──日が落ちると、屋敷に男たちが集まり始めた。
荷運びの人足、駕籠かき、床店の若い衆。北品川からも目黒川を渡った南品川からも、留に声を掛けられた者たちが三々五々門を潜ってくる。
暮れ六つの鐘が鳴り終わる頃には土間に人が溢れ、母屋の廊下を足音が絶えず行き来した。声を荒げる者はいない。低い話し声と草鞋の擦れる音ばかりが続いた。
源一郎は離れの濡れ縁で煙管を咥えていた。月は雲に隠れ、庭の植え込みが闇に沈んでいる。やがて母屋の表の方で、男の争うような声が上がった。それに応じる声がもう一つ響き、ざわめきがうねり始めていた。
煙管の灰を落とし、源一郎は離れを後にした。渡り廊下を抜け母屋の奥へ向かう。表へ出る前に小柴の部屋の前を通り、様子を伺うつもりであった。
奥まで来ると表の声はくぐもって遠くなった。それでも柱や壁を伝って、時折、侃侃諤諤の声が届いてくる。
廊下の板が足の下で小さく軋んだ。障子の向こうから、息を潜めたような声がした。
「だ、誰……」
「俺だ」
源一郎は足を止めて言うと、障子の向こうで長い息を吐かれたのが分かった。
「……源太さま」
「起こしたか」
「いいえ……横になっていただけで……表が騒がしくて……」
そこまで言って小柴は咳き込んだ。
一度、二度。堰を切ったように咳が続く。喉がひゅうと鳴り、思うように息を吸おうとして吸えずに、また咳き込む。乾いた咳の最後に、ごぼ、と濡れた音が混じった。
源一郎は障子戸を全開にした。
部屋の中は言いつけた通りに整えてあった。枕元に衝立を立てて隙間風を遮り、火鉢には薬缶が掛かって湯気を立てている。その衝立の陰で小柴が布団の上に身を折っていた。両手で口を押さえ、背中を波打たせている。
源一郎は袖で口元を覆った。傍へ膝をつくと、小柴は口を押さえたまま首を振った。指の間から何かが溢れている。
──鉄っぽい匂いがした。
源一郎は顔を背けながら小柴の肩を抱え、体を横向きに倒した。頭を少し高くし、溢れるものが喉へ戻らぬよう顔を布団の外へ向けさせる。それから廊下へ向かって声を張り上げた。
「誰か!灯りを持ってきてくれ!」
母屋のどこかで戸の開く音がした。廊下を急ぐ足音がし、灯りを持ったお茂が飛び込んでくる。
灯りに照らされて布団の上が赤く濡れていた。小柴の口元から顎、晒を巻いた手まで、べっとりと赤い。
お茂が息を呑んだ。
それも一瞬のことだった。お茂は手燭を畳に置くと、振り返りもせず廊下へ声を投げた。
「誰か来とくれ!盥に水、手拭いもありったけだよ!それから掻巻と替えの寝巻!」
返事を待たずに源一郎の脇へ割り込み、小柴の頭を自分の膝へ引き取る。顎を少し下げさせ、口に溜まったものを手拭いへ吐かせた。
「吐いちまいな。我慢するんじゃないよ。そう、そうだ」
背を叩く手つきに迷いがなかった。
廊下を足音が駆けてきた。襷を掛けたままの女が盥を抱えて飛び込み、もう一人が掻巻と寝巻を胸に抱えて続く。台所から駆けつけたのか、前掛けの裾が濡れていた。
「盥はこっちだよ。あんたは湯を沸かしといで。熱くしちゃいけないよ、人肌くらいでいい」
「あいよ」
「布団は替えるからね。汚れもんはひとまとめにして裏へ出しときな。あとであたしが始末する」
女たちは言われる先から手を動かしていた。一人が汚れた枕を抜き取り、一人が新しい手拭いを盥に浸して絞る。お茂は小柴の体を横向きに支えたまま、背をさする手を止めなかった。
源一郎は膝をついたまま、ただそれを見ているしかない。血に濡れた手の置き場がなかった。
やがて咳が細くなった。濡れた手拭いでお茂が口元を拭うと、小柴は薄く目を開けた。
「……すみ、ません……お布団を……汚して……」
「馬鹿だね、この子は。そんなこと言ってる場合かい」
