辰五郎の屋敷を出ると、夜風が頬を撫でた。
屋敷周辺は静かなものだが、宿場の通りはまだ明るい。軒の提灯が赤く連なり、二階の窓からは三味の音と賑わいがこぼれてくる。源一郎はその賑わいを背に北品川の街道沿いに歩いた。
妖宿は以前来た時と変わらぬ佇まいでそこにあった。
暖簾も出ており、店前の行灯にも火が入っている。だが道行く者はまるで視界に入っていないかのように誰一人としてその店に目を留めず、ただ前を素通りしていく。源一郎だけが足を止め、その暖簾を潜った。
「へぇ、いらっしゃいまし……おや」
土間の帳場から手代が揉み手をしながら出てきた。小柄で背を丸め、足音がほとんどしない鼠のような男。揉み合わせる両の手の指は、どちらも四本しかなかった。
「これはこれは、旦那さま。また日を置かず、お越しいただけるとは」
「お縫はいるか」
「へぇ、お縫でしたら二階に」
「今夜のあいつの時を買いたい」
源一郎は懐の道中財布を取り出し、一分金を抜いた。辰五郎から渡された手当の最後の一枚である。
手代の目が灯りの下で怪しく光った。四本の指が素早く伸び、一分金をつまみ上げる。裏を返し、表を返し、指の腹で縁をなぞる。銭を検める手つきを見るに、どうにも卑しく映る。
「へへ……確かに。ただいまお呼びいたしましょう」
手代が奥へ引っ込むと、ほどなくして階段の上から声が降ってきた。
「おや」
見上げると、階段の上の暗がりから逆さまになった女の顔が階下を覗いていた。見えるのは顔だけである。体は見えず、首だけがぬるりと伸び手摺りを越えて、垂れ下がってきた。
「呼ばれても来てみれば、あんたかい。どうしたのさ、こんな夜更けに。辰五郎んとこの用心棒に収まったって噂で聞いたけど、もう追い出されちまったのかい」
「まだ追い出されちゃいないさ。お縫、お前に少し話がある」
お縫は源一郎の顔をじっと見た。それから首を引っ込め、改めて人の姿で階段を下りてきた。
「……上がりな。寒いだろ」
§
お縫の座敷で、源一郎は小柴から聞いた話をかいつまんで伝えた。
汐見屋に在方から攫われ、店に入れられた女を実際に見つけたこと。他人の名で拵えられた証文と、人別のすり替えと偽装の手口。年季明けの近い女が身請けを口実に消えていくことの実態。そして、二年前の秋の終わりに消えた、『お蔦』という女のこと。
お縫は火鉢の炭を火箸でいじりながら、黙って聞いていた。
「浜の骨女と話がしたい」
源一郎が言うと、お縫は火箸を止めた。
「あの子と、かい」
「ああ」
「話になるかねぇ……」
お縫は小さく息を吐いた。
「前にも言ったろ。あの子は帰りたいって、それくらいしか言わないんだよ。あたしらが話しかけても、ろくに返事もしやしない。二年もあそこに座ってて、まともに口を利いたのは数えるばかりだ。期待はしない方がいいと思うけどねぇ」
「それでもいい。……それに、手がない訳でもない」
へぇ?と、お縫はしばらく源一郎の顔を眺めていたが、やがて肩を竦めて立ち上がった。
「しょうがないね。あんたはあたしの時を買ったんだ、付いてってやるよ。あんた一人じゃ、あの子も怖がるかもしれないからさ」
§
台所の勝手口から裏の細い路地を抜けると、石垣の向こうに海が開けた。
品川の海は遠浅である。潮が引けば沖のずっと先まで干潟が現れる。弥生の大潮の頃ともなれば江戸中から人が繰り出した。
浜の際は掘りに来た者でごった返し、貝もすぐに掘り尽くされてしまう。そこで懐に余裕のある者は朝のうちに舟を雇い、人の手の入らぬ沖の洲を目指して漕ぎ出す。
舟の上で潮の引くのを待ち、やがて舟底が砂につけば干潟へ降り立つ。蛤や浅蜊を掘り、潮溜まりに取り残された小魚を追い、持ち込んだ酒肴で宴を開く。潮が満ちてくれば舟に再び乗り、人々はそれに乗って獲物とともに帰っていく。
