「品川に着いてからは、汐見屋という店に入れられました――」
源一郎は思わず顔を上げた。
「汐見屋……歩行新宿の、汐見屋か」
「ご存じなので……?」
「……名前だけはな」
源一郎は短く答えたが、胸の内には部下の顔が浮かんでいた。田沼新吾――奴が通い詰め、入れ込んでいるお駒という女のいる店。あの時に、新吾当人も言っていた、女衒に買われた可哀そうな娘だと。
そんな店に、この小柴もいたと言う。
これは偶然か。
「……すまん。続けてくれるか」
「はい──。店に入れられて、その時初めて、自分が売られたという証文を見せられたんです」
源一郎の様子に不思議なものを感じつつも小柴は続けた。
「おとっつぁんがあたしを売ったという証文でございました。金も既に受け取っているという証となるもの」
しかし、そこで小柴は首を振った。
「でも、そこに書かれていたのは、おとっつぁんの名ではありませんでした。村の名も違う。それどころか、あたしの名でさえなかったんです」
「お前の名さえも違ったと?」
「はい……武州の聞いたこともない村の、あたしの知りもしない男の娘の名のようでした。その男の名の横には爪印まで捺してあって、証文自体は本物のように見えました」
「……」
「店ではその日からずっと、あたしはその見も知らぬ娘ということにされたんです。……あの日、あたしはどこの誰になってしまったんでしょうね」
小柴は寂しげに笑った。
――話を聞きながらも、源一郎にはその絡繰りが読めていた。
証文は、実際にあるどこぞの村で拵えられたものだろう。その村の人別帳には確かにその男と娘の名が載っている。だが、その娘はもうこの世にいないか、初めからどこにも存在しない。
死んだ娘の名を帳面から消さずに残しておいたか、それとも架空の娘が生まれたことにして『育てて』おいたのか。いずれにせよ、計画的であり、名主か寺か……村の帳面を預かる誰かが手を貸していなければできないことである。
あとはその名で身売りの証文を作り、村から人別の送り状を合わせて出させればよい。攫ってきた娘は、紙の上では親に売られてきた武州の百姓の娘となる。宿場の人別にもそのまま載ることになり、誰が改めても帳面上に齟齬はない。
前世の言葉で言えば、戸籍のロンダリングの一種か――。更に言えば、店では源氏名が与えられ、素性を二重に覆い隠すことで発覚を予防できる。小柴は他人の名を着せられたまま十年を生きてきた。本当の名を奪われ、生まれた村も、親の名も、誰にも知られぬままに。
そして、こうした偽装の仕掛けは繰り返されるものだ。
「名が違うと、訴え出る者はいないのか?」
「……宿場では、毎年人別の改めがございます。店に抱えた飯盛女が一人ずつ名を確かめられるんです」
品川を含めた内藤新宿、千住、板橋の四宿は岡場所としての性格を暗黙の了解として幕府からも見逃されていた。しかし、それでも宿場町の飯盛女の数は定められ、人別の改めも厳しく行われていた筈であった。
だが――。
「……改めのお役人さまは、旅篭屋の旦那さまとはご昵懇で。いつも奥でお酒を召し上がってからお帰りになっていました。飯盛女の数も見逃されていたのです。お役人さまはあたしたちの味方ではない――だから誰も、本当のことは言えませんでした」
娘を攫う者、他人の名で証文を拵える者、村の帳面を預かりながらそれに手を貸す者、宿場の人別を改める側にも目を瞑る者もいる。悪行の連鎖はどこまで繋がっているのか――いや、それだけではない。一つ一つの悪行を結び付けることで利する者がいるのだ。
しかし、事に役人が絡むとなれば火盗改の手だけでは済まない。いずれ目付筋の耳にも入れねばならない事態だ。
「その武州の村の名は、覚えているか?」
「忘れようにも……毎年、読み上げられていましたから」
小柴はその村の名を口にした。源一郎はそれを胸に刻んだ。その村の人別帳を開けば、この一件の絡繰りの尻尾が掴める。
「本当のことが言えないから……初めのうちは逃げようと思いました」
「初めのうちは、か」
「……はい。他の逃げようとした子が捕まって、ひどい目に遭わされたんです。連れ戻されて、皆の前で……。それから、旦那さまに言われました」
小柴の声が主の口ぶりをなぞるように低くなった。
「生まれた村の人別から、お前たちの名はとうに消えている。ここを出たら、お前たちは一生無宿だ。手形も出ない、関所一つ越えられない、仕事だって貰えない。帰る場所なんぞ、どこにもありゃしないんだよ、って」
障子の外で、風が鳴った。
「それを聞いて、皆、逃げなくなりました」
――多分、みんな無駄だって諦めてしまったんです。
小柴のいた汐見屋には……同じような女が幾人もいたという。在方の生まれで、拐かされ、お前は親に売られたのだと言い聞かされ、心の内でも帰る里を失った女たち。
「あたしも……諦めてしまいました」
小柴は炭の火に目を落としたまま言った。
「泣いても、帰りたいと言っても、どうにもならないんですもの。……それでも何とか生きてこられたのは、傍にお蔦姐さんがいてくれたから……」
その名が出た瞬間、炭を寄せていた源一郎の火箸が止まった。