お茂の声が掠れていた。
お茂は小柴の額に張りついた髪を指で払い、それから顔を上げた。源一郎を見る目に遠慮がなかった。
「旦那。悪いけど出ておくれ」
「しかし……」
そう言われはしたものの、源一郎は咄嗟に動けなかった。
「着物を替えるんだよ。男がいたんじゃ、この子が休まらないだろ?」
源一郎は小柴を見た。小柴は掻巻の端を握ったまま目を伏せていた。
「ここは女の仕事さ。今夜はあたしが付いてる」
「……分かった」
源一郎は立ち上がった。廊下へ出て障子を閉める間際、お茂がもう小柴の帯に手を掛けているのが見えた。
手燭の灯りの届かぬ廊下の闇の中。指の間に小柴の血が付いていた。
裏口から庭へ出て、井戸端で釣瓶を手繰る。凍るような水に手を浸し、指の間まで擦り洗った。水を替えてもう一度洗い、最後に口を濯いで地に吐く。
表の方で、また男たちの怒鳴り声が響いている。
濡れた手が夜気にひりついた。
§
廊下を進み表口へ抜けると、土間は男たちで埋まっていた。
二十人、いや三十人はいる。樫の棒を握る者、脇差を腰に差し直す者。額に晒を巻いたままの顔も混じっていた。人の熱が土間に籠もり、冬の凍てた夜だというのに汗の匂いがした。
座敷の障子が開いている。
奥の長火鉢の前には辰五郎が座っていた。煙管を手にしているが火は入ってはおらず、その前で男たちが口々に喚き合っている。
「──今夜のうちに歩行新宿へ押し込みゃいい!向こうが油断してるところを叩きゃあ!」
「馬鹿言え。向こうのシマだぞ。こっちから踏み込んでみろ、問屋場から奉行所へ届けが上がる。先に手ぇ出した方がお咎めだ」
「お咎めが何だ!指を咥えて見てろってのか!」
額に晒を巻いた若い男が土間から身を乗り出した。
「だいたい先に手ぇ出してきたのは向こうじゃねえか!俺ぁこの面ぁ割られてんだぞ!」
「それを誰が証してくれるってんだ」
年嵩の男が吐き捨てた。
「届けを上げるのは歩行新宿の名主と問屋場だ。あすこの年寄連中はとうに勘蔵の手の内だろうよ。訴えになって奉行に回されれば、北の連中が徒党を組んで押し込んだことになって、それで仕舞いよ」
「だったら何だ!このまま引っ込んだら組の名折れだろうが!」
「名折れで飯が食えるか。出入りで頭数を減らしてみろ、喜ぶのは勘蔵だろうが」
「じゃあ何か、テメェ黙ってシマを喰われてろってのか!」
「誰も黙ってろとは言ってねえ。やりようってもんがあるって言ってんだっ」
「やりようやりようって、そう言って何年待たせた!臆病モンがっ!」
「ンだと、この野郎……!」
年嵩の男が膝を立てた。若い衆の何人かが棒を握り直し、土間の気配が一気に殺気立った。
留は土間の隅にいた。道中差の柄に巻いた紐を締め直しながら、どちらにも口を挟まずにいる。
カンッ──と、辰五郎が煙管の雁首で長火鉢の縁を打った。
乾いた音が一つ座敷に響いた。それだけで声が止んだ。膝を立てていた男が座り直し、身を乗り出していた若い衆が土間へ退がる。
辰五郎は誰の顔も見なかった。
「言いてえことは出尽くしたか」
答える者はいなかった。
「出入りはする。だがな、これはただの喧嘩じゃねえ。面子を取り返し、人道の筋を正し、意地を通すための喧嘩だ」
辰五郎は煙管を指の間で一度回した。
「支度をしとけ。日取りは追って伝える。それまでは勝手に動くンじゃねぇ。手ェ出していいのは……俺が言ってからだ」
いいか、と締めると男たちが一斉に頭を下げた。
辰五郎は煙管を長火鉢の縁に置き、ゆっくりと顔を上げた。そこで、土間から続く廊下側に立った源一郎と目が合った。
源一郎が歩を進めると、男たちが道を空ける。留が手を止め、こちらを見ていた。
座敷の前で足を止め、源一郎は言った。
「親分。少し、話がある」