鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第二百話 新吾の変装

 

 ――新吾らが辰五郎の屋敷へ戻ったのは、日が西へ傾きかけた頃であった。

 

 離れの隅の火鉢。朝に熾したままだった炭団は、白い灰をかぶって埋まっていた。源一郎が火箸を取り、掻き分けて灰を落とす。小さな埋み火が一つ赤い色を覗かせ、次第にじんわりと熱を放っていった。

 

 新吾は向かいに膝を揃え、それを見ていた。

 

「──まず、勘蔵の人相を教える」

 

 火箸を繰りながら源一郎が言った。悪党の顔を教えてくれと頼んだのは新吾の方であったが、帰りの道中、源一郎は中々話を始めようとはしなかった。

 

 それほどに、小柴の死は源一郎に何かを考えさせるものだったのか――。

 

 火箸が灰を掻く音だけが続いた。源一郎の視線は埋み火に落ちたまま動かない。

 

 妙な緊張感。新吾は膝の上で手を握り直した。

 

 障子を閉め切った離れの座敷に、火鉢を挟んで座っているだけである。それでも空気はヒリつき、首筋に刃を当てられているような心地がした。この上役が時折見せる、ぞっとするような恐ろしい気配──。それが今は隠されもせず、座敷の間を満たしている。

 

「大百足の勘蔵──。三十の半ばを過ぎた男で、帯から煙草入れを提げている。根付は象牙の百足だから分かりやすい。表向きは船宿の主だが、裏では賭場を張り、金貸しもしている。御用改めでまず挙げるのは、この男だ」

 

 低く、荒げたところは一つもない声だ。だが一語ごとに、その荒くれた意思が言下に抑えられるているのだと感じさせる。

 

「は」

 

 緊張で、返事が喉に引っかかった。

 

「加えて──、船宿の番頭の巳之助。年は三十半ばほど。細身で、身なりは大店の番頭のようにきちんとしている。目は切れ長の三白眼。物言いは静かだ。勘蔵の右腕として女たちを集めており、汐見屋へ連れてきた女衒の頭目と目される」

 

 巳之助の名を口にした時、源一郎の目がわずかに細くなった。その目の奥にある火は、赤々とした火鉢の炭を映したものだったのか──。

 

 ざくり、と音がし、源一郎は火箸を灰に挿した。

 

「船宿は歩行新宿の浜の側にあって、裏手から桟橋が沖へ延びている。明日の朝は棒手振りに化けて、船宿の周囲を見てこい。その後に浜の漁師小屋に入って張り込め。段取りは辰五郎に話をつけておく。小屋からなら、船宿の裏手、桟橋から出入りする者を見ていられよう」

 

 源一郎は少し間を置いた。

 

「お蔦が殺された網小屋もその先の砂浜にある。使われなくなった古い小屋だ。誰が近づくかも見ておけ」

 

 新吾は膝の上で拳を握った。

 

「役目に際し、言っておくことが三つある。一つ、今回は的と場所の確認に徹せ。勘蔵と巳之助の顔、船宿と網小屋の様子を見てくるだけでいい。何かあっても手は出さないことだ」

 

 源一郎が顔を上げた。

 

 まともに目が合った。逸らすことを許さない目である。新吾は背筋を伸ばし、その視線を受け止めた。

 

「二つ、改めを終えるまでは汐見屋へはこれまで通り通え。店の空気の変化やお駒の反応を確かめたい」

「……は」

「三つ、この品川では熊造のいつもの伝手は使えん。もし人手が要るなら言え。俺から辰五郎に頼んでみる」

「心得ました」

 

 源一郎はそこでようやく目を伏せ、煙管を手に取った。離れに張り詰めていたものが僅かに緩み、新吾はそこでようやく自分が息を詰めていたことに気づいた。

 

「心して掛かれ」

 

 叱咤の声。念を押されずとも……既に覚悟はついていた。

 

 §

 

 夜明けまでには、まだ一刻ほどある。

 

 新吾は腰の刀を鞘ごと抜いて、床の間の刀掛けに置いた。腰の重みが消え、心許ない心地になる。しかし――棒手振りが刀を差しているはずもないなく、脱刀は避けられないことだ。

 

 土間では留が待っていた。足元に天秤棒と股引、手拭いが置いてある。新吾が着物の裾を端折って股引を穿き頬被りをすると、留は頭のてっぺんから爪先まで眺めて鼻を鳴らした。

