鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百九十九話 死に水 ※閲覧注意

 

 その日から、新吾は辰五郎の屋敷で寝泊まりするようになった。

 

 上役の源一郎にそうしろと言われたわけではないが、気がつけばそうなっていた。汐見屋へは足を向けず、懐に入れたお駒の文を開くこともない。新吾はただ、自分が何をすべきか悩んでいた。

 

 ――対照的に、源一郎はほとんど屋敷にいなかった。

 

 朝のうちに辰五郎と短く言葉を交わし、留や駕籠かきの男を一人二人連れて出ていく。戻るのはいつも日が落ちてからで、ある晩は着物の裾がじっとりと潮に濡れ、草履の裏に浜の砂がついていた。どこへ行っていたのかと訊くと、源一郎は「浜だ」としか言わなかった。

 

 夜は夜で、源一郎は行灯を引き寄せて文を書いているようだ。

 

 書き上げた文は辰五郎の若い衆の手で、夜明けを待たずに江戸方面へ運ばれていく。宛名の一つが襖の隙から見えたが『真島権助』とあり、新吾は目を逸らした。

 

 二日目の昼過ぎ、屋敷を見覚えのある人物が訪ねてきた。

 

「若旦那、遅くなりやした」

 

 熊造であった。軽い旅装で、埃を払いながら縁側に腰を下ろす。そこで初めて新吾の存在に気づいたようだった。熊造の目が一瞬丸くなり、すぐにいつもの顔に戻る。

 

「こりゃ、田沼の旦那。肩はもうよろしいんで」

「……ああ」

「そいつは何よりで」

 

 役目に出ていない話は知っているだろうに、熊造はそれだけ言うと源一郎に向き直った。

 

 二人が低い声で話し始めた。浜の網小屋の位置、潮の引く刻、権助と本太郎がいつ品川へ入るか、熊造が手下を何人連れてくるか。詰所でなら自分も加われていたはずの話を、新吾はどこか他人事のように聞いていた。

 

 ――五味子丸を飲ませると、小柴の咳は嘘のように鎮まった。

 

 夜通し聞こえていた咳が一晩で途切れがちになり、二晩目にはほとんど聞こえなくなった。あの娘がやっと眠れるようになったと、お茂が目の縁を赤くしていた。

 

 だが……良いことばかりではない。咳が鎮まった代わりに、体力の衰えは目に見えて早くなった。眠っている刻ばかりが長くなり、粥は三口が二口になり、そのうち一口も喉を通らなくなった。息は浅いのに苦しむ様子はない。ただ静かに眠っている――。だが、それがかえって死人のようで、お茂には恐ろしいらしかった。

 

 三日目の晩、お茂が台所へ湯を替えに立った少しの間、新吾は頼まれて小柴の枕元に座った。

 

 眠っていると思っていたが、新吾が衝立の陰に膝をつくと、掠れた声がした。

 

「……お侍さま」

「……あの人から喋るなと言われておるだろう。叱られるぞ」

「……お駒は」

 

 小柴は息を継いだ。

 

「元気に、していますか」

「ああ。元気で、よく笑っている」

 

 小柴の目が細くなった。悲し気か、嬉し気か、どちらとも言えないもの。それから天井を見たまま、ゆっくりと言葉を継いだ。

 

「どうか……あの子を……恨まないで、あげてください……」

 

 新吾にはその言葉の意味が分からなかった。

 

「恨む?」

「あの子は……頭のいい子、ですから……」

 

 それきり、小柴は何も言わなかった。目を閉じ、また浅い眠りに落ちていく。

 

 恨まないでやってくれ、頭のいい子だから――頼み事に、誉め言葉。お茂が戻ってくるまで小柴の寝顔を見ていても、新吾にはその二つが終ぞ繋がることはなかった。

 

 ――泊まり込んで四日目の昼、小柴の息が変わった。

 

 一つ吸って吐くまでの間が、少しずつ長くなっていく。衝立の陰から覗くと、唇が紫がかっていた。掻巻の端から出た指の爪も同じ色をしている。それでも表情は穏やかだった。目を薄っすら開けていても、どこを見ているのか分からず、お茂が名を呼んでも視線が少し動くだけだった。

 

 その晩遅く、お茂が離れへ駆けてきた。

 

「あの娘が旦那を呼んでくれって……昼間は返事もしなかったのに、急にはっきりしてきて」

 

 お茂に付き添われるように源一郎と新吾は奥の部屋へ向かった。新吾は手拭いで口を覆い、衝立の陰に膝をつく。

 

 小柴は目を開けていた。昼のうちは何も映していなかった目が、入ってきた源一郎の顔をはっきりと捉えている。

 

「……源太、さま」

「ここにいる」

 

 源一郎が枕元に膝をつくと、小柴は掻巻の下から片手を出した。痩せ細った指が、紐の端のほつれた古い守り袋を握っている。

 

「これ……お蔦姐さん、の……」

 

 息を継ぐ。

 

「持ち主の、人に……返して……お蔦姐さん……ずっと……待ってた、から……」

 

 源一郎は両の手で守り袋を受け取った。

 

「ああ、何も心配するな。俺が必ず届ける」

 

