夜も更けた頃、渡り廊下に微かな足音──手燭の灯りが揺れていた。
源一郎は膳を脇へ寄せ、火鉢に当たっていたところであった。膳のイワシの煮付けは骨だけが皿に残っている。
小柴は濡れ縁に膝をつき、障子の外から声をかけた。
「お膳を下げに参りました」
声はまだ少し掠れていたが、大分落ち着いているようだった。障子を開けると、小柴は手燭を脇に置いて深々と頭を下げた。
「先ほどは……とんだ失礼をいたしました」
「気にするな。外は寒いだろう、少し当たっていけ」
源一郎が部屋の中の火鉢を顎で示す。前にもこうして小柴を火鉢の傍に呼んだことがあった。小柴は少し迷うように膳と源一郎を見比べていたが、やがて濡れ縁から上がり火鉢の傍に膝を揃えた。
──炭の上に手をかざす。痩せ細った指の先が赤く色づいていく。
しばらく、どちらも口を開かなかった。ぱちりと炭の爆ぜる音だけが部屋に響く。
先に口を開いたのは小柴であった。
「……旦那」
「どうした」
「旦那は、あの方達の……お知り合いなのでございますか?」
炭の火を見つめたまま小柴は言った。膝の上の手が固く組み合わされている。
源一郎はすぐには答えなかった。
夕餉の折、勘蔵や歩行新宿の名を出した途端に小柴は青ざめた。だが、あれが勘蔵その人に向けた怯えなのか、それとも歩行新宿という土地の奥に巣くう何かに向けたものなのか、源一郎にはまだ判断がついていなかった。
分かるのは、辰五郎の客分が歩行新宿の空気の残り香をこの屋敷に持ち込んだ、その事実が小柴を怯えさせるには十分だった、ということだけである。
「まさか」
源一郎は遊び人源太の口ぶりで言った。
「少し覗いてみたかっただけさ。親分と張り合ってる勘蔵って男がどんな面をしてるのか。盛りの賭場の空気がどんなもんか。歩行新宿の連中がどんな顔して遊んでるのか。一度この目で見ておきたくてな」
「……」
「そうしたら当の勘蔵が出てきて、酒を注がれてな、うちへ来ないかときたもんだ」
「……それで旦那は」
「断った。きな臭い奴だというのもあるが……辰五郎の親分に腕を貸すと決めたばかりだからな。俺もそう薄情じゃねぇよ」
小柴の肩から、わずかに力が抜けた。それでも不安から組まれた指はほどけない。源一郎は火箸で炭を寄せた。
「……そう、ですか。いかがでございましたか。あちらの賭場は」
小柴が小さく訊いた。関わりたくはない、しかし訊かずにもいられないという声。
「あぁ──。確かに、勢いも活気もある場所だった。だが、そこで嫌なもんを一つ見たよ」
「嫌なもの……」
「三吉とか呼ばれてる職人が一人いてな。負けが込んで勘蔵に金を借りてたんだが……どうにも娘を借金の形にしたみたいでな。蛇みてぇな目をした男が出てきて、言うんだ──娘を奉公に出せば、借金は帳消しにしてやる、ってな」
小柴の指が、ぴくりと動いた。
「今朝方、親分に聞いたがな、元は女衒を生業にしていた巳之助というんだそうだ。その蛇の目の男は」
小柴の顔から血の気が引いていくのが分かった。膳を運んできた時とはまた違う。唇を固く引き結び、組んでいた指をほどいて膝の上の着物をきつく握りしめていた。
「……目は」
絞り出すような声であった。
「もしや、その人の目は……白目の多い、切れ長のものではありませんでしたか……?」
「ああ……? そんな目だったが」
小柴は目を閉じた。
長い間そうしていた。喉がひゅう、と鳴る。激しい咳が出るかと源一郎は身構えたが、小柴は袂で口を押さえて堪えた。
「……その人は多分」
やがて目を開け、小柴は言った。
「あたしを、この品川に連れて来た人です」
二
「……そいつは一体、どういうことなんだ」
「はい──少し長くなりますが、聞いていただけますか」
小柴は、ぽつりぽつりと自らの素性を話し始めた。
生まれは相州の在、田畑の他には何もない山の際にある小さな村であった。
「もう、十年ほど前の秋でございました。あたしは十五で……村の鎮守さまのお祭りの晩だったと記憶しています」
