好いた女──。助けられるならその方が良いのは明白だ。なのに、悩むということは自身が恐れていることに他ならない。これでは武士であることに続き、男であることからも逃げることになる。
──膝に渇を入れて立ち上がり、気づけば上役を追い掛けていた。
渡り廊下を奥へ折れると、母屋の突き当たりに小部屋がある。その前で、上役の源一郎が手拭いで鼻と口を覆い、頭の後ろで結んでいるところだった。
足音に振り返った源一郎は、何も言わずに新吾の顔を見て、懐からもう一本手拭いを出して放ってよこした。
「入るなら口元を覆え。出たら手を洗って口を濯げ」
妙なことを言う。神事でもあるまいし、病人に近寄るのに口元を覆う者など新吾は聞いたこともなかった。町医者でさえそんなことはしない。それをこの人は、病がどこからくるのか知っているような顔をして言う。
──組屋敷の路地で、誰も知らない知恵を当たり前のように口にしていた子供の顔が、ふと浮かんだ。
新吾も黙って手拭いを口に当てた。
障子を開けると、温く湿った空気が顔に触れた。火鉢の炭の匂いの下に、甘酸っぱく饐えたような臭いがかすかに混じっている。
さほど広くない小部屋である。庭に面した雨戸が一寸ばかり開けてあり、細い光が畳に一筋落ちていた。外の風が枕元へ届かぬよう衝立が立てられ、火鉢に掛けた薬缶が白い湯気を細く上げている。その枕元で、新吾を離れへ案内してくれたお茂が、咳き込む女の背をさすっていた。
咳がようやく途切れ、女が仰向けに戻った。
年の頃は新吾には分からなかった。色が白く、頬がこけて目の下の隈も濃い。掻巻の襟から覗く首は筋が浮くほど細く、浅い息のたびに胸が小さく上下している。
「小柴」
源一郎が枕元に膝をついた。
「こいつは俺の仲間でな。汐見屋のお駒の馴染みでもある」
小柴の視線が、源一郎の顔からその後ろの新吾へと動いた。
「……お駒、の……?」
「喋るな。また咳が出るぞ」
小柴はほんの少し首を振った。
「お駒……あの子は、元気ですか……あの子が……来たばかりの、頃は……」
遠くを見るような目になり、こけた頬がわずかに緩んだ。
それも喉の奥で鳴った細い音に途切れた。お茂が素早く小柴を横向きにしてやる。咳が二つ三つ続き、口元に布が当てられた。布が離れると、小柴はまた新吾の方へ目を向けた。
「毎晩……泣いて……あたしの、布団に……もぐりこんで……」
「もういい」
源一郎が言った。小柴は口を閉じたが、目は新吾から離れず、唇がもう一度かすかに動いた。
「どうか……あの子を……」
その先は聞こえなかった。
新吾は膝の上で両の拳を握った。
十四、五のお駒が泣きながらこの女の布団に潜り込んでいく。その姿が、うまく思い描けなかった。新吾の知っているお駒は、よく笑い、人の袖を引き、拗ねてみせては抓ってくる娘である。人に弱味を見せないとも言う。その一面を見せる者がいたことに、何とも言えない感情を抱く。
「邪魔をしたな。ゆっくり休めよ──」
源一郎が立ち上がり、新吾も後に続いた。廊下に置かれた手水鉢で手を洗い、口を濯いで吐き出す。冷たい水が指の先に痛かった。
§
母屋の座敷で、新吾は辰五郎に引き合わされた。
長火鉢の前に胡座をかいた五十半ばほどの男である。源一郎が「仲間だ」とだけ言うと、辰五郎は新吾の顔を一度見て、軽く会釈をした。
「そうですかい。旦那のところの」
腰の低い人物だ。けれども推し量るような目は、新吾の顔から少しも外れていなかった。しかし、それきり辰五郎は新吾の素性を問うこともしない。
土間が騒がしくなった。若い衆が三、四人、草履を脱ぐのももどかしそうに上がり框へ詰め寄って来る。
