役宅を出たのは既に正午過ぎ――未の刻に近い。大木戸を潜る頃には、日はもう頂点をとうに過ぎていた。
あの日、谷山稲荷の境内で、新吾は小料理屋の夢を語った。あの娘の生まれた故郷で、二人慎ましく暮らしてゆければ、と――。
新吾に声を掛けるべきか、それとも知らせずにいるべきか。知らせれば、未だ隠したままの新吾の素性はお駒にも伝わることになり──それはそれで一波乱起きることになるのだろう。歩みつつも、答えの出ぬまま歩行新宿へと入った。
朝いた路地の角の茶屋の床几には、もう誰もいなかった。茶屋の親父が愛想よく客の対応をしているばかり。
しかし、北品川へ入ると、通りの先が徐々に騒がしくなってゆく。妙な胸騒ぎ──北の天王社の門前に人だかりができていた。
ざわめく野次馬の群れを肩で掻き分けて前へ出ると、その光景が目に入る。
香具師の独占販売である特定の薬と香を並べた、辰五郎の床店が無惨に荒らされたいた。葦簀は引き裂かれ、台は脚を折られて斜めに傾いでいる。踏みにじられた香が土の上に撒き散らされ、破られた紙袋からは零れた丸薬が泥に混じっていた。荒らされたのは一件や二件ではないようだ、小間物屋の櫛や簪も参道の石畳に散らされている。
人垣のあちこちで囁き交わす声がした。勘蔵んとこの連中だってよ。昼日中に、よくもまあ。ここは門前じゃねぇか、辰五郎親分もいよいよ舐められたもんだ――。
裏手の溜まり場の方から、獣のような叫び声が上がった。人垣がどよめき、皆が首を伸ばす。
戸板の上で、若い衆が一人押さえつけられていた。右の腕が肘のところで妙な向きに曲がっている。骨接ぎの爺がその腕を両手で掴み、仲間が三人がかりで肩と脚を押さえていた。爺が腕を引き、若い衆が布を噛まされた喉の奥で叫び声をあげ、やがて途切れた。
その周りの地べたにも、若い衆が何人も座り込んでいた。額を割られて手拭いを押し当てている者、腫れ上がった顔を隠すように膝に埋めている者。
戸板の傍らに、辰五郎が屈み込んでいた。
落ち込んだ若い衆の肩を叩いてやり、立ち上がらせる。足元に櫛が一つ落ちていると、辰五郎はそれを拾い上げ袂で泥を拭い、片づけに働いていた売り子の女の手に握らせた。
顔を上げた辰五郎が、人垣の中の源一郎に気づいた。源一郎も野次馬を割って、空白となった空間に抜け出た。
「今お戻りで、旦那」
「あぁ──。死んだ者は」
「いやせん。腕を折られたのが一人、あとは見ての通りで」
辰五郎の声は平らであった。腰も低いままである。腹の内こそ分からないが、表面上は冷静で怒りは見て取れない。
「済まねぇ。まさか、こんなに早く……俺がいりゃあ」
「いや……潮時だったんでしょうや。それに元々やるつもりもあったんでしょう。旦那がいても、いなくても起こっていた、それだけのこってす。あっしが寄合から呼び戻された時にゃ、もう片がついた後でした。旦那の責じゃありやせん」
辰五郎は踏み砕かれた床店の跡に目をやった。
「引き上げ際に、口上を一つ置いていったそうで。辰五郎に言っとけ、いつまでも指くわえて見てると思うな、と」
源一郎は黙った。
朝の茶屋の床几が目に浮かんだ。茶も頼まずに通りを眺めていた三人。源一郎の背を目で追い、路地の奥へ消えていった男がいた。
来るのならば掛け取りの最中だと読んでいた。だが、勘蔵はその裏を掻いて真昼間に、それも辰五郎の門前の床店を叩いたのだ。この分では、辰五郎が屋敷を留守にすることも向こうは知っていたのかもしれない。
辰五郎が振り返った。
「おい、留」
片づけに加わっていた留が顔を上げた。
「荷運びと駕籠の衆に声を掛けろ。南の主だった連中もだ。暮れ六つまでに屋敷へ集めとけ」
「へぇ」
留の目が鋭く光を帯びる。返事もそこそこに、人垣を割って駆け出していく。辰五郎はそれ以上何も言わず、母屋の門を潜っていった。
源一郎は足元に転がっていた線香を一本拾い上げた。真ん中から折れ、踏みにじられて泥にまみれている。指先で泥を払うと、それでも甘い香りが微かにした。
§
「旦那っ」
背中から声がかかった。振り返ると、お茂が襷掛けの腕に清潔な晒を抱えて立っていた。
「お茂さん。そっちは大丈夫だったか」
「あたしは何ともないよ」
お茂は晒の端を歯で裂き、額を割った若い衆の頭に巻きつけた。
「博打打ちが十人とちょっと、それに二本差しが二人。侍でもない癖に長脇差なんぞ腰にぶら下げてさ、台を蹴倒して、止めに入った若いのを鞘ごと殴りつけて……物の壊れる音が屋敷の中まで聞こえてきたよ。あたしが台所から飛び出してきた時にはもう、引き上げていくところだった」
晒を結び終えると、お茂は前掛けの懐を探り、手のひらを源一郎に見せた。
泥のついた銭が十枚ばかり載っていた。銭の穴を通す紐──緡の切れ端が絡まっている。
「小柴がね、ここにいたんだよ」