 小柴の唇の端がわずかに緩んだ。濁りかけた目が源一郎をじっと見上げる。

 

「源太、さま……」

「ああ」

「思い人は……大事に……いて当たり前と、思ってても……いなくなって、からじゃ……遅いん、ですから……」

「ああ」

 

 短く答えると、源一郎は身を屈め、小柴の耳元に口を寄せた。何かを囁いたが、新吾のところまではほとんど届かない。かろうじて、渡辺、という一語だけが聞こえた。

 

 小柴の目が少しだけ細まる。唇が声にならない声で何かをなぞり、そうして源一郎を見て口元を緩める。

 

「それでも……あたしに、とっては……源太、さま、ですから……」

 

 笑ったのだと、新吾は思った。

 

 §

 

 その夜更けに小柴の息はいよいよ細くなった。

 

 お茂に呼ばれた源一郎の後について、新吾も部屋に入る。行灯の灯の下で小柴は横たわり、胸はもうほとんど動いていない。浅い息が、思い出したように一つ、また一つと漏れるばかり。顔は血の気が失せて白粉のように白かったが、苦しげな色はどこにもない。

 

 源一郎は枕元に膝をつき、掻巻の下を探って小柴の手を握った。

 

 小柴の瞼が震え、薄く開く。焦点の定まらない目が、それでも源一郎の顔の輪郭を探して彷徨っている。

 

「……もっと……はやくに」

 

 声とも息ともつかなかった。

 

「あいたかった……」

 

 源一郎は手を握ったまま黙っていた。

 

「……こわい」

 

 源一郎の手の中で、小柴の指がかすかに動いた。

 

「ひとりは……いや……」

 

 お茂が口元を押さえて顔を背けた。

 

 小柴の目が源一郎の顔を見失ったように揺れた。唇が震える。

 

「……そこに……いますか……」

「いる」

 

 源一郎は握った手に力を込めた。

 

「ここにいるぞ、小柴。安心しろ」

 

 小柴の目がもう一度源一郎の方へ戻り、そのまま閉じた。

 

 息の間が、少しずつ遠くなっていく。一つ吐き、しばらくしてまた一つ。行灯の芯が、じじ、と鳴った。次の息を待っているうちに、小柴の胸はもう動かなくなっていた。

 

 お茂が声を殺して泣き出した。

 

 源一郎は小柴の手を握ったまま、しばらく動かなかった。泣いてはいない。表情は硬く締まり、目は小柴の顔に据えられたまま瞬き一つしなかった。

 

 やがて――その手をそっと掻巻の上に戻し、源一郎は乱れた前髪を指で整えてやったのだった。

 

 §

 

 小柴は南品川の海蔵寺に葬られた。

 

 宿場の飯盛女が昔から葬られてきた寺で、門前に投げ入れられたり、身寄りのない女は墓地の奥の塚にまとめて葬られる。辰五郎は小柴をそこへは入れなかった。寺に掛け合って墓所の一角を求め、小さな白木の墓標を立てさせた。

 

 早桶を担いだのは辰五郎の若い衆で、先頭に辰五郎が立ち、お茂と屋敷の女たちが後に続いた。読経が済み、土がかけられていくのを、新吾は源一郎の少し後ろに立って見ていた。

 

 まだ生きてたのか――。汐見屋の若い衆の一人が吐いたその一言から、小柴は血を吐いて眠れなくなり、衰弱した。

 

 汐見屋には、今も囲われた女たちがいる。証文に書かれた見も知らぬ国と名を与えられ、年季の明ける日を指折り数えながら、今夜も客を取る。そして、その年季が明けるより先に、身請けの話が来る。

 

 ――次はお駒だと、源一郎は言った。

 

 お駒の。帯の結び目を直していた指が浮かんだ。朝からその話はなし、と唇に当てられた指。元気にしていますかと訊いた、小柴の掠れた声と笑み。

 

 新吾は左の腰に手をやった。鍔の冷たさが指に触れる。

 

 この刀を、もう一度抜けるのか。庭でさえ、打ち込もうとすれば腕が止まって身が竦むのに。抜いたところで、斬られた晩を思い出して膝を突くかもしれない。

 

 お駒は、新吾を一本差しの浪人だと思っているのだ。火盗改の同心であることを、新吾は一度も口にしなかった。役目柄、素性を明らかにすることは出来ない。だから、新さんが言いたくないことは聞かないと笑ったあの娘に、ずっと黙って甘えてきた。国を偽っていたのはお駒だが、それは店に言わされていただけ。甘えていた新吾が責める謂れはない。

 

 網小屋へ踏み込めば、何もかも知れることになる。新さんと呼んでいた男が、お上の役人であったことも。

 

 それでも、あの娘の命に危機が迫る晩に、そこに立つのが自分でなくていいはずがなかった。

 

 鍔に掛けた指に力がこもり、肩の傷痕が疼いた。

 

 読経の最中、源一郎が踵を返し山門の方へ歩き出した。新吾はその背を追い、声を掛けた。

 

「渡辺様」

 

 源一郎が足を止めた。

 

「網小屋へは、俺が参ります」

 

 自分でも思わぬほど、声は低く落ち着いていた。

 

「俺に……捕えるべき悪党の顔を教えてください」

 

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