座敷へ上がると、辰五郎は長火鉢の向こうから土間へ顎をしゃくった。
「お前ぇら、今夜はもういい。台所で飯でも食ってな」
男たちが無言のまま土間を出ていき――留だけが廊下に残った。障子戸の陰に膝を折り、座敷に背を向け黙って控えていたが辰五郎はそれを咎めなかった。
障子が閉められ、長火鉢を挟んで二人きりになる。
源一郎は懐に手を入れ、袱紗の包みを抜き出した。折りたたまれた包みを丁寧に解いてゆく。
――中からは黒鉄の十手が現れ、行灯の灯を鈍く映した。紫の総と共に柄の端に括られた小さな鈴が転がり、包みを解いた拍子にちりん――と一つ鳴る。
静まった座敷に、その音はよく通った。
「火付盗賊改方与力、渡辺源一郎。それが俺の本当の名だ」
もはや遊び人の口ぶりではなかった。
廊下の障子の向こうで留の息を呑む気配がした。辰五郎は十手に視線を落とし瞑目したが、やがて煙管を長火鉢の縁に置き、ゆっくりと顔を上げる。
「……薄々は、わかっておりました」
「……そうか。いつからだ」
「浜で留たちを転がしたと聞いた時は、ただ腕の立つ遊び人だと思っておりやした。違和感を抱いたのは、ここへ来なすった時の立ち姿でさ。ありゃあ遊び人の立ち姿じゃねぇ、それだけのこってす」
辰五郎は十手を見たまま、名を口の中に含むように転がした。
「にしても、まさか『剣鬼』とは……火盗改の渡辺様と言やぁ、鬼の平蔵に次いでも可笑しかねぇ名だ。あっしら香具師の筋じゃ知らねぇ奴はおりませんで」
香具師は江戸中の寺社の門前に、床店の根を張っている。縁日から縁日へ人が渡り、市から市へ荷が動く。そこで流れた噂はその網を伝って品川の門前にまで届く。
「――深川の賭場を仕切ってた甚五郎を挙げて、鈴ヶ森へ送ったのも旦那だ。赤坂の山王さんの門前じゃ、火盗改を侮った二本差しが睨まれただけで尻餅をついたってね。ちょうどあそこで店を張ってた仲間が見ておりやして、しばらくはその話で持ちきりでさ」
辰五郎の目が十手の柄の鈴に留まった。
「……鈴で思い出した。こいつはイカサマ師の口上より当てにならねぇ話ですがね。夜更けに鈴の音がしたと思うと、火盗改の提灯を提げた侍が一人現れて、得体の知れねぇ化け物を狩っていくんだそうで。巷じゃ『鈴鳴り火盗』なんて噂してまさぁね――」
ま、こいつは余談ですが、と言う。源一郎は何も言わず、辰五郎は少しばかり口元を緩めた。
「旦那とお呼びしてきやしたが、どうやら間違っちゃいなかったようで。で……その旦那が隠してた正体を明かしてまで、あっしに何の話です」
「親分が出入りに打って出る前に、聞いて貰いたいことがある」
源一郎は十手を膝の前に置いたまま膝を正した。
「以前に言っていただろう。大百足の勘蔵は女衒と組み、在方から攫ってきた娘を歩行新宿の店に入れては、その上前を撥ねている……と。親分はその後の話も当然知っていたのだろう?」
「と、いいますと」
「汐見屋からいなくなる女たちは年季を迎えられず、身請けもされていないということだ。あそこでは年季明けの近い女に身請けの話を持ちかけ、実際には網小屋で殺害し海に流している。小柴の姉女郎だったお蔦という女も、二年前にそうして消された」
辰五郎の手が止まった。
「次に呼び出されるだろう女の目星もついている。お駒という女衒に連れられて店に入った女でな、年が明ければ年季が明ける」
辰五郎はすぐには答えなかった。煙管を取り上げ、火を入れずに雁首を指でなぞる。
「……確証はありませんでしたとも」
低い声だった。雁首をなぞる指がふと、止まった。
「旦那――。飯盛女を置く旅籠ってのは、金がじゃんじゃか入ってくるとお思いでしょうか。いや、確かに稼げる商売だ。だがその実、あれは元手を食う商いなんでさ」
