鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

204 / 212
第百九十五話 よくわからない人

 江戸の暮れの風物詩である煤払いが済んで幾日か経つと、宿場の通りにも年の暮れの匂いが濃くなった。

 

 日の落ちかけた歩行新宿を、田沼新吾は南へ歩いていた。江戸から二里余りの道を来たので、足の先が冷えている。懐に手を入れると、包み紙が指に触れた。その中には小判が五枚入っている。

 

 路地の角に腕組みをした男が立っていた。通りを歩く新吾を頭の先から足の先まで眺め、一本差しの浪人と見たのだろう、すぐに目を逸らした。少し先の辻にも、同じような男がもう一人いる。ここしばらくで、こういう男の数が増えてきたように思う。

 

 慣れた調子で汐見屋の暖簾を潜ると、帳場の脇から遣り手の婆が出てきた。

 

「おや新さん。よくお越しで」

「お駒はいるか?」

「それがねえ、今ちょいと手が離せなくて。少しお待ちなさいまし」

 

 婆は愛想よく笑い、新吾を二階へ上げた。通されたのはいつもの奥の座敷ではなく、階段を上がってすぐの四畳半の小部屋であった。行灯に火は入っているが、火鉢の炭はまだ熾りきっていない。

 

「すぐ参りますからね」

 

 障子が閉まった。

 

 新吾は刀を抜いて脇に置き、膝を崩した。懐から紙を取り出して広げる。お駒からの文である。この前の朝、見送りに出たお駒が別れ際に新吾の袂へ押し込んだものであった。仮名ばかりの少し右へ傾いた字で、このごろは夜が長くて困る、早く来て、とあった。

 

 新吾は僅かに笑むと文を畳み直し、懐に戻した。

 

 §

 

 廊下を重たい足音が二つ通っていった。布団を運ぶ若い衆のようだ。障子の前で一度止まり、片方が溜息混じりに言った。

 

「北の天王の爺、結局出てこなかったなぁ」

「あれだけ駕籠かきだの荷運びだの集めといてよ。夜が明けたら散り散りだと」

「怖じ気づいたんだろうよ。ま、これで名は折れたようなもんだ。年が明けるまでにゃ、北品川の床店もこっちへ転がってくるさ」

「けど、あの用心棒はどうすんだろうな。源太とかいう、旅籠の先生方を素手でのしたって野郎」

「あぁ、親分は放っとけってよ。一人腕が立つのがいたって、この勢力差だ。どうしようもねぇだろって」

 

 足音が奥へ遠ざかって行く。

 

 新吾は火鉢の縁に手をかざしたまま、しばらく動きを止めた。

 

 遊び人の源太──。稲荷の裏で、直接の上役である渡辺様が自分でそう名乗った。それに北の天王の辰五郎といえば、南品川と北品川を束ねる香具師の元締である。その用心棒の座に収まって、歩行新宿の元締めである勘蔵方と事を構えているらしい。

 

 ──渡辺様のことは、子供の時分から知っていた。

 

 本所の先手組同心の組屋敷は、与力の屋敷が門を並べる一画と、同心の家々が軒を寄せ合う路地とが塀一つで隔てられているだけだった。与力である渡辺家の倅は新吾より幾つか年上の子で、時折その塀を越えては同心屋敷側へやって来ることがあった。後ろにはたいてい、小さな女の子がくっついていた。屋敷の乳母の養い娘で、お鈴という名の。

 

 ──昔から変わった人であった。

 

 誰もいない塀の角に向かって何かを話しかけていることがあり、同心の子らが誰と喋っていたのかと訊くと、少し困った顔をして猫だと答えていた。猫などどこにもいなかったのに。

 

 他にも、紙を細く三角に折って放れば、それがすうっと風に乗って路地の端まで飛んでいく──。そんな遊びを教えたのも、あの人だった。

 

 はたまた千里眼でも持っているのか。雷が鳴れば、光ってから音が来るまでの間を数えて、平然とした顔で何里離れていると言い放つ。時々聞いたこともない言葉を口走り、訊き返されると何のことか分からないという惚けた顔をした。

 

 干し柿を一つ、路地の子らに裂いて分けてくれたことがある。そのとき、あの人は手を合わせて「いただきます」と唱えた。何かと訊くと、物を食う前の挨拶だと言う。そういう作法をする人を、新吾は他に知らない。

 

 ある時ふっと、顔すら見せなくなることがあった。ひと月経っても、ふた月経っても姿を見せず、どこぞの寺に預けられたんじゃないかと同心の子どもたちは噂した。

 

 しかし、一年近く経った頃、日に焼けた顔で何事もなかったようにまた塀の上に腰掛けていた。

 

 成長するにつれ、同心屋敷の子らは塀を身分の境として弁えるようになった。新吾も十を過ぎる頃には大人達の前で渡辺様と呼ぶようになり、向こうはそれに微妙な顔をしたのを覚えている。

 

 ――そういう変な人だった。

 

 それより新吾が恩を受けたのは、むしろ父の藤治郎の方である。

 

 見習いで組に出た新吾の、直属の上役が藤治郎であった。その頃には倅の姿をとんと見かけなくなっていた。訊いてみると、藤治郎は「武者修行にやった」とだけ言い、どこへ、とまでは言わなかった。

 

 父が倒れたのは、それから三年目の冬。同心の役目は一代限りの抱席で、倅が後を継げる決まりは厳密にはない。若い新吾が何事もなく組に残れたのは、藤治郎が後ろ盾になってくれたからである。

 

 母を見送ったのも、その頃。藤治郎は新吾を詰所に呼び、困ったことがあったら言えとだけ言った。

 

 弔いの段取りをつけてくれたのは、古参の六さん――島田六蔵であったし、家に帰っても火を熾す者がいない晩には、隣の権助が「飯を食いに来い」と戸を叩いた。

 

 その藤治郎も亡くなり、塀を越えてきた子が気がつけば上役として詰所に座っていた。

 

 気さくな人である。役目が明ければ権助や本太郎を誘って飲みに出ることもあり、本太郎の馬鹿話には誰より先に吹き出す。そのくせ御用となると手を抜かない。書付は一字の誤りも見逃さず、下の者がしくじれば、御頭の前で頭を下げるのは自分の役だと決めている節がある。

 

 強い、などという言葉では足りなかった。

 

 あの晩、新吾は一味の用心棒に肩を斬られて膝を突いた。渡辺様が飛び込んできてからのことは、あまりよく覚えていない。気がつけば、医者にかかり刀傷の手当を受けていたから。

 

 一度だけ、渡辺様が本気で怒ったのを見たことがある――。声を荒らげたわけではない。それなのに、傍にいた新吾の膝が勝手に震えた。

 

 あの人が何を見て、何を考えているのか、新吾には未だによく分からない。武者修行といって、どこで何をしていたのかも知らないままである。

 

 そのよく分からない人が、遊び人の形をして品川に居続けている。

 

 自分を見張るためだろうか。

 

 新吾は膝の上で手を握った。

 

 ——何をして食ってゆく。

 

 稲荷の裏で問われた声が、耳の底に残っていた。答えられなかった。だから今夜は、懐にこれを入れてきたのである。

 

 三枚で残りの借金を払う。年明けを待たずに連れ出すのだから、その間お駒が稼ぐはずだった分を、店への詫び代として二枚添える。それで、あの娘を店から出してやれる。そこから先のことは、それから考えればいいと――。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。