めてはいても実力はあるのであろう。
しかし、相対する源一郎はと言えば退くことはなかった。
その代わりに一歩、跳ぶように前へ出る。刃が振り下ろされる、その内側へ。
──無手で刃は受けるな、受けた腕が落ちるぞ。間合いを殺し一打で仕留めろ。
かつての幼少のみぎり。修行のためにと放り込まれた高尾の山で、烏天狗どもに四方八方から小突き回されながら嫌というほど体に叩き込まれた教えである。
見切った切っ先が源一郎の右肩を紙一重、掠めるように空を斬った。そのときには間合いを潰した源一郎の左手が、浪人の刀の柄を上から押さえていた。力を籠める柄がピクリとも動かない。
「な……」
浪人の目が見開かれる。
しかし、もう遅い。すかさず源一郎の右の一本拳が、浪人の鳩尾に深々とめり込んだ。
「が、ぁっ……!」
力は幾らも込めていない。それでも浪人の体はくの字に折れ、息が詰まって声も出なくなった。
押さえていた刀の柄を僅かに捻る。浪人の指から力が抜け、刀が源一郎の手にあっさりと移る。それで終いであった。
浪人は地面に膝をついて頭を下げ、鳩尾を抱えて喘いでいた。歩行新宿方の若い衆たちは思ってもみない光景に誰一人動けずにいる。
源一郎は奪った刀を、浪人の頭越しに後ろへ放った。刀は数間先の地面に落ち、乾いた音を立てて転がる。
「抜くなら相手を選べ。今日はたまたま俺の機嫌が良かっただけだ。次は、どうか分からんぞ」
「……柔、か……? いや、違う……何の流派だ、今のは」
喉の奥から絞り出すように、浪人が呟いた。源一郎は答えない。
浪人はよろめきながら立ち上がった。鳩尾を押さえたまま背後へ歩き、地面に転がった刀を拾い上げる。
浪人が若い衆たちに顎をしゃくると、若い衆たちは逃げるように辻の向こうへ退いていく。浪人も退く途中、一度だけ振り返った。源一郎を見るその目には得体の知れない存在への畏れのようなものが浮かんでいた。
辻に静けさが戻る。
逃げ散っていた床店の主たちが恐る恐る戻ってきて、転がった飴を拾い集めはじめる。源一郎もそれに習えば店主たちに恐縮され、留はそれには目もくれず腕を組んで辻の向こうを睨んでいた。
やがて、そのまま口を開いた。
「……初仕事、ご苦労さんだぜ、先生」
目は源一郎の方を見ていない。
「けどな。次からは、俺らにも少しは格好をつけさせてもらいてぇもんだ。後ろに引っ込んでるだけじゃ、舐められる」
「そうかい。ま、俺は所詮は外様。面子を守る義務もねぇ、やり方は任せるがな」
「……」
留は何か言い返そうとして口を開き、そのまま閉じた。突っかかる先を外されたような顔であった。チッと小さく舌を鳴らすと、飴を拾い終えた床店の主に顎をしゃくる。
「おい、今月の場所代だ。さっさと出しな」
主が慌てて銭を差し出す。留はそれを引ったくるようにして数え始めた。
源一郎もまた辻の向こうを見た。
あの若い衆たちは、真っ直ぐ勘蔵のところへ帰るだろう。そして昨夜賭場に現れた遊び人が、今日は辰五郎の掛け取りに帯同していた──勘蔵はそれをすぐに知ることになる。
さて、これで向こうはどのように出るか──。
§
屋敷に戻ったのは、昼を少し過ぎた頃であった。
裏の木戸から庭へ入ると、井戸端に小柴の姿があった。洗い物の桶を傍らに置き、井戸の縁に片手をついて身を屈めている。
口元に手拭いを当て咳き込んでいた。
昨夜や今朝の咳とは違う。肺の奥から空気を無理やり押し出すような、良くない咳であった。なかなか止まらない──咳の合間に息を吸おうとするたび、喉の奥でひゅう、ひゅうと細い笛のような音が鳴る。吸い切れぬうちに、また次の咳が来る。
細い背中が波打つたびに、井戸の縁を掴む細指が白くなる。咳のたびに肺が痛むのか、眉根がきつく寄っていた。
源一郎は足を止めた。
ようやく咳が収まっても、小柴はしばらく顔を上げられずにいた。肩で浅く息をつくたびに喉がまだかすかに鳴っていたが、やがて口元の手拭いを外し素早く袂へ押し込んだ。
──その一瞬、源一郎の目は手拭いの白に滲んだ赤を捉えていた。
小柴が顔を上げ、源一郎に気づいた。はっとした顔をして、それから取り繕うように笑う。
「お帰りなさいまし。お早いお戻りで」
声が掠れていた。笑ってみせた口の端がまだ苦しげに引き攣っている。
「ああ」
「掛け取りは、つつがなく?」
「まぁな」
源一郎はそれだけ答えた。会話はそれきりで、小柴は礼をすると桶を抱え、急ぎ足で台所の方へ去っていった。
源一郎はその背中を見送っていた。
痩せていく体。止まらぬ咳。苦しげに鳴る気管支。そして激しい咳をした後の手拭いの血。
あれはやはり、労咳であろう。
またの名を肺結核──遙か先の世であれば、薬を飲み続ければ治る病である。だが、この江戸にその薬はない、不治の病の一つであった。