「……ふむ」
「女一人新たに抱えるたび、親へまとまった金──前借金を払わなきゃならねぇ。それを何年もかけて取り返すんだが、その間に病に罹られたり逃げられでもしたら金は戻らねぇ。品川宿にゃ、伝馬役の義務を果たすために莫大な役銭を払う必要もある。帳面じゃ儲かってても、出ていく金も桁が違う」
伝馬役――品川宿には幕府命令として「人足と伝馬」を常置し、役人や大名の荷物輸送に提供する義務があった。
辰五郎は言いつつ、雁首を指先で軽く弾いた。
「それが一件とどう関係するというのだ」
「汐見屋は一度、飢饉の年に傾いてるんでさ。米の値が上がって、江戸から遊びに来る客の足もぱったり途絶えた。それでも役銭は待っちゃくれねぇ。そこへ勘蔵の手の者が近づいて、店主に金を貸した」
「ほう……」
「金を借りなきゃ仕方がねぇとは言え、到底すぐに返せる額じゃねぇ。今度は賭場に誘い込んで稼がせ、負けが込めばまた金を貸す。返せなきゃ、また賭場で取り返せと唆す。店主が気づいた時にはドツボに嵌って首が回らねぇ状況だ、勘蔵は初めから店が狙いだったんでしょうや」
そう絡繰りを語りつつも、煙管を弄る手は止まない。
「あの男は金の匂いにゃ敏感で、稼ぐ力はあるが金繰りで弱ってる店を見つけては少しずつ毒を流し込む――。哀れ、汐見屋は借金の形に取られ、看板も帳面も店主の名のままに、当人は雇われの身に落ちるって寸法よ」
煙管の吸い口に付いたヤニを指で拭い、片眼を閉じて穴を覗く。
「あとは手下の女衒に娘を攫わせて汐見屋へ入れりゃ、前借金を払う必要はねぇ。元手なしで客を取らせられる。だが年季が明けて国へ帰られちゃ、攫ったことが明るみに出ちまう。それに攫った娘の証文は嘘っぱちだ」
辰五郎は煙管を下ろした。
「その上、ここ何年かはご公儀の締め付けがきつい。江戸の岡場所が次々に取り払われたのは、旦那の方がよくご存じでしょう。品川だって、いつ飯盛女の頭数を改められるか分からんし、袖の下でどこまで誤魔化せるか知れたもんじゃねぇ」
品川宿は岡場所ではあるが、半公認――幕府から「宿場全体で飯盛女五百人まで」という決まりを受ける立場だった。だが、実際にはその数は守られていない。
「長く置けば置くほど割れる種は増える。だから明ける前に消す。小柴の話を聞いて、そこまでは勘定がついた。網小屋が殺しの現場とまでは知りやせんでしたが」
あっしが長年かけて調べたことを、たった数日で突き止めちまったようで……流石本職は違いまさぁね、と辰五郎が言った。
「俺も汐見屋が勘蔵に手に落ちてることまでは知らなかったさ。本当なのだろうな?」
「人足の差配で飯を食ってりゃ、よその店の金の出入りくれぇは耳に入るもんで」
「なら、汐見屋の帳面をいくら繰っても、勘蔵の名は出てこんな」
「出ねぇでしょうな。大百足の二つ名は伊達じゃねぇ。手下にばかり罠を張らせて、自分は穴の奥から出てこねぇ男でさ」
辰五郎は煙管を握り直した。
「――だが、あっしもそろそろ我慢の限界だ。家のモンを痛めつけられ、真っ昼間に門前の床店を踏み潰された。その上、女を攫って殺してる店の後ろに勘蔵がいる。これで黙ってりゃ、あっしはもう品川で元締なんぞ名乗れやせん。若ぇのもついてこねぇ」
声は平静なまま、腰も低い。しかし、煙管を握る指には力が籠もり、声の底には元締としての凄みが隠れている。
「旦那ァ。まさかとは思いますが、止めにいらしたんじゃありやせんでしょうね」
「いいや」
源一郎はその辰五郎の目を臆することなく見返した。
「――だが、今勘蔵の賭場へ突っ込めば負けるぞ」