「……何だと?」
「あたしが使いにやってたんだ……昼どきは床店に客が立て込んで、釣りの小銭がすぐ足りなくなる。釣り用の銭束を持ってってやっとくれって。門を出てすぐのとこだし、今日は天気もいいし……日に当たるのも養生のうちだって旦那も言ってたろ……」
お茂の声がそこで詰まった。
「あの子、嬉しそうに出てったんだ。寝てばっかりで申し訳なかったからって」
小柴は銭を届けに来たところで、騒ぎに行き合ったのだという。逃げる客波に揉まれ、勘蔵方の者に突き飛ばされて石畳に倒れた。緡の紐が切れ、銭が道に散った。
「怪我は手と膝を擦りむいたくらいさ。それはいいんだよ、それは。……でも、戻ってきてから一言も口を利かないんだ。部屋に閉じこもって、障子を閉めちまってさ……」
源一郎は手にしていた線香を、傾いだ台の上に置いた。
「見てくる」
「頼んだよ、旦那……」
屋敷に上がり奥へと進む。母屋の奥、小柴の寝起きしている小部屋は廊下の側も庭の側も、障子が全て閉め切られていた。
昼の間は、日と風を入れるために開け放していた筈である。それが今は、廊下に差し込む冬の日が障子紙で遮られている。
「小柴。俺だ。入るぞ」
中で何かが身じろぐ気配がしたが、返事はない。
障子を細く開けると、籠った気が廊下へ流れ出てきた。
薄暗い部屋の隅で、小柴が膝を抱えて座っていた。布団を肩から被り、晒を巻いて手当てをした手でその端を握りしめている。
源一郎の顔を見て、小柴の肩からわずかに力が抜けた。それでも布団を握る手はほどけない。
源一郎は廊下の障子を後ろ手に閉めると、部屋を横切って庭に面した障子に手をかけた。
「閉めて……閉めておいてくださいまし」
「空気の入れ替えはしておけ」
源一郎は障子を一尺ほど開けた。冬の日と冷えた風が差し込んだ。
「廊下の側は閉めとく。こっちは庭と塀だ。誰も来やしない。籠った気は肺に障るぞ」
小柴は開いた隙間から植え込みと塀しか見えないのを見て取ると、布団を引き寄せて小さく頷いた。
源一郎は開け放った障子の傍に腰を下ろした。小柴の前には、鼻緒の切れた草履が揃えて置いてある。
「手は痛むか」
「いいえ」
「膝は」
「……平気でございます」
それきり小柴は黙り込んだ。
源一郎も口を開かなかった。開けた障子の隙間から、庭の植え込みに冬の日が落ちている。表の方から時折、片づけを急かす声が遠く届いた。腕を接がれた若い衆の呻き声も、まだ途切れ途切れに聞こえてくる。
草履を手に取る。懐から手拭いを取り出して、切れた鼻緒を直してやった。
──源一郎は庭を眺めながら待った。小柴の心が落ち着くのを。
鴉が一羽塀の上に降りて、すぐにまた飛び立つ。植え込みの影が目に見えて位置を変えた頃、布団の中から小さな声がした。
「……汐見屋の人がいたんです」
源一郎は黙って小柴を見た。
「あの中に一人。店で客引きをしていた若い衆でございました。その人が……倒れたあたしの上から覗き込んで、笑ったんです」
小柴は唇を噛んだ。
「よぉ、久しぶりじゃねぇか、まだ生きてやがったのかって。とっくに死んだかと思ってたが辰五郎んとこに転がり込んでたのか、妙な気を起こすんじゃねぇぞって……」
なぞる声がだんだん小さくなった。布団を握る指が白くなっている。
「あの顔を見た途端、体が動かなくなってしまったんです。すぐに逃げなきゃと思うのに、足も言うことを聞かなくて……気がついたら、その人はもう行ってしまっていて」
小柴の喉がひゅうと鳴った。
「源太さま……あたし、ここに来てもう一年になるんです。お茂姐さんも親分さんも良くしてくださって。もう大丈夫だって思ってたんです。それなのに……あの人の顔を一目見ただけで、あたし……まだあの店にいるみたいで……」
鬱ぎ、泣くこともできぬ顔であった。
汐見屋の若い衆は騒ぎの中でたまたま見知った顔を見つけ、行きがけの駄賃に脅していったのだろう。口にした文句も、あの店で女たちに浴びせられてきた言葉をなぞっただけに違いない。殴り込みが小柴を狙ったものなら、そもそも擦り傷で済むはずがないのだから。
「小柴」
源一郎は言った。
「ここは汐見屋じゃねぇ。お前はもう、あの店に縛られちゃいねぇんだ。連れ戻しに来る奴はいねぇ。それでも、もし来たってなら……俺が叩き出す」
だから安心しろ、と源一郎が言うと、小柴は何か言おうとして口を開き、閉じた。小さく鼻を啜る音が聞こえ、遅れて小さく頷くように動いた。
「少し横になって休め。腹が減ると気分まで重くなっちってしまうからな、後で粥を持ってこさせよう。あぁ、庭の方は少しだけ開けとけよ、後でまた来るからな」
「はい、源太さま……」
廊下の障子に手をかけ、源一郎は振り返ろうとしたが止めた。小柴は布団を被ったまま……閉じた廊下の障子をじっと見ていたのだった。