着物の裾を捲り上げた老若男女が砂を掻き、子供らが歓声を上げる。笑い声が浜一面に満ちる品川の春の風物詩であった――。
とは言え、今は潮干狩りの季節も外れ、その賑わいの影も形もない。
冬のこの浜は海苔の季節である。
秋口に浦の者たちが遠浅の海へ篊――葉を落とした樫や欅の小枝を立て並べ、寒さが増すほどにその枝に付いた海苔が育っていく。漁師町の海苔師たちは潮を見計らって小舟で篊の間へ漕ぎ入り、凍える海に手を浸して摘み取る。摘んだ海苔は陸で刻まれ、紙を漉くように簀に流して干し上げられる。
そして、おかしなことに品川の海で育っても売られる名は浅草海苔である――。源一郎はそこに人の世の過去も未来も変わらないものを見た気がしていた。
――そうつらつらと思い浮かべながら、源一郎は品川の海を眺めた。
潮が引いていた。干潟が黒々と沖まで広がり、ところどころに残った潮溜まりが星を映している。篊の列が闇の中に幾筋も並び、その向こうから寄せては返す波の音が遠く聞こえていた。
その手前に、底の抜けた舟が一艘打ち捨てられている。
舟の縁には女が一人座っていた。
女物の着物。だがその姿はどこか淡い。袖から覗く手は肉のない骨ばかりで、襟から上も白い骨であった。その頭蓋が、じっと海の方を向いている。
源一郎は石垣を下り、草履を脱いで軽く砂を払うと懐に入れ、干潟に足を踏み入れた。師走の凍えるような砂泥が足の裏に吸いつき、指の間に滲みてくる。お縫が少し遅れて後に続いた。
舟の傍まで来ても、骨女はこちらを向かなかった。
『……かえりたい』
聞こえてくるのは声とも、風の音ともつかぬもの。
『かえりたい……』
源一郎は舟の縁から少し離れたところに立ち、海を見る女──白い頭蓋ばかりの横顔を見た。
「汐見屋のお蔦――お前、汐見屋のお蔦なのだろう?」
『……かえりたい』
源一郎が声を掛け――しかし、骨女は答えなかった。同じ言葉が繰り返されるばかり。お縫が後ろで、だから言ったろ、と小さく首を振る気配がした。
源一郎は少し間を置いた。それから、静かに続けた。
「小柴がお前の守り袋を持っている」
刹那とも思える静寂、一瞬だけ波の音が途切れた気がした。
「お前の鏡台の引き出しに残ってたのを小柴が見つけた。この二年、ずっと懐に入れて持ってる。いつかお前の馴染みの旦那に返す日まで、自分が預かっておくのだと言っていた」
骨の女の首が、ゆっくりと動いた。初めて海以外を認識したかのような挙動。
軋むような音がした。海を向いていた頭蓋が、少しずつ、少しずつこちらを向く。空ろな眼窩が源一郎を捉えた。
『……こ、しば……?』
かすれた声であった。だが、さっきまでとは違う、確かに意思の感じられる言葉であった。
『こしば……が……』
「ああ」
『……いきて……』
「生きてる。労咳でな……小柴は病を得て汐見屋を追い出されたのだ。今は牛頭の辰五郎の屋敷で飯を炊きながら養生している」
お蔦はしばらく源一郎を見ていた。骨の指が着物の膝の上から動いた。戸惑うように、大事な何かを思い出したかのように。
後ろでお縫が息を呑むのが聞こえた。
「……あんた、喋れたんじゃないか」
お縫が呟いた。お蔦はお縫の方へは顔を向けなかった。
「守り袋は、お前が置いていったものか?小柴は、お前が身請けを受けるにあたり、心残りを捨てるために置いていったと言っていた」
源一郎は訊いた。お蔦の顎が、微かにかたかたと鳴る。
『……ちが、う』
骨の手が自分の胸元へ上がった。着物の襟の合わせ目の、ちょうど守り袋を下げていたであろうあたりを押さえる。
『……とられ、た……』
「いったい誰に」
『……かくしがみ、の……おとこ、たち……』