障子の外はまだ薄暗い──。階下では店の者が雨戸を開ける音がして、どこかの座敷からは客を起こす女の声がしていた。
新吾が羽織に腕を通すと、後ろから伸びてきた手が襟を直そうとする。
「襟、曲がってた」
「すまん」
「帯も。ほら、じっとして」
お駒は新吾の前に膝をつき、腰に両腕を回して帯を整えた。寝乱れた髪を手早くまとめただけの頭が、新吾の腹のあたりにある。昨夜の簪は抜き取られ、もうそこにはない。
「若菜」
呼ぶと、お駒の指が止まった。
「昨夜の話だが」
「朝からその話は、なーし」
お駒は立ち上がって新吾の唇に指を一本当てた。それから帯をぽんと叩いて笑う。
「はい、おしまい」
言い掛けた言葉はそれきりになり、お駒は寝巻きの上に羽織を引っかけて表口まで送りに出た。
歩行新宿の朝は早い。通りのあちこちで女郎たちが泊まりの客を送り出しており、荷を担いだ旅人がその間を縫って北へ南へ急いでいく。
お駒は暖簾の下で立ち止まり、名残を惜しむように新吾の袖を軽くつまんで引いた。
「また来てね」
「ああ」
「すぐだよ。新さんのこと、待ってるから」
手を離すと、お駒は小さく羽織の袖を振った。
北へ歩き出す──。振り返ると、お駒はもう暖簾の内へ戻ってゆくところだった。
妙な寂しさを感じつつ、再び歩き出す。二、三軒先の旅籠の前で女が一人、竹箒で表を掃いていた。四十に届くかという年格好で、襷掛けに前掛けを締め、髪は手拭いで包んでいる。飯盛女ではなく台所で働く女であろう。
新吾が前を通り過ぎようとすると、女が箒を止めた。
「もし、お侍さま。お落としになりましたよ」
女は腰を屈めて足元から何かを拾い上げる仕草をして、新吾に差し出した。小さく固く結んだ紙である。新吾には見覚えのないものだ。
「いや、俺はこんなもの……」
怪訝な顔で受け取ると、女は手渡す拍子に小さく言う。
「確かにお渡ししましたよ──」
それだけ言うと、女は何事もなかったように頭を下げ、また箒を動かし始めた。女はもう、こちらを見ようともしない。
新吾は紙を握ったまま、しばらくその場に立っていた。繋ぎの女──そんな言葉が頭に浮かぶ。
谷山稲荷の境内へ入り、辺りに人のいないことを確かめてから紙を広げる。墨の線が太く、跳ねの強い字であった。
──北の天王門前、辰五郎方にて源太を訪ねよ。
見覚えのある字である。詰所の文机の上で、何度も目にしてきた。新吾の出した書付の端に朱を入れて直す、上役の筆跡であった。
新吾はしばらく迷った末、紙を畳み直して懐に入れ、重い足取りで来た道を戻った。
§
北の天王社の門前は、まだ朝の支度の最中であった。床店の幾つかは板を打ち直してあり、真新しい木の色がまだ目立つ。歩行新宿の元締めが北の天王の門前へ殴り込んだという話は、汐見屋の若い衆の噂で新吾の耳にも入っていた。
屋敷の門を潜り、出てきた若い衆に源太の名を出すと、男は新吾の一本差しと顔を見比べ、黙って奥へ引っ込んだ。代わりに出てきたのは、四十くらいの大柄な女。
「旦那のお客さんだね。さ、お上がりなさいな」
女は新吾を土間から上げ、廊下を奥へと案内した。磨き込まれた板の廊下は、母屋から離れへと続いている。その途中、どこからか咳が聞こえてきた。
一つ、二つと続き、治まったかと思うと、また喉の奥から絞り出すように続く。女の足が一瞬止まり、すぐにまた歩き出した。
離れの障子を開けると、遊び人姿の上役が火鉢の前に胡座をかいていた。稲荷の裏で見たのと同じ、裏地の派手な羽織を着ている。
「早かったな。まぁ、座れ」
新吾は敷居の内に膝をついた。女が茶を二つ置き、何も言わずに下がっていく。