在方の娘が夜に出歩けるのは祭りの晩くらいのものである。境内には篝火が焚かれ、近くの村からも親類縁者、祭礼の手伝い、娯楽と若衆の見合い目的に多くの人が集まっていた。参道には縁日の屋台も並ぶ。村にとって年に一度のハレの日だった。
「小間物の屋台がございました。櫛や簪や、色の綺麗な紐を並べて。売っていたのは物静かな、愛想のいいおじさんで……」
でも、そのおじさんは、と続く。小柴は震える指先で、唇に紅を引くように自分の口の端から頰にかけてなぞった。
「ここが、こう……大きく裂けているんです。古い傷なのでしょう。笑うと片方の口だけが、耳の方まで上がるように見えて。でも、その時はちっとも怖くはございませんでした。声が優しくて、女子どもにはおまけをくれて……」
小柴は目を伏せ、息をついた。過去の行いを悔いるような溜息。
「……もっといい櫛が裏に置いてあると言われたんです。お社の裏の縁の下に隠してあるから特別に見せてあげる、と」
そこで小柴の言葉は途切れた。呼吸と怯える心を整えているのだ。
源一郎はその先を待った。
「……社の裏について行くと、頭から袋をかぶせられました。叫ぼうとしたら、口を押さえられて。それきり、何が何だか分からなくなって」
暗転。次に気がついた時、小柴は狭く暗い箱の中にいたと言う。手足を縛られ、口には布を噛まされていた。分かることと言えば大きく揺れていること、すぐ近くで人足の掛け声が聞こえること──入れられたまま、どこかへ担がれている。長持──運搬具でもある大型の木箱に押し込められていたのだと知ったのは後になってからだった。
「長持から出されたのは、夜の川辺でございました。そのまま舟に載せ替えられて、上から筵を被せられました……」
舟には他にも人がいた。
「まだ小さな子たちでした。十くらいの……もっと小さな子もいました。四人か、五人か。その子らは背負い籠に入れられて、上から菜っ葉や古着を被せられて運ばれてきたんです」
「……」
「今でも覚えています。皆、泣き疲れたのか、怯えきったのか、ぐったりしてて。それでも父母を思い出したように泣く子がいて……そのたびに筵の上から叩かれて、そのうち泣かなくなるんです」
昼は止まり、夜に進んだ。舟を下りてからも幾日か人目を避けるように運ばれた。どれほどの日数がかかったのか、現実を受け止められずにいた小柴には分からなかったという。
「どこかの宿の奥座敷に入れられました。そこへあの男が来たんです」
小柴の声が細くなった。
「手燭を持って、あたしたちの顔を一人ずつ照らして検分していきました。こう、顎を指で持ち上げて、右を向かせて、左を向かせて……口を開けさせて……あとは何も言わずに、ただ、じっと見ているんです。白目の多い、切れ長の恐ろしい目で」
源一郎は賭場で見た男の、人を物の価値で測るような目を思い出していた。
「見終わって、その人が言いました。この娘は品川へ。子らは西へ、と。それだけ」
「西へ?」
「はい。次の朝には、小さな子たちはいなくなっておりました。どこへ連れて行かれたのか、あたしは知りません。でもきっと碌な事ではないのでしょう……」
小柴は袂の端をきつく握った。
「あたしは十五でしたから、自分の村の名も、相州という国の名も覚えておりました。でも、あの子たちは……自分の名と、親の顔くらいしか分からないような年の子もおりました。どこから来たのかも言えない子が、どうやって家に帰れましょう」
源一郎は答えられなかった。
「あたしの生まれた村では、子供が消えると隠し神に連れて行かれたと申しました。夕暮れに袋を担いだ何かが来て、遅くまで遊んでいる子を攫っていくって。小さい頃、おっかさんによく脅かされました。早く帰らないと隠し神が来るよって」
小柴が微かに笑った。笑ったように見えた。
「だから……あたしも、国ではとっくに隠し神に連れて行かれたことになっているのでしょう」