その日から、新吾は辰五郎の屋敷で寝泊まりするようになった。
上役の源一郎にそうしろと言われたわけではないが、気がつけばそうなっていた。汐見屋へは足を向けず、懐に入れたお駒の文を開くこともない。新吾はただ、自分が何をすべきか悩んでいた。
――対照的に、源一郎はほとんど屋敷にいなかった。
朝のうちに辰五郎と短く言葉を交わし、留や駕籠かきの男を一人二人連れて出ていく。戻るのはいつも日が落ちてからで、ある晩は着物の裾がじっとりと潮に濡れ、草履の裏に浜の砂がついていた。どこへ行っていたのかと訊くと、源一郎は「浜だ」としか言わなかった。
夜は夜で、源一郎は行灯を引き寄せて文を書いているようだ。
書き上げた文は辰五郎の若い衆の手で、夜明けを待たずに江戸方面へ運ばれていく。宛名の一つが襖の隙から見えたが『真島権助』とあり、新吾は目を逸らした。
二日目の昼過ぎ、屋敷を見覚えのある人物が訪ねてきた。
「若旦那、遅くなりやした」
熊造であった。軽い旅装で、埃を払いながら縁側に腰を下ろす。そこで初めて新吾の存在に気づいたようだった。熊造の目が一瞬丸くなり、すぐにいつもの顔に戻る。
「こりゃ、田沼の旦那。肩はもうよろしいんで」
「……ああ」
「そいつは何よりで」
役目に出ていない話は知っているだろうに、熊造はそれだけ言うと源一郎に向き直った。
二人が低い声で話し始めた。浜の網小屋の位置、潮の引く刻、権助と本太郎がいつ品川へ入るか、熊造が手下を何人連れてくるか。詰所でなら自分も加われていたはずの話を、新吾はどこか他人事のように聞いていた。
――五味子丸を飲ませると、小柴の咳は嘘のように鎮まった。
夜通し聞こえていた咳が一晩で途切れがちになり、二晩目にはほとんど聞こえなくなった。あの娘がやっと眠れるようになったと、お茂が目の縁を赤くしていた。
だが……良いことばかりではない。咳が鎮まった代わりに、体力の衰えは目に見えて早くなった。眠っている刻ばかりが長くなり、粥は三口が二口になり、そのうち一口も喉を通らなくなった。息は浅いのに苦しむ様子はない。ただ静かに眠っている――。だが、それがかえって死人のようで、お茂には恐ろしいらしかった。
三日目の晩、お茂が台所へ湯を替えに立った少しの間、新吾は頼まれて小柴の枕元に座った。
眠っていると思っていたが、新吾が衝立の陰に膝をつくと、掠れた声がした。
「……お侍さま」
「……あの人から喋るなと言われておるだろう。叱られるぞ」
「……お駒は」
小柴は息を継いだ。
「元気に、していますか」
「ああ。元気で、よく笑っている」
小柴の目が細くなった。悲し気か、嬉し気か、どちらとも言えないもの。それから天井を見たまま、ゆっくりと言葉を継いだ。
「どうか……あの子を……恨まないで、あげてください……」
新吾にはその言葉の意味が分からなかった。
「恨む?」
「あの子は……頭のいい子、ですから……」
それきり、小柴は何も言わなかった。目を閉じ、また浅い眠りに落ちていく。
恨まないでやってくれ、頭のいい子だから――頼み事に、誉め言葉。お茂が戻ってくるまで小柴の寝顔を見ていても、新吾にはその二つが終ぞ繋がることはなかった。
――泊まり込んで四日目の昼、小柴の息が変わった。
一つ吸って吐くまでの間が、少しずつ長くなっていく。衝立の陰から覗くと、唇が紫がかっていた。掻巻の端から出た指の爪も同じ色をしている。それでも表情は穏やかだった。目を薄っすら開けていても、どこを見ているのか分からず、お茂が名を呼んでも視線が少し動くだけだった。
その晩遅く、お茂が離れへ駆けてきた。
「あの娘が旦那を呼んでくれって……昼間は返事もしなかったのに、急にはっきりしてきて」
お茂に付き添われるように源一郎と新吾は奥の部屋へ向かった。新吾は手拭いで口を覆い、衝立の陰に膝をつく。
小柴は目を開けていた。昼のうちは何も映していなかった目が、入ってきた源一郎の顔をはっきりと捉えている。
「……源太、さま」
「ここにいる」
源一郎が枕元に膝をつくと、小柴は掻巻の下から片手を出した。痩せ細った指が、紐の端のほつれた古い守り袋を握っている。
「これ……お蔦姐さん、の……」
息を継ぐ。
「持ち主の、人に……返して……お蔦姐さん……ずっと……待ってた、から……」
源一郎は両の手で守り袋を受け取った。
「ああ、何も心配するな。俺が必ず届ける」
小柴の唇の端がわずかに緩んだ。濁りかけた目が源一郎をじっと見上げる。
