「……お蔦」
「あたしの姉女郎のような人です。あたしより三つほど年上で。店に入ったばかりのあたしに、色々と教えてくれた人。客のあしらい方や宥め方、泣きたい時にどこで泣けば叱られないかも」
小柴の声に初めて柔らかいものが混じった。
「お蔦姐さんも、あたしと同じような境遇の人でしたから。だから、あたしの気持ちが分かっていたんだと思います」
「……」
一瞬の間。源一郎はすぐに次の言葉を継げなかった。
お蔦。どこかで耳にした名だと思った。だが、どこで聞いたのだったか──世間は広い。同じ名の女などいくらでもいる。
「そのお蔦姐さんは今どうしてるんだ? 元気にしてるのか」
努めて軽く訊いた。小柴の顔から、柔らかなものがすっと消え、儚げなものへと戻る。
「……いいえ。もう、店にはおりません。身請けされた、と……聞かされました」
「聞かされた、とは妙な言い回しだな」
「……はい」
小柴はしばらく黙っていた。
「お蔦姐さんには熱心に通ってきてくださる馴染みの旦那がいたんです。いつか必ず迎えに来ると言ってくださった方で、その方からいただいた守り袋を、お蔦姐さんは肌身離さず持っていました」
だが……年季明けが近づいた頃、お蔦に身請け話が来たのだという。
「旦那さまの口添えで、さる大店の御隠居が身請けをしてくださると。お蔦姐さんは黙って聞いておりましたけれど……受けるとも申してはおりませんでした」
それから幾日もしないある晩、お蔦は話があると主に呼ばれて店を出ていって……
それを最後に戻ることはなかった。
「翌朝、旦那さまが、お蔦は夜のうちに身請け先へ発ったと仰いました。急な話で、皆に挨拶もさせられなかったと。妹女郎だったあたしにも、一言の別れもなく」
その後、相部屋だった小柴が残されたお蔦の荷物を整理することになり、鏡台の引き出しを開けた。
「そうしたら、その守り袋が一つきり、そこに置いてありました」
小柴は懐に手を入れた。
取り出したのは小さな守り袋であった。古びた小さな巾着で、紐がすり切れている。
「あんなに大事にしていたのに、と思いました。それで……ああ、お蔦姐さんは心残りを捨てていったんだと……そう思うことにいたしました。旦那さまの口添えとあっては端から断れるはずもございません……別の方のものになるのだから、あの方のことは忘れようと、ここに置いていったのだと」
小柴は守り袋を両の掌に載せ、じっと見つめた。
「でも……姐さんは、あたしにまで何も言わずに行くような人ではございません。それに、その後の便りもないのはおかしいのです……」
馴染みだった男は、その後に一度汐見屋を訪れた。だがお蔦は身請けされたと聞かされ、呆然と帰っていった。男はその日を境に来なくなった。
「……お蔦姐さんだけじゃない。似たような話は他にもあって……年季明けが近い人に限って身請けの話が来て、受ける人もいれば断る人もいて……断ろうとした人は夜のうちに店を発って、それきり。皆、本当は……」
小柴はそこで言葉を呑んだ。
源一郎には、その先が分かった。
拐かされてきた娘が年季が明けて故郷へ帰れば、親は娘を売ることなどしていないと言うだろう。訴え出れば他人の名で揃えた証文も、偽装した人別も露見する恐れがある。
拐かしは死罪である──故に取り返しのつかぬ事になる前に、年季明けの近い女を身請けに見せかけて消す。
身請けと言えば、店の人別帳から名が消えても誰も怪しまない。人別を改める役人が目を瞑っているのなら、なおのことである。
「そのお蔦がいなくなったのは、いつ頃か覚えているか」
「二年前の……秋の終わりでございました」
二年前。
妖宿の夜のこと──源一郎は浜に打ち捨てられた舟を思い出した。その縁に座り、ただ海を眺めていた骨女。そうだ。ろくろ首のお縫はあの女をお蔦と呼んでいた筈だ。確か二年くらい前に、浜に遺体が流れ着いてから現れるようになったと。
曰く──帰りたい、と同じ言葉を繰り返す女だと。
火鉢の炭が、ぱちりと爆ぜた。
§
「あたしは運が良かったんです」
小柴は守り袋を見つめたまま言った。
「年季明けまではまだ間があって、でも、その前に血を吐くようになって。終いには客も取れなくなって……旦那さまは、この女はもう長くない、労咳の女がいては客が逃げると……あたしを店から厄介払いしました」
