浜から辰五郎の屋敷へ戻った時には、東の空がわずかに白みかけていた。
離れに横になったものの、微睡むばかりで眠りは浅い。目を閉じると底の抜けた舟の縁に座る白い骨が脳裏に浮かんでくる。かたかたと鳴る顎、風音にすら消えかける途切れ途切れの声。
渡り廊下を踏む足音で目が覚めた。
「源太さま──お早うございます」
声がし、障子戸が開く。膳を運んできた小柴は濡れ縁に膝をつくと、源一郎と目が合ってから少しだけ照れたように目を伏せた。
「小柴か……今日は顔色がいいようだな」
「はい。昨夜は……あれから、よく眠れました。朝まで一度も目が覚めずに」
言い終えたところで、小柴は袂で笑みの浮かぶ口元を隠した。喉の奥はまだ微かに鳴っている。瞼には昨夜泣き腫らした名残があったが、膳を置く手はもう震えてはいなかった。
渡り廊下を戻る小柴の背を見送ってから、源一郎は膳の汁を啜った。
朝餉を済ませて母屋へ回ると、辰五郎は座敷の長火鉢の前で羽織を着込んで座っていた。
「親分。すまんが今日半日、江戸へ出てくる。置いてきた用を片づけにな。さほど長い用ではない、昼前には戻れる筈だ」
辰五郎は煙管を口から離し、源一郎の顔をほんの一息のあいだ眺めた。何も訊かず、顎を引いた。
「あっしも今日は南品川の寺で寄合でさ。年の市の場所割りの取りまとめってやつで、昼過ぎまでは戻れやせん」
「そうか。すまんが、留たちには今日は掛け取りに出るのを控えさせてくれ」
「へぇ。まぁ、昨日の今日だ。向こうもすぐには動けめぇ、伝えておきやしょう」
辰五郎は雁首を長火鉢の縁で軽く叩いた。
§
北品川を抜けると、そこから先が歩行新宿である。
勘蔵の船宿へ折れる路地の角に、茶屋が一軒ある。その床几には男が三人座り、茶も頼まずに通りを眺めていた。一人は長脇差を杖に気怠そうにしている。
──その隣の男に見覚えがあった。昨日、北の外れの掛け取りで留の胸倉を掴んだ若い衆である。
源一郎が茶屋の前を通り過ぎると、背中に視線が向けられる気配があり床几の軋む音がした。
八ツ山の坂へかかるところで、荷車を避けるふりをして振り返る。床几に残っているのは二人であった。内一人の背中が、船宿のある路地の奥へ消えていくところだけが見えた。
源一郎は坂の途中で足を止めた。
用心棒が宿場を離れたと……あの男は知らせに走ったのだろう。昨日、手下を転がされたばかりの勘蔵がそれを知って、ただ黙っているとは思えなかった。
引き返すべきか――。
だが辰五郎の屋敷には若い衆が大勢詰めており、勘蔵が仕掛けてくるとしても掛け取りの最中にだろう。そして、その掛け取りは留に控えさせた。用事もそう時が必要な訳ではない、遅くとも昼過ぎまでには戻れる。
平蔵への報せは、一日延ばせばそれだけ対応が遅れる。次に誰が網小屋へ呼ばれるか知れぬのだ。
源一郎は再び坂を上り始め、その足は自然と速まっていった。
§
高輪の大木戸を潜り、三田を抜けて麻布へ入る。品川から一里余り程度しかなく、急ぎ足で半刻ほどあれば辿り着く道のりであった。
門番の小者は、源一郎の姿を見ても今度は六尺棒を取り落としはしなかった。遊び人の姿を見ても眉一つ動かさず、黙って腰を折る。詰所の同心たちも同じであり、二度目ともなれば少しは慣れるものらしい。
──平蔵は留守であった。下谷で起こった押し込みの検分に出ており、昼には戻るという。
詰所は半ばが空であった。年の瀬は忙しいのだ。掛けの払いに困った者が盗みや付け火に走ることがあり、火盗改の者は昼夜を問わず出払っている。
源一郎は詰所の隅に腰を下ろして平蔵を待った。
詰所の外。廊下の角の向こうで、ひそひそと声がした。
「まぁ……渡辺様……あのような不埒な恰好で……」
「いかにお役目とは言え……与力様ともあろうお方が……」
奥向きの女中──武家奉公や行儀見習いに出て来ている同心与力の子女たちであった。愉しげに袖で口元を隠しながら、三人ともチラチラと源一郎を窺っている。源一郎が顔を向けると、わっと散って奥へ消えた。しばらくすると、また角の向こうに袖の端が覗いた。
源一郎は息をついて庭の方へ向き直った。
障子に差す冬の日が、じりじりと高くなっていく。
平蔵が戻ったのは、午の刻を回ってからであった。羽織を脱ぐ間もなく、書院へ源一郎を呼び入れる。
「待たせた。何だ、今日はからかう気にならねぇ顔だな。話せ」
源一郎は小柴から聞いたことと、浜で知り得たことを順に話した。平蔵は途中で一度も口を挟まなかった。
「殺しの現場となっている網小屋のことは誰から聞いた」
「さる筋から、とだけ。ただ、信用できる確かな筋にございます」
語り終えると平蔵はそれだけを訊き、しばらく源一郎を見ていたが……やがて、ふ、と鼻を鳴らした。
「お前の持つ筋は妙に当たるからなぁ」
平蔵は煙管に刻みを詰め、火を移した。
「宿場町の人別帳を洗うのは俺たちの役目じゃねぇ。だが勘蔵の賭場は博打改の兼帯で挙げられる。網小屋で女を手にかけるところを押さえりゃ、人殺しの罪も明らか。拐かしや人別帳の偽装を役人が目溢ししてるってんなら、そっちは後でおっかねぇ目付筋へ回すだけだ」
煙を吐き、平蔵は源一郎を見た。
「次に狙われるのは誰か心当たりはあるのか」
「分かりませぬ。ただ、消えているのは年季明けの近い女ばかり。新吾の――汐見屋のお駒も年が明ければ年季が明けます」
平蔵の手が止まった。
「……新吾の女か」
「はい」
平蔵は煙管を咥えたまま、しばらく煙を吐かなかった。それから煙管を煙草盆に置く。
「いいだろう。御用改めの支度を進めろ」
「はっ」
「だが、見ての通り今の時期、組の者はどいつもこいつも手一杯だ。熊造に、権助と本太郎。そのくらいなら回してやれるだろう。それ以上は当てにするなよ」
「……足りぬ分はいかがなりましょう。無論、改めが不可能とは申しませんが……」
「使えるもんは何でも使え。品川には腕っ節の立つ連中がいるんだろう?お前が用心棒に収まってる屋敷によ」
源一郎は答えなかった。平蔵は如何にも可笑しいとばかりに笑っていた。
「それとな、源一郎。新吾をどうするか決めておけ」
「……は」
「女の、お駒の命が懸かってるかもしれねぇ。新吾に知らせて一件に関わらせるのか、知らせずに事を済ませるのか。どっちに転んでも、あいつのこの先は変わる。品川であいつを見極めると決めたのはお前だ。お前が決めろ」
源一郎は膝の前に手をつき、深く頭を下げた。