 

「……侍が棒手振りに化けるとはな」

 

 留を連れ立って屋敷を出る。

 

 北品川の浜はまだ暗く、波打ち際で女が一人、桶を二つ並べて待っていた。女が値を言い、留が懐から銭を出して払う。桶の中では殻を閉じた浅利が濡れて光っていた。

 

 留は浜の上で足を止めた。

 

「俺ぁここまでだ。歩行新宿の連中は、こっちの顔を覚えてやがる。一緒に歩きゃ、目をつけられちまうからな」

「そうか……なら、行ってくるぜ」

 

 天秤棒を担ぎ上げると、棒が左の肩に食い込んだ。肩口の傷が引きつれる。新吾は棒を右の肩に移し、膝で重さを受けてから歩き出した。

 

 歩行新宿の通りは、もう動き出していた。泊まり客が旅籠を出て行き、馬子が馬を曳いて行く。二階の窓では、女郎が客を送り出したあとに座敷の空気を入れ換えていた。

 

「あさりー」

 

 喉から出た第一声は思っていたより細かった。息を吸い直し、腹から響かせる。

 

「あさりー。あさりぃー」

 

 辻に男が一人、壁にもたれて通る者の顔を眺めている。男は新吾にもちらと目を向けたが、訝しむこともなく、すぐに別の旅人の方へ移した。

 

 汐見屋の前では、棒を担ぎ直す振りをしながら足早に過ぎた。お駒と鉢合わせることはなく、新吾は知らず詰めていた息を吐くのだった。

 

 §

 

 勘蔵の船宿は歩行新宿の浜の側にあった。

 

 二階建ての間口の広い構え。路地の細道を回り込むと、裏手は浜へ下りる岸に面している。事前に聞いた通り、建物の浜側では、漆喰塗りの蔵造りの壁が一間ばかり張り出していた。窓が一つもない。その張り出しには舟着き場が備えられ、桟橋が一本干潟の先へ延びている。その桟橋には小舟が三艘ほど繋いであった。

 

 ──桟橋のずっと先、干潟の向こうの沖には帆を畳んだ大きな船が一艘、留まっている。

 

 品川の海は遠浅である。潮が引けば沖の先まで干潟が現れるため、大きな船は岸へは寄れない。荷は小舟に移して運ぶのだろう。

 

 新吾は勝手口の前で足を止めた。

 

「あさりー、あさりぃー」

「ちょいと、浅利屋」

 

 声が掛けられ、「へい」と返事をする。前掛けをした中年の女中が顔を出し、新吾と桶を見比べた。

 

「ん、アンタ見ない顔だね」

「へえ、いつもこの辺を回ってる者が寝込みやして。今日はその代わりに」

「ふうん、まぁいいけどさ。今、笊持ってくるから、ちょいと待ってておくれ」

 

 女中が笊を取りに引っ込む。開いた戸の内では、若い衆が四、五人、竈の前で飯を掻き込んでいた。新吾は戸口に桶を下ろし、浅利の水を切る振りをして耳を傾けた。

 

「──辰五郎の野郎、あれだけ店を荒らされて、まだ巣穴から出てきやがらねぇ」

「さっさと出て来て欲しいぜ。こっちは首長くして待ってんだからよ」

「まぁ、そう急くな。親分も言ってたろ。ここは我慢勝負、先に殴り込んだ方がお上の咎めを食らうってな。向こうから来させるために、今はちょっかい掛けるだけでいい」

「へっ、つまらねぇもんだ」

「楽でいいだろうがよ。来ねぇなら来ねぇで、北の床店を端から頂いちまえるんだからよォ」

 

 誰かが笑い、碗の当たる音がした。

 

 辰五郎の屋敷の土間で屈辱に耐えていた留たち、若い衆の背中が浮かぶ。

 

「ほら。二升ばかりおくれ」

「へぇ、ただいま」

 

 女中が笊を突き出すと、新吾は枡で量って空け、銭を受け取った。女中が奥へ戻る間に、土間の造りを目に収める。竈の脇から廊下が奥へ延びていたが、その先は暗くて見えなかった。

 

 ここが改めの現場──新吾は桶を担いで路地へ戻り、そのまま浜の外れへと足を向けた。

 

 

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