荷物をまとめる暇もなく、着の身着のまま品川宿を歩く。行く当てもなく、病の身で行き倒れかけていたところを辰五郎に拾われた。
「病のおかげで生き延びられたんです。おかしな話でございましょう……」
小柴は笑おうとした。しかし、うまく笑えず、また咳が始まった。堪えきれず、背を丸めて咳き込む。喉がひゅうひゅうと鳴り、薄い背中を強張らせる姿が痛々しい。
源一郎は黙ってその背をさすった。今度は拒まれなかった。
ようやく咳が収まると、小柴は肩で息をしながら守り袋を懐に戻した。袷の上から、そっと手を当てる。
「これは、あたしの最後の役目。いつか、お蔦姐さんの好いた旦那を探して、お返ししたい。それに伝えてあげたいのです。お蔦姐さんは、あなたを待っていたって」
それから、小柴は源一郎を見上げた。
「旦那……どうか、お気をつけください。あの人たちには関わらないでくださいまし」
「……」
「旦那がお強いのは存じております。でも……あの人たちは刀で斬り合うような相手とは違います。笑って、優しい声で近づいてきて、気がついた時には絡め取られているんです」
源一郎は答えなかった。
小柴もそれ以上は何も言わずに膳に手を伸ばした所で──その手が止まった。
膳の縁を掴みかけた指が震えている。
寒さのせいではない。十年のあいだ胸の底に沈めてきたものを、小柴は今夜、人の前で口にしたのだ。
──巳之助の目、祭りの夜の社の裏、筵の下で泣いていた子らの声。
前世の言葉で言えば、心的外傷というものだろう。言葉にした途端、仕舞い込んできたそれらは過ぎた昔ではなくなり、昨日のことのように思い出される現実となる。
「……旦那」
俯いたまま、小柴が言った。
「少しだけ……ほんの少しだけで、いいんです……」
その先が、喉の奥で途切れた。
「肩を……抱いて、いただけませんか」
怖くて仕方ないのです──。
言ってしまってから、小柴ははっとしたように顔を上げた。
「ご、ごめんなさい。あたし、何を……忘れてくださいまし。今のは──」
源一郎は応える代わりに腕を伸ばし、小柴の肩を引き寄せた。
着物の上からでも背の骨が数えられるような、手折れそうなほど細い体であった。抱き寄せた途端に小柴の体がびくりと固くなり、それから堰が切れたように崩れた。源一郎の胸に額を押しつけ、声を押し殺して泣いた。泣きながら咳き込む。喉の鳴る音が、胸に直に伝わってきた。
この病が人から人へうつることを、源一郎は知っている。
それでも、腕を解こうとは思わなかった。
十五で拐かしに遭い、親に売られたことにされ、生まれた村にはもう名も残ってはいまい。姐と慕った人も消え、病を得て店を追われ、拾われた先でも、働かなければ居場所を失うと思い詰めている。お蔦を失ってこのかた、この小柴には寄りかかれる者が一人もいなかったのだ。
源一郎は何も言わず、ただ小柴の背を撫でていた。
どれほどそうしていたか──。やがて嗚咽が小さくなり、咳も収まった。小柴はそっと源一郎の胸から身を離し、袂で目元を拭った。
「……とんだ、お見苦しいところを」
「見苦しかねぇさ。こんなことしかできねぇ自身が憎いだけだ」
泣き腫らした目のまま、小柴は小さく笑った。それでも今夜初めて肩の力の抜けた顔をしていた。
膳を取って立ち上がり、手燭を載せる。指先の震えは治まっていた。
「長居をいたしました。では……お休みなさいまし」
「小柴」
「はい」
「無理をするな」
小柴は少し目を瞬かせ、それからもう一度淡く笑む。
「ありがとう存じます、源太さま」
手燭の灯りが渡り廊下を遠ざかっていく。途中で一度、小さく咳き込む音がする。
源一郎は、その灯りが母屋の角に消えるまで見送った。
「女とは、どうしてあんなにも強くいられるのか──」
ポツリと呟き、壁に掛けた羽織を取った。
急ぎ外に出る用事が出来た。夜の浜には、今夜もあの者が座っている筈であった。
これにて仕舞い!
いつも読んでいただき、誠に感謝御礼。
ありがてぇ、ありがてぇ。
ついでに以下、さりげなく紹介。カクヨム様に置いてあるホラーコメディ?です。私の古い友人を内緒でモデルにした話になります。
『うちの家族は誰も見えないくせに、噂を聞くとすぐ心霊スポットに突っ込んでいく』
https://kakuyomu.jp/works/11054822663664868166