台所を覗くと、お茂が竈の前で大根を刻んでいた。
「おや旦那。何か用かい」
「少しいいか」
お茂は包丁を置き、前掛けで手を拭いた。源一郎の顔を見て何かを察したらしい。暇そうにしていた若い衆に外の水汲みを言いつけて、台所から人払いをした。
「……小柴のことかい」
「ああ」
「見ちまったんだね」
お茂は大きく息を吐き、土間から式台に腰を下ろした。
「労咳だろうね。親分があの子を拾ってきた時から、もう咳をしてた。あたしらはみんな知ってる。本人も分かってる」
「養生はさせているのか」
「させたいさ。けど、あの子が聞かないんだよ」
お茂は苦い顔をした。
「寝てろって言っても、朝になりゃあ誰より先に起きて竈に火を入れてる。働いてなきゃ、ここにいられないと思い込んでるのさ。親分が何度言っても駄目でね。夜は夜で咳が出るもんだから、皆を起こしちゃ悪いって奥の小部屋で一人で寝てる。そういう気の遣い方ばっかり上手くてね……」
源一郎は少し考えた。
労咳が人から人へうつることを源一郎は知っている。だが、それを口に出せばどうなるか。江戸でも労咳は家筋の病だの、伝屍病だのと呼ばれ、ただでさえ忌まれている。加えて、無差別に人にうつる病だと言われれば小柴がこの屋敷でこれまでのように暮らしていけるとは思えなかった。
幸い、小柴は夜の咳を気にして一人で寝ているという。ならば口に出さずに済む方法もありそうだ。
「なら──言い方を変えてやるといい」
「言い方?」
「休むのも勤めのうちだと言ってやれ。無理をして倒れられたら、それこそ皆の手が取られる。今のうちに養生して、長く働けるようになれ、とな。そう言えば小柴も多少は聞くかもしれん」
「……なるほどねぇ。でも初めて聞いたよ、そんな考え方」
「それとな、寝起きしている小部屋だが。昼の間は障子を開けて日を入れ、風を通してやるべきだ。夜は衝立で風を遮り、火鉢と薬缶を用意すると尚良い。埃や冷気は肺に障るからな」
お茂は驚いたように、まじまじと源一郎を見た。医者とまでは言わないが確かな知識──自信を持って話をしていたからだ。
「なんだい、旦那。医者みたいなことを言うね」
「だとしたら、藪だろうがな。食事も出来れば精のつくものがあるといいのだが……卵に、豆──豆腐でも納豆汁でもいい。それに油の多い魚。飯は粥にすれば腹に良い。安静にして、天気のいい日は日向に出る。労咳の養生には、それが一番だと聞く」
「卵に魚かい……そりゃあ、それだけあれば精はつくだろうけどさ……」
お茂は言い淀んだ。卵など病人でもなければ口にしない品である。それを頻繁に口にするとなれば、台所を預かる身として考えぬわけにはいかないのだろう。
源一郎は懐から紙入れを出し、一分金を三枚抜いて、お茂の手に握らせた。
「だ、旦那っ? こいつは……」
「親分からの小遣いさ。小柴だけでなく、皆の膳にも回してくれ」
辰五郎からは月あたり一両貰うことになっているが、源一郎は特に使い道もなかった。元々、受け取るのに抵抗のあった金だ、手放しても何も惜しくはない。
お茂は手の中の金を見て言った。
「三分も……豆腐に卵と魚なら、ひと月は賄えるよ」
「そうか。なら、ひと月食わせてやってくれ」
お茂はしばらく黙っていた。それから、ふっと笑った。
「旦那は……変わってるけど、やっぱり男前だねぇ」
「そうだろう、よく言われる」
「ハハハ、分かったよ。ちょうど今朝、浜でいいイワシが揚がってたからね。今夜はそいつを煮付けて、あの子には卵とじの粥を拵えてやろう。しっかり休めってことも、あたしから上手く言っとくよ」
「頼りにしてる、お茂さん」
「ハァ……まったく……男前ってのはそれだけで罪だねぇ。とんだ女たらしじゃないかい」
源一郎は笑ってその場を後にした。
豆に卵に海魚、粥に日の光。お茂にはもっともらしく並べてみせたが、それで病が寛解するわけではない。せいぜいが病に耐える力を体に貯めさせ、いくらか先へ延ばすだけのことであろう。
源一郎にできるのは、それくらいしかなかった。
§
日が暮れて、離れに膳が運ばれてきた。
運んできたのは小柴であった。
源一郎は眉を寄せた。膳を置く小柴の息は浅い。ひと息つくごとに、喉の奥がかすかにひゅうと鳴っている。
「寝てろと言われなかったか」
「お茂姐さんから、聞きました」
小柴は膳を置き、少し困ったように笑った。
「昼の間、お休みをいただけるそうで。私などにもったいないことでございます……けれど、旦那のお世話は親分さんから仰せつかったあたしの役目ですから。せめて、これくらいは……」
膳の上にはイワシの煮付けが載っていた。生姜の香りが湯気に混じっている。
「旦那のお膳にも、と。お茂姐さんが」
「お前の分はあるのか」
「はい。加えて、あたしには卵とじの粥を」
小柴はそう言って、少し目を伏せた。
「……ありがとうございます」
小さな声であった。誰が卵の代金を払ったのか聞いたのだろう。
源一郎は何も言わず箸を取った。煮付けを一切れ口に運ぶ。生姜の効いた煮汁にイワシの脂がよく馴染んでいた。
小柴は膝を揃えたまま、源一郎が箸を進めるのを見ていた。やがて、思い出したように口を開く。
「昨夜は、お帰りが遅かったようでございますが……」
「ああ」
「どちらまで、お出かけに?」
「歩行新宿だ。海辺の船宿でな、賭場をやっている。勘蔵という元締めの店だ」
色の白い小柴の表情が強張り、すっと血の気が引いて青ざめた。
膝の上で揃えていた手が震えている。それを抑えるように、指を固く組み合わせた。唇が何か言いかけ、そのまま閉じる。
「……そう、でございますか」
かすれた声であった。
小柴が急に咳き込んだ。袂で口を押さえ、背を丸めて咳き込むも止まらない。息を吸おうとするたびに喉がゼェゼェと鳴り、細い肩が苦しげに上下する。
源一郎が手を伸ばしかけると、小柴は首を振ってそれを制した。
ようやく咳が収まっても、すぐには息が整わない。小柴は手をついて頭を下げた。
「……申し訳、ございません。お膳は、後で……下げに参りますので……」
言葉の合間にも喉が鳴る。
顔を上げぬまま立ち上がり、小柴は渡り廊下を戻っていった。その足取りは早く、まるで逃げるようである。
源一郎は箸を置いた。
宿場の、とあるお店に──。
あの夜にそう言った時にも、どこか小柴は心ここに在らずな様子であった。そして今、歩行新宿と聞いた途端に表情を強張らせた。
源一郎にとってそれは、よく見知った顔つき──怯え、恐れを抱いている者の顔であった。