「――だが、今勘蔵の賭場へ突っ込めば負けるぞ」
辰五郎はすぐに答えられなかった。
「勘蔵は賭場と金貸し上がりの元締め。博打打ちを多数抱え、旅籠には浪人を十人から飼っている。こっちは掛け取りのたびに若い衆が手負いになって削られ、今日も腕を折られた者が出た」
現状を整理するように、源一郎が一つ一つ事実を並べてゆく。
「集めた男たちの半分は荷運びと駕籠かきだ。威勢がいいのは認めるが、長脇差を振り回す博打打ちと剣術に長けた浪人を相手に、ただ立ち向かっていけばどうなるか。……これが勘蔵の罠だと、親分なら分かっているはずだ」
「……そりゃあ、分かっておりやすとも」
辰五郎は静かに言った。その言葉に揺らぎはない。
「分かっていて。それでも行かなきゃならねぇのが、あっしらの稼業なんで」
「……さっき親分は若い衆の前で言っていたな。面子を取り返し、人道の筋を正し、意地を通すための喧嘩だと」
辰五郎の目がわずかに動き、伏せられる。
「勝てば面子は取り戻せる。だが今のままでは、まず勝ち目はない。負ければ若い衆も居場所を失って、北品川は勘蔵の縄張りになる。面子どころか、何もかも失うことになるぞ」
辰五郎の指が煙管の羅宇を握り締めた。
「親分の言う人道の筋は、世間のものとは異なる――渡世の流儀のことだろう。他所の縄張りへは不可侵。堅気には手は出さない。勘蔵はそのどちらも踏みにじった。人攫いなんぞ、渡世の外道の極みだ。その落とし前をつけさせるのも勝ってこそだ。負ければ全てがひっくり返る」
源一郎はそこで一端言葉を切った。
「意地は通せるだろう――。負けても、引かずに向かっていったという意地はな。だが、親分の喧嘩で取れるのは、三つのうち意地一つだけだ。それも若い衆の命と引き換えに」
辰五郎は煙管を長火鉢の縁に戻し、しばらく黙っていた。
「……ならどうしろと。旦那なら三つとも取れると仰るんで」
「取れる。親分が手を貸してくれるならな」
「あっしに――お上の犬になれ、って言いてぇンですかい」
辰五郎の低い声に初めて棘が混じった。
「旦那。これまで、品川のことは品川で始末をつけてきた。北も南も外に頼ることなく、あっしが差配してきたんでさ。そこへ火盗改が乗り込んで勘蔵を挙げてみなせぇ。縄張りの揉め事一つ自分じゃ始末できねぇ元締だと、世間はそう見る。旦那方が品川に手を入れるってのは、あっしの面に泥を塗るってことと同じだ」
「だからこそ、俺は手を組むべきだと言っている」
源一郎は言った。
「火盗改が踏み込むのは勘蔵の賭場と網小屋だけだ。北品川にも南品川にも、宿場の差配にも手は付けん。だが、博打と殺しは火盗改の御役目――これこそ世の道理、筋であろう。親分が叩きたいのも勘蔵、狙う的は同じだ」
源一郎は辰五郎の目を見据えた。
「お上が勝手に乗り込んで片をつけたのなら、親分の面に泥を塗ることになるという。だが、大百足の勘蔵を挙げるのに、品川の元締が火盗改に手を貸してやった。人の道を通し、世を乱した勘蔵の逃げ道を塞ぐのに親分の手が加わったとなれば話は変わろう。それならば、筋は通るのではないか」
辰五郎は答えなかった。悩むように煙管に手を伸ばしかけて、やめた。
ジリ、と行灯の芯が小さく鳴った。
源一郎は少し間を置いてから言った。
「――小柴が血を吐いた」
辰五郎が顔を上げた。
「ついさっきだ。今はお茂が付いているが……先は、長くはないのだろう」
辰五郎は何か言いかけて口を閉じた。廊下の障子の向こうで、留が身じろぎする気配がした。
「蛇の目の女衒の話をした時、小柴は震えながら汐見屋で見たことを話してくれた。辛い過去を思いだすというのは、とても勇気のいることだ」
源一郎は十手の柄を手に取った。チリン、と小さく鈴が鳴る。
「お蔦は海に流され、小柴は病を受け、拐された女たちは籠の中の鳥。店に入れられた女たちには、訴え出る先もなければ、恨みを晴らす手立てもない。しかし、誰かが正してやらねば、いずれ女たちに待つのは冷たい海の底――」
辰五郎は動かなかった。
「親分の筋と俺の筋は違う。親分は渡世の掟で、勘蔵に落とし前をつけさせたい。俺は不義を見過ごせず、お上の裁きの場にて勘蔵の悪事を白日の下に曝け出したい。二つの筋――だが、行き着く先は同じ、そう思っている」
源一郎は畳の上に両手を置き、頭を下げた。
