『……かくしがみ、の……おとこ、たち……』
「隠し神……」
源一郎はその言葉を繰り返した。
今宵、離れの火鉢の傍で小柴の口から聞いたばかりの言葉である。夕暮れに袋を担いだ何かが来て、遅くまで遊んでいる子を攫っていく。小柴の生まれた相州の村では、消えた子をそう言い習わしていたという。
「お蔦。お前の国でも、そう言うのか」
骨の顎が、かたかたと鳴った。
『……むらの、こが……きえると……かくしがみ、って……あたしも……つれて、こられた……』
隠し神の正体は女衒の人攫いであると。途切れ途切れの声を、源一郎は黙って聞いた。
お蔦もまた、在方から攫われて汐見屋へ入れられた女であった。その男たちが、二年前の晩にもう一度お蔦の前に現れた。
「隠し神ねぇ……」
後ろでお縫が低く呟いた。
「人の世は恐ろしいもんだよ」
源一郎はお蔦の前に一歩寄った。
「二年前、何があった。お前が汐見屋から消えた晩のことを、聞かせてはくれないか」
お蔦の言葉は、話すことに慣れていないかのように途切れ途切れにしか出てこなかった。
一つ言っては黙り込み、また思い出したように一つ言う。そのたびに声は風に紛れ、聞き取れぬことも多かった。そういう時には、お縫がお蔦の傍らにしゃがみ込み何事か小声で語りかけた。妖同士だから通じる何かがあるのか、はたまた互いに女であるから通じるのか源一郎には分からなかったが。
お縫が語り掛けるとお蔦は、またぽつりと続きを口にした。
店主から言われていた身請けの話は断った、とお蔦は囁いた。
受ける気などなかった。年季が明けるまで、あの人を待つつもりだった、と。
しかし断ったその晩、話があると主に呼ばれた。店の裏口から外へ出され、待っていた男たちに浜の方へ連れて行かれたのだと。
『……あみごや、へ……』
「網小屋?」
源一郎が眉を寄せると、後ろでお縫が口を開いた。
「確か……歩行新宿の外れの浜に使われなくなった網小屋がある筈だね。漁師も滅多に寄りつかない、古いのがさ」
そこへ押し込まれた、とお蔦は言った。
『くち、の……さけた……おとこ……』
「……口の片端が大きく裂けた男か。表向き、物静かで愛想のいい男と聞く」
お蔦の頭蓋がほんのわずかに傾ぐ。
小柴を攫った男である。祭りの夜、櫛を餌に年頃の娘を社の裏へ誘い込んだ男が、八年の後、今度はお蔦を網小屋へ押し込んでいた。
源一郎は拳を握った。
「他には何か覚えていることはないか?」
お蔦の頭蓋が沖の方へ向いた。
『……おきに……ふねの……あかり……』
曰く――網小屋の戸口の向こう、沖に一艘の船が灯りを点して浮かんでいたという。灯りの傍らには黒い人影が一つ。顔までは見えなかった。ただ、その影は動きもせずにずっとこちらを見ているようだったと語る。
源一郎は沖の闇を見た。今は何もない。ただ篊の列が並び、その向こうに星明かりを照り返す黒い海が広がっているばかりである。
自らは手を下さず、離れたところから見届ける者がいる。源一郎の脳裏に浮かんだのは、賭場で見た蛇の目の男であった。小柴たちの顔を一人ずつ照らし、価値を検めると行き先を指示したという男。
――だが、それはこの場ではまだ推量に過ぎない。
「守り袋は、その小屋で取られたのか」
『……くびの……ひもごと……』
骨の指が、また襟の合わせ目を押さえた。
押さえつけられた折に、首に掛けていた紐ごと引き千切られたのだとお蔦は言った。返してと縋っても、男たちは見向きもしなかったと。
それまで肌身離さず持っていたものである。それが鏡台の引き出しに残っていたのなら、誰かが汐見屋へ持ち帰り、そこへ入れたと考えるのが自然だ。
――身請けを受けて心残りを店に置いていった、そう見えるように。
小柴がそれを見つけ、持ち続けた。それがお蔦の本当の心だと思って。
§
『……くる、し……くて……くるしくて……』
しばらくして、お蔦がぽつりと言った。骨の手が自分の喉元に触れる。
網小屋で何をされたのか。その先をお蔦は語らなかった。いや、それこそが死の直前の記憶になるのであろう。
『……きづいたら……ここ……』
骨の指が干潟を指す。気がついた時には、この浜にいた。この舟の縁に座り、海を見ていたと。