「源太、さま……」
「ああ」
「思い人は……大事に……いて当たり前と、思ってても……いなくなって、からじゃ……遅いん、ですから……」
「ああ」
短く答えると、源一郎は身を屈め、小柴の耳元に口を寄せた。何かを囁いたが、新吾のところまではほとんど届かない。かろうじて、渡辺、という一語だけが聞こえた。
小柴の目が少しだけ細まる。唇が声にならない声で何かをなぞり、そうして源一郎を見て口元を緩める。
「それでも……あたしに、とっては……源太、さま、ですから……」
笑ったのだと、新吾は思った。
§
その夜更けに小柴の息はいよいよ細くなった。
お茂に呼ばれた源一郎の後について、新吾も部屋に入る。行灯の灯の下で小柴は横たわり、胸はもうほとんど動いていない。浅い息が、思い出したように一つ、また一つと漏れるばかり。顔は血の気が失せて白粉のように白かったが、苦しげな色はどこにもない。
源一郎は枕元に膝をつき、掻巻の下を探って小柴の手を握った。
小柴の瞼が震え、薄く開く。焦点の定まらない目が、それでも源一郎の顔の輪郭を探して彷徨っている。
「……もっと……はやくに」
声とも息ともつかなかった。
「あいたかった……」
源一郎は手を握ったまま黙っていた。
「……こわい」
源一郎の手の中で、小柴の指がかすかに動いた。
「ひとりは……いや……」
お茂が口元を押さえて顔を背けた。
小柴の目が源一郎の顔を見失ったように揺れた。唇が震える。
「……そこに……いますか……」
「いる」
源一郎は握った手に力を込めた。
「ここにいるぞ、小柴。安心しろ」
小柴の目がもう一度源一郎の方へ戻り、そのまま閉じた。
息の間が、少しずつ遠くなっていく。一つ吐き、しばらくしてまた一つ。行灯の芯が、じじ、と鳴った。次の息を待っているうちに、小柴の胸はもう動かなくなっていた。
お茂が声を殺して泣き出した。
源一郎は小柴の手を握ったまま、しばらく動かなかった。泣いてはいない。表情は硬く締まり、目は小柴の顔に据えられたまま瞬き一つしなかった。
やがて――その手をそっと掻巻の上に戻し、源一郎は乱れた前髪を指で整えてやったのだった。
§
小柴は南品川の海蔵寺に葬られた。
宿場の飯盛女が昔から葬られてきた寺で、門前に投げ入れられたり、身寄りのない女は墓地の奥の塚にまとめて葬られる。辰五郎は小柴をそこへは入れなかった。寺に掛け合って墓所の一角を求め、小さな白木の墓標を立てさせた。
早桶を担いだのは辰五郎の若い衆で、先頭に辰五郎が立ち、お茂と屋敷の女たちが後に続いた。読経が済み、土がかけられていくのを、新吾は源一郎の少し後ろに立って見ていた。
まだ生きてたのか――。汐見屋の若い衆の一人が吐いたその一言から、小柴は血を吐いて眠れなくなり、衰弱した。
汐見屋には、今も囲われた女たちがいる。証文に書かれた見も知らぬ国と名を与えられ、年季の明ける日を指折り数えながら、今夜も客を取る。そして、その年季が明けるより先に、身請けの話が来る。
――次はお駒だと、源一郎は言った。
お駒の。帯の結び目を直していた指が浮かんだ。朝からその話はなし、と唇に当てられた指。元気にしていますかと訊いた、小柴の掠れた声と笑み。
新吾は左の腰に手をやった。鍔の冷たさが指に触れる。
この刀を、もう一度抜けるのか。庭でさえ、打ち込もうとすれば腕が止まって身が竦むのに。抜いたところで、斬られた晩を思い出して膝を突くかもしれない。
お駒は、新吾を一本差しの浪人だと思っているのだ。火盗改の同心であることを、新吾は一度も口にしなかった。役目柄、素性を明らかにすることは出来ない。だから、新さんが言いたくないことは聞かないと笑ったあの娘に、ずっと黙って甘えてきた。国を偽っていたのはお駒だが、それは店に言わされていただけ。甘えていた新吾が責める謂れはない。
網小屋へ踏み込めば、何もかも知れることになる。新さんと呼んでいた男が、お上の役人であったことも。
それでも、あの娘の命に危機が迫る晩に、そこに立つのが自分でなくていいはずがなかった。
鍔に掛けた指に力がこもり、肩の傷痕が疼いた。
読経の最中、源一郎が踵を返し山門の方へ歩き出した。新吾はその背を追い、声を掛けた。
「渡辺様」
源一郎が足を止めた。
「網小屋へは、俺が参ります」
自分でも思わぬほど、声は低く落ち着いていた。
「俺に……捕えるべき悪党の顔を教えてください」