「牛頭の辰五郎親分――どうか、俺に力を貸してくれ」
辰五郎の息が詰まった。
「……よしておくんなさい。与力の旦那がそう簡単に頭なんざ」
「――手を借りたいのならば、頭を下げるのは道理。俺は女が網小屋へ呼び出されたその夜に、網小屋と賭場を改め、押さえるつもりでいる」
源一郎は頭を下げたまま言った。
「網小屋で現場を押さえれば、拐しと殺しの実態を掴める。網小屋で縄を打ったら、間を置かずに賭場へ踏み込む。勘蔵に知らせが届く前にだ」
源一郎は続けた。
「だが……品川では、俺の手勢は知れている。汐見屋から女が連れ出されるのを見張って、すぐに繋ぎをつける目と足がいる。加えて御用改めの夜、賭場の裏口と抜け道を塞いで、博打打ちを一人も逃がさん手がいる」
「……二か所を押さえるには人手がいると」
「浪人どもは俺が引き受ける。親分の意地は、その夜に通してもらいたい」
源一郎が顔を上げる。辰五郎は長いあいだ源一郎の顔を眺めていた。
やがて、行灯の灯を受けた目が細く絞られた。北と南、二つの宿場を束ねてきた男の顔として。
「旦那は、若ぇ連中の命を預けろと仰る」
声は低い。だが座敷の隅々にまで届いた。
「浪人十人を一人で引き受けると仰る。網小屋と賭場を、一晩で踏むとも。口で言うのは容易い」
辰五郎は瞬きもせず源一郎を見据えた。
「本当に、やれるんでしょうな」
源一郎は目を逸らさなかった。
「やれる」
それだけ言った。
辰五郎の目が源一郎の顔から手の中の十手へ落ち、また顔へ戻った。廊下の留は息を殺している。
座敷はしばらく、炭の爆ぜる音だけになった。
「……一つだけ、伺ってようござんすか」
「何だ」
「旦那は……なんだってそこまでなさる。品川のことなんざ、旦那にとっちゃ縁もゆかりもねぇでしょう」
源一郎はすぐには答えなかった。十手の柄の鈴に目を落とす。
「──初めは、仲間の男を心配して来ただけだった」
お守り代わりの鈴は、いつも源一郎と共にある。
「品川に居ついて、女たちを見た。親に売られたり在方から攫われたりして、それでも客の前じゃ笑っている。年季が明けるのを指折り数えてな。そういう必死に生きる女を我欲で使い潰す。そういう輩が……どうにも、腹に据えかねて堪らねぇ」
辰五郎は黙っていた。やがて煙管を取り上げ、独り言のように言った。
「お上の手を借りて片をつけた、と陰口を叩く奴もいるでしょうなァ――だが……それがどうした。そんなもんで揺らぐ看板なら、とうに下ろしてらぁ」
辰五郎は煙管に刻みを詰め、長火鉢の炭から火を移した。この夜初めて、辰五郎の煙管から煙が上がった。
ゆっくりと煙を吐く。
「ようござんす。旦那の御用改め、この牛頭の辰五郎が人足の差配承りましょう。勘蔵の首が刑場に並ぶまで、腹の虫は飼っときやす」
源一郎は十手を袱紗に包み直し、懐へ戻した。
「親分――感謝する。早速、お駒の件だが汐見屋の動きを見張れるか」
「人の差配と噂集めに関しちゃ、あっしが後れを取る言われはねェ。すぐに汐見屋の出入りを見張らせやしょう」
辰五郎は立ち上がり、障子を開けた。
「留」
廊下の留が、弾かれたように顔を上げた。
「聞いてたな」
「へぇ」
「台所の連中を帰せ。出入りの日取りは俺が決める、呼んだらすぐ来られるようにしとけと言っとけ。それと、今夜の話はまだ口から出すな」
「承知いたしやした」
留は立ち上がりかけて源一郎と目が合った。何か言いかけてやめ、黙って頭を下げる。それから廊下を駆けていった。
§
翌朝、源一郎は母屋の奥へ向かった。
小柴の部屋の隣の間の襖が、細く開いていた。覗くと、火鉢の傍でお茂が掻巻にくるまり、壁に凭れて眠っている。火鉢の炭は灰を被りながら、まだ赤く残っていた。夜のうちに何度か足したのだろう。
小柴の部屋の障子をそっと開ける。
雨戸は言いつけ通り一寸だけ開き、細い朝の光が畳に落ちていた。衝立の陰で、小柴が横向きに寝ている。頬が赤い。熱が引いていないのだ。浅い息をするたびに喉の奥がかすかに鳴っていた。
源一郎が枕元に膝をつくと、小柴が薄く目を開ける。唇が小さく動いた。声にはならなかったが、源太さま、と呼んだのだと分かった。
喋るな、と小さく言った。
小柴は小さく瞬きをして、また目を閉じた。
源一郎はしばらくその顔を見ていたが、しばらくして立ち上がり、隣の間で眠るお茂を起こさぬよう足音を殺して廊下へ出たのだった。