階段の下から、主の声が聞こえた。
「まことに、遠いところをようこそ。足元にお気をつけなすって」
ふだん帳場から聞こえてくる声より一段高い。
新吾は膝立ちになり、障子を指一本ほど引いた。
階段の下り口に男が一人立っていた。紺の着物に仕立てのよい羽織を重ね、顔は日に焼けた色をしているが目鼻立ちは悪くない。三十半ばほどか──。肩幅があり、胸を張った立ち姿には人を使い慣れた者の空気があった。
その後ろに、お駒の背中が見えた。髪には見慣れない新しい簪が一本挿してある。
男が振り返ってお駒に何か言い、お駒が袖で口元を隠して笑った。
知らず──新吾は障子の縁を握っていた。
男が手すりに手をかけて階段を下りていく。行灯の灯が不意にその手を照らした。白い手であった──。指は長く、節も立っていない。違和感。船を何艘も動かす男なら、若い頃には自分で櫓も握ったろうに……そう思ったが、詮無いことだと頭を振って考えを消し去った。
主が先に立ち、男を表まで送っていく。泊まっていく様子ではない。お駒も玄関まで付き添うのだろう、階段を降りてゆく音がした。
新吾は障子を閉め、元の場所に座り直した。しばらくして、階段を駆ける足音と床板の軋みの音がした。
「新さん。来てくれたんだ」
障子を開けて入ってくるなり、お駒は新吾の脇へ膝を崩して座り込んだ。
「ごめんね、待った?」
「少しな」
「あとは一緒にいられるから許してね。ああ、肩こったぁ。お行儀よくしてると疲れちゃう」
白粉を刷いた顔が新吾の前で柔らかく緩む。座り込んだ拍子に、鬢付け油の甘い匂いがした。白粉の粉っぽい匂いに丁子の香がかすかに混じっている。その正体は稲荷の裏で渡辺様に握らされた金の残りで、新吾が買って贈った匂い袋の香であった。お駒はそれを、いつも袂に入れている。この匂いのするお駒といると、新吾は肩の傷のことを忘れていられた。
お駒は新吾の手を取って、両の掌で包んだ。
「手、冷たい。歩いてきたの?」
「ああ」
「あっためてあげる」
お駒は嬉しそうに目を細め、新吾の手を自分の袖の中へ引き込んだ。袖の内は温かく、肌の温もりが指先にじかに伝わってくる。しばらくそうして温めてから、銚子を取り上げて盃を持たせて酒を注いだ。
「この間の文、読んでくれた?」
「ああ」
「下手な字でごめんね。もう少し上手に書けたら良かったのだけど……、今日は来てくれて嬉しい」
「そりゃ……呼ばれたからには、な」
お駒は肩で新吾の肩を押し、くすくす笑った。
「夕餉は?食べてきた?」
「途中の茶屋で、団子を」
「団子だけ?だめだよ、そんなの。あとで何かもらってきてあげる。今夜は鰤の漬け焼きがあるんだって。お勝手でつまみ食いしたら、すごく美味しかったの」
「つまみ食いか」
「内緒だよ」
お駒は人差し指を唇に当てて見せた。賄いを手伝っているのだと前に聞いたことがある。いつか自分の店を持ちたいのだと、その時に言っていた。
新吾は少し口元を緩めて、視線を逸らした。
盃を舐める。酒は燗でもなく、少しぬるい程度。あの妙に綺麗な白い手が、頭から離れない──。手すりを掴む長い指。主の一段高い声。お駒の髪に挿さった、見覚えのない簪。
「イテっ」
手の甲を抓られていた。
「なに考えてるの。あたしがいるのに」
「何も」
「新さん、嘘ばっかり」
お駒は抓ったところを指先で撫で、それから新吾の顔を上目遣いに覗き込んだ。
「いつもそう。何にも私に話してくれないんだから」
「話すようなことがないだけだ」
「ふん、いいですよー、聞かない。新さんが言いたくないことは聞かないって決めてるの」
そう言って笑む顔に新吾は何も返せなかった。聞かれれば嘘をつくほかない身である。その嘘を、この娘はいつも気を遣い、先回りして免じてくれる。
「でも、これは聞いちゃう。見てたでしょ。さっきの」
新吾は答えなかった。
「妬いちゃった?」
「妬いてない」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