「親分っ!また北の外れの床店に勘蔵の野郎どもが来やがった!」
「場所代を寄越せってんで、婆さんを突き飛ばして……!」
「これで五軒目だ。親分っ、いつまで黙って――」
その前へ、肩幅のある目つきの鋭い若い衆が一人割って入った。
「黙らねぇか」
男は低い声で言い、詰め寄る者たちの胸を両手で押し戻した。
「親分の言いつけだ。今は堪えろ」
「留の兄ぃ!けど……」
「堪えろってんだ」
留と呼ばれた男の拳は、握られたまま震えていた。若い衆たちは顔を見合わせ、一人、また一人と不承不承に土間を出ていく。留はその背を見送ってから座敷へ向き直り、黙って頭を下げた。
辰五郎は煙管をくわえたまま、一度も口を挟まない。新吾はしばらく、留のその拳から目が離せなかった。
辰五郎が煙管を置き、懐から紙の包みを取り出して長火鉢の縁に置いた。
「旦那。こいつを、あの娘に飲ませようと思うんですがね」
辰五郎は包みを指で押した。
「麦門冬湯だの補中益気湯だの、本道の医者の言う薬はここへ来てからずっと飲ませてきやした。だが、あの殴り込みの晩からこっち、咳がどうにも止まらねぇ。あれじゃあ眠れもしねぇ。それで香具師の筋に頼んで、五味子丸を取り寄せたんでさ。貴重なもんで、それだけしか手に入らなかったが」
どれも鎮咳に役立つ薬であるが、五味子丸はそのなかでも効果が強く、無理矢理咳を治める時に使われる。
「精の付く一粒金丹なんざ、大名か大店の旦那衆の口にしか入らねぇ。あっしらの手の届くのは、このへんまででさ」
源一郎は包みを取り上げて開いた。黒い丸薬が十粒ほど転がる。その一粒を指でつまみ、鼻に近づけた。
「五味子丸か……」
「へぇ、それに罌粟殻が入ってるとも聞いてまさ」
その名を聞いて源一郎は黙った。丸薬をつまんだ指が、しばらく動かなかった。
「……咳は止まるだろうさ」
ややあって、源一郎が言う。
「だが咳というのは、胸の奥に溜まった悪いものを外へ吐き出そうとする体の働きだ。罌粟と五味子で咳を断ってしまえば、悪いものは出て行き場をなくして中に籠もることになる」
「……よした方がいいんで?」
辰五郎が低く訊いた。源一郎は丸薬を紙に戻し、包みを辰五郎の前へ返した。
「飲ませても飲ませなくても、小柴はもう長くない。部屋に死臭がしていた」
源一郎の声は静かだった。
「俺なら、咳に苦しんで起きているより眠れる方を取ってやりたい……だが、それを決めるのは俺ではない」
源一郎は辰五郎をまっすぐに見た。
「──あの娘は、今は親分の家の者だ」
渡世の者の間では、盃を受けた子分も、その屋根の下で飯を食う者も、血の繋がりがなくとも親分の子として扱われる。子の不始末は親が背負い、子は親に忠誠を誓う。そこへ他人が口を挟むのは、たとえお上の役人でも筋違いだ。辰五郎がこの屋敷に置いている女たちは、拾われたその日から一家の娘になっているのだから。
源一郎がそれを承知で言っているのだと、新吾にも分かった。
辰五郎は包みに目を落としたまま、しばらく黙っていた。長火鉢の縁に置いた煙管の火が、細く消えかけていた。
「……そうですな。あいつらは皆、あっしの娘でさ」
低く呟いて、辰五郎は手を打った。間もなく廊下にお茂が膝をつく。辰五郎は包みを取り、その手に載せた。
「あの娘は、もう幾晩も眠れてねぇ。飲ませてやれ」
お茂は包みを両手で受け取り、黙って下がっていった。
新吾は上役の顔を見た。先ほど手拭いの結び目を締めていた時の迷いのなさが消え失せている。目を伏せ、空になった自分の掌を、無力を噛み締めるように。
その横顔に落ちた翳りは、新吾が一度も見たことのないものだった。