お蔦の遺体が浜に流れ着いたのは二年前。網小屋で命を絶たれた女の骸が、なぜ海から流れ着いたのか――恐らくは男たちが海に流そうとしたのだろう。
源一郎は、お蔦の見ている先を追った。
頭蓋が向いているのは遥かな沖ではなかった。もっと手前――干潟の切れるあたりに並ぶ篊の列に、じっと据えられているように見えた。
何を見ているのか。
源一郎は小柴の話を思い返した。熱心に通ってきた馴染みの旦那がいたこと。いつか必ず迎えに来ると言ってくれたこと。その男から贈られた守り袋を、お蔦は肌身離さず持っていたこと。
――その旦那は、今どこで何をしているのか。
「お前の待っていた旦那の名は」
お蔦はすぐには答えなかった。
沖の風が篊の小枝を鳴らした。
『……せい、じ……さん……』
初めて、その声に温もりのようなものが混じった。
『……あのひとは……のり、を……』
「海苔師か。品川浦の」
『……あれ……』
骨の指が沖を指した。闇の中に篊の列が並んでいる。
『……せいじさんの……ひび……』
源一郎は黙った。
お縫も黙っていた。
二年もの間、この女は毎夜ここに座り、あの篊の列を見ていたのだ。もしかしたら、旦那の働く姿も見ていたのかもしれない。そこに帰りたい、帰りたいと繰り返し願いながら。
あの男のもとへ帰りたい。けれど帰れない。生まれた国へも、もう帰れない。手を伸ばしても届かぬものばかりが、目の前の海に広がっている。
『……かえりたい』
お蔦がまた言った。お蔦の呟く、その言葉の意味を今度は源一郎にも理解できた。
――源一郎は、お蔦の前にしゃがみ込んだ。
空ろな眼窩と目の高さを合わせる。
「お蔦」
『……』
「守り袋は、必ずお前の旦那の元に返す。お前の本心とともに」
お蔦の伽藍堂の眼窩の奥に宿る意思がわずかに揺れた気がした。
「お前をここに座らせた奴らのことも、このままにはしておかん」
お蔦は何も言わなかった。ただ、骨の手がゆっくりと持ち上がり、源一郎の方へ伸びかけて、途中で止まった。指の骨がかすかに震え、それから膝の上へ戻り固く握られる。
お蔦は静かに海の方へ向き直った。
帰りたい、とも言わず、ただ黙って沖に並ぶ篊の列を見ていた。
§
石垣を上がったところで、お縫が足を止めた。
「あの子があんなに喋ったのを、あたしは初めて見たよ」
お縫は浜の方を振り返っていた。
「誰の声にも返事をしなかったのにさ」
「小柴――妹女郎の名前が効いたんだろう」
「それだけじゃないと思うけどね」
お縫は源一郎の顔を見上げた。
「──で。宿場町の縄張り争いに口を出す気はないって言ってたのは、どこの誰だったかね」
揶揄うようなお縫の声に、源一郎は答えなかった。
石垣の上から、江戸の方を見る。海岸線――宿場の灯りが緩やかな弧を描いて連なり、その先に歩行新宿の灯りが滲んでいた。汐見屋の灯りも、あの中のどこかに紛れているのだろう。
源一郎の部下である新吾が通い詰めている店。小柴が拐かされた先。お蔦が殺される起点となった場所。そして、お駒という女が今もあの灯りの下にいて、年季明けも近づいている。
――噂は噂ではなくなった。
拐かしで女を集め、どこともしれない娘の名を被せられ、空の借金を返すために体を売り続ける。その果てには身請けに見せかけた殺しが待っている。密やかに囁かれる噂が、小柴とお蔦の言葉により一本の筋で繋がった。
最早、品川に腰を据えつつ、あわよくば新吾を連れ戻せば済むという話では無くなっている。
「縄張り争いには、口を出すつもりはねぇさ」
源一郎が静かに言い――振り返ったその顔を見て、お縫は息を呑んだ。
灯りの乏しい石垣の上でも、それははっきりと見て取れた。眉間に深く刻まれた皺。目の奥底に燃える憤怒の青い火。固く引き結ばれた口元。人の顔でありながら、漂わせる気配は人とは思えない――静かに鬼気を纏い、悪鬼を切る覚悟を定めた相であった。
「天網恢恢疎にして漏らさず」
低い声であった。声を荒げたわけでもない。だがその声は冬の海よりも尚、冷たく底に響いた。
お縫は言葉を失った。当代の鬼切、その人の本性を垣間見る。人ならぬ身でありながら、その首筋にぞくりと冷たいものが這い上がった。
浜の方からは、遠い波の音が聞こえていた。