「渡辺様、なぜこのようなところに……」
「牛頭の辰五郎の世話になっている。用心棒としてな」
「……それは存じております。汐見屋の若い衆が噂しておりましたので」
「ほう、何と言っていた」
「旅籠の先生方を素手でのした野郎だと」
新吾が問うと、源一郎が口の端で笑う。
湯気の立つ茶に手を付けないまま、早速源一郎は本題へと入った。
「──昨夜、汐見屋に客が一人上がった。仕立ての良い羽織の、日に焼けた旦那風の男だ。お前も登楼していたろう、見かけなかったか?」
茶碗に伸ばしかけた新吾の手が止まった。それは昨日、お駒に身請け話を持ち掛けていた男だ。
「……見かけました。ですが、なぜそれを?……この呼び出しは、俺のことを咎めるためではないのですか」
「馬鹿を言うな。呼び出しはその件ではない。辰五郎のところの駕籠かきや荷運びに、汐見屋の出入りを見張って貰っていてな。お前がたまたまそこに通っていただけのこと」
自分が目的ではない──?
新吾は訝しんだ。
「では、なぜ……今朝の女は」
「お茂……さっきお前をここへ案内した女の、昔の朋輩でな。年季が明けて、旅籠の台所で働いているそうだ。昨夜のうちに文を届けて、お前が出てくるまで表を掃きながら待っていてもらった」
一本差しで、左の肩を庇って歩く若い侍だと言ってある──新吾は言葉に詰まった。
「見張りから、床に上がったというわけでもなく、お駒が表まで見送った男がいたと報せがあってな。こいつだと判断した。そこへ、お前だ」
話が見えてこない。あの男が何だというのか。源一郎は茶碗を脇へ寄せた。
「辰五郎親分には既に明かしてある」
「……火盗改だと」
「ああ」
「そろそろ、渡辺様が品川におられる理由をお聞きしても?」
「そう急くな。元はお前の様子を見に来たのだが……品川を見て歩く内に、別のものに行き当たってしまってな」
源一郎は火箸を取り、炭の向きを一つ変えた。
「──新吾。汐見屋に、小柴という女がいたのをお駒から聞いているか」
「……いえ」
「一年ほど前まで汐見屋にいたのだが、病を得て店を出された。それを辰五郎が拾った」
「……もしや、先ほど聞こえてきた咳は」
「ああ」
源一郎はそれだけ言った。
「十年前、相州の在の祭りの晩、縁日の屋台の男に扮した女衒に攫われた後、品川に連れて来られて汐見屋に入れられた。借金の証文には、縁もない武州の村の、知らない男とその娘の名が書いてあったそうだ」
「攫われた……?売られたのではなく」
「親に売られたことにされているのだ。証文の上ではな」
源一郎は火箸を灰に挿した。
「その小柴が言うには、汐見屋では年季明けの近い女がよく消える。年季明けを前に、ろくに知りもしない旦那から身請けの話が来るのだそうだ。受けても、断っても、女はいつの間にか身請け先に発ったことにされ、それきり便りの一つもない」
新吾の背中を、冷たいものが這い上がった。
「小柴が外に出される更に一年前、お蔦という女がいた。小柴の姉女郎のような女だ。この者も将来を誓った馴染みから貰った守り袋を置いて、ある晩に呼び出されたまま消えている」
「その消えた女たちの行方は掴めているのですか」
「網小屋で殺され、海に沈められた」
新吾は息を呑んだ。
「どこで、それを……」
「さる筋からだ。確かな筋だが、お白州では通せん」
源一郎は新吾をまっすぐに見た。
「わかるか。次は、お駒だろうよ。お前を呼び出したのは、それを知らせるためだ」
新吾は首を振った。
「まさか……」
言いかけて、新吾は口を噤んだ。源一郎は何も言わず、続きを待っている。