「ふうん。つまんないの」
お駒は唇を尖らせ、新吾の盃に酒を足した。それから自分の膝の上で指を組んだ。
「あの旦那ね、神奈川湊の人なんだって。小廻しの船を三艘も持ってるって」
「そうか」
「三日前に、うちの旦那様から話があってね。今夜が初めての顔見せ」
お駒は言葉を切り、組んだ指をほどいた。
「新さんには隠したくないから言うけど……身請けの話なの」
盃を持つ新吾の手が止まった。
「おかみさんに先立たれて、後添いを探してたんだって。いつだったか品川に寄った時、表を掃いてたあたしを見て、それっきり忘れられなかったって。それで旦那様に頼みに来たみたい」
「若菜……お前を見ただけでか」
「そう。一度も上がったことないんだよ、あの旦那。変な話だよね」
お駒は笑っていたが、新吾は笑わなかった。
「どんな男だった」
「どんなって……優しそうな人。声が大きくて、よく笑うの。あたしの手を見て働き者の手だねって」
お駒は自分の手を行灯の灯にかざした。水仕事で、指先が少し荒れている。
「その簪も、その男からか」
「これ?顔見せの印だって。似合う?」
お駒は首を傾げ、簪を灯の方へ向けて見せた。銀の脚の先に、珊瑚の玉が一つ揺れている。値の張るものかどうか、新吾には見分けもつかない。ただ……自分が贈ったのは、小間物屋の店先で選んだ、掌に収まるほどの匂い袋が一つきりである。
「……似合う」
「ほんと?新さんにそう言われると、嬉しい」
お駒は簪から手を離し、銚子の口を指でなぞった。
「年季明けを待たずに出してくれるって。神奈川の家はね、二階から湊が見えるんだってさ」
少し間があった。
「国には帰れなくなるけど……いいんだ。親はあたしを売ったんだもの。神奈川のほうが、ずっといいよね」
そこまで言って、お駒はぱっと顔を上げて笑った。
「もう受けたのか」
「まだ。返事はまだしてない」
お駒は簪に手をやり、少し傾いていたのを挿し直した。
「あたしが船主のおかみさんだって。新さん、どう思う――?」
お駒は新吾の顔をまっすぐに見ていた。先を想像して微笑んでいるようにも見えたし、新吾の言葉を待っているようにも見えた。
「若菜、俺は……」
言いかけて、新吾は懐に手をやりかけ……やめた。
包みの中には小判が五枚ある。これで片はつく。払ってやると言えばいい。言うつもりで、本所からの道を歩いてきたのである。
だが……払ったあとはどうなるのか。一本差しの、普段何をしているのかも言えない男が、この娘を店から出してそれからどうする。見も知らぬ国で小料理屋を開く──そう言ったとき、渡辺様は声を荒らげるでもなく、ただ口を噤んだ。本来なら、罵られても仕方のないことであるのに。
二階から湊の見える家。船を三艘持つ旦那の後添い。
対してこちらは十手すら組屋敷に置いてきて、刀も満足に振れぬ男である。身の上さえ明かせずにいる。そんな男が何を差し出して張り合うというのか。
「俺は……なに?」
お駒が新吾を見つめ、促すように首を傾げた。新吾は酒の注がれた盃に目を落とした。酒の面に、行灯の灯が揺れていた。
「……何でもない」
お駒はしばらく新吾の横顔を見つめていたが、返事は来ないと見たのか、ふっと肩の力を抜いて銚子を取り上げた。
「もう。今夜はもうこの話、やめやめ。湿っぽくするつもりなんてないのに」
空気を変えるように、新吾の腕に触れた。空になりかけた盃に酒が再び満ちていく。
新吾はその横顔を見た。店の主に押し切られかけて、誰にも言えずに迷っている。だから自分に訊いたのだ。そう思った。そうに違いない。そう思うと、胸の奥が少し軽くなった。
「黙ってる時の新さんが、いちばんいい男」
お駒が肩に頭をもたせかけてくる。鬢付け油の甘い匂いが鼻先をくすぐる。その下に、丁子の香がかすかに残っている。新吾はそれを深く吸い込んだ。
胸の虚ろは、どうしてか埋まらないままだった。