「確かに身請け話があると若菜は──お駒ははしゃいでおりました。身請け主の神奈川にある家は二階から湊が見えるのだと」
「やはり身請け話が来ていたか……もう話を受けたのか」
「……まだです。返事はしておらぬと」
「お蔦も、受けるとは一言も言わぬうちに呼び出されている」
新吾は茶碗を見下ろした。湯気はもう立っていなかった。
まさか、という思いが消えなかった。だが、なぜお駒がその女たちと同じだと言えるのか。腹の底で怒りにも似た思いがし、口からついてでる。
「ですがっ……なぜお駒がその女たちと同じだと」
「条件が合い、その身請けの話をお駒に通しているのが汐見屋の主だからだ。そして、汐見屋は大百足の勘蔵に乗っ取られており、金は全て勘蔵に吸い取られる仕組みになっている」
新吾は口を噤んだ。
懐の包みが急に軽く感じた。三両で残りの借金を払い、二両を店への詫び代にする。そうすれば、あの娘を店から出してやれると、そう思って歩いてきた。しかし、五両は無価値にも等しかった。
源一郎は新吾の顔から目を離さずに続けた。
「あの娘の国は、どこか聞いているか」
「……武州の在と」
「小柴は上州だと言っていたぞ」
新吾は弾かれたように顔を上げた。
「お駒が来たばかりの頃は、夜ごと泣いていたそうでな。泣きながら口にしたのは、上州の在だったと」
「……」
「入ったばかりの娘は、店の主に証文の国と名を叩き込まれる。人別改めで問われた時には、そう言えとな。客に訊かれた時も同じだ。違うことを口にしたり、逃げたりすればどうなるか……そうやって脅されるのだそうだ」
「では、お駒は俺に……」
「嘘をついている」
「借金の証文は」
「でっち上げだ」
ついでに言えば、許し難いことに、改めの役人と店主は昵懇の仲にあると──源一郎の声は低かった。
「小柴のように……運良く店を出されたところで、あの娘はどこへも帰れん。上州の人別からは、とうに名が消えているだろう。足抜けしようものなら、手形は貰えず一生無宿で生きるしかない。いや、そもそも渡す気もないのだろうが──汐見屋はそう言って女たちを縛り、籠の中の鳥として飼っている」
源一郎は火鉢の縁に手を置いた。
「店主も、店主の後ろにいる者も、実態を知る者が外に出ることを許しはせん。だから身請けを装って消しているのだ」
信じがたい話だった。
それに、お駒が本当の名だと言ってこっそりと若菜という名を教え、それと同時に生まれについては嘘をついていたことも。
「若菜という名は……」
新吾の声は掠れていた。
「さてな……小柴もその名は言っていなかった」
それが本当の名なのか、それとも嘘なのか、新吾にはわからなかった。
「年の内に、勘蔵の賭場に御用改めをかける。御頭も承知の上だ。辰五郎はそれに手を貸す」
源一郎の声が、さらに低くなる。
「だが、賭場を先に踏めば、網小屋で殺しの現場を押さえられん。そこで、あの娘が網小屋へ連れ出される晩に、両方に踏み込む必要がある」
そこで一拍置いた。
「力を貸せ、新吾」
新吾は答えなかった。答えられなかった。
十手は組屋敷に置いてきた。組には戻らぬと、稲荷の裏でこの人に言ったのは自分である。庭で木刀を構えても、打ち込もうとすれば腕が止まる。なのに網小屋へ踏み込めと言う。
階段を下りていった男の白い手が、ふと頭に浮かんだ。手すりに掛けた長い指。節の立っていない綺麗な指──。
源一郎はしばらく覇気の無い新吾の顔を見ていたが、廊下の奥でまた咳が始まると腰を上げた。
「少し時間をやる。だが、日はないぞ」
障子が開き、閉まった。廊下を遠ざかる足音が母屋の方へ消えていく。
新吾は……着物の上からただ、懐の包みを押さえることしか出来なかった。