鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

210 / 212
第二百一話 海へ嫁に出す

 

 指示された漁師小屋は、船宿の桟橋から浜伝いに一町ほど南にある。

 

 防潮を兼ねる石垣と砂浜の境あたりに、海風と陽に晒され続けボロボロとなった小屋が建っていた。戸口の前では、翁が網を膝に広げて繕う。辰五郎から何か言われているのか──日に焼けた皺の深い顔が新吾を一度だけ見上げ、何も言わずに顎で小屋の中を示した。

 

 新吾は売れ残った浅利の桶を、年寄りの前に置いた。

 

「残りもんで済まねぇが、よかったら」

 

 年寄りが桶の中を一度覗き、新吾の顔を見上げる。それから黙って桶を脇へ引き寄せ、また網に目を落とした。

 

 小屋の中は網と魚、潮の匂いがこもっていた──。樽を一つ壁際に寄せて腰を下ろし、板の継ぎ目の隙間に目の位置を合わせる。

 

 隙間から見える景色の最奥。高輪と歩行新宿辺りの境、石垣の岸壁が浜に変わるあたりに、船宿の桟橋が海へ突き出している。人の顔の微細までは分からずとも、背格好や身なりなら楽に見分けがつくという距離。

 

 その手前──半町ほど離れた砂浜に、古い小屋が一つ建っていた。戸板は閉ざされ、中の様子を伺うことはできない。

 

 あれが、上役の言っていた網小屋なのだろう。

 

 あの時、小柴が源一郎に託した守り袋を新吾も傍らで見ていた。色の褪せた小さな袋の元の持ち主が、あの小屋で殺されたのだという。

 

 新吾は板に寄りかかり、外の様子の見張りを開始した──。

 

 見張りは同心の勤めのうちでも最も根気の必要な役目である。盗人の宿や目星をつけた家の近くに場所を借り、出入りした客を数える。賭場の動静を見るために、夜通し天水桶の陰に潜む。何日張っても何も出ないことの方が多く、出るときは呆気ないほど早くに終わる。そして──目を離した隙に限って、的は動く。

 

 組に入ったばかりの頃、新吾は六さん──島田六蔵に言われたことがあった。「忍耐こそが見張りの本質だ」と、動きたくなったら負けだ、と。

 

 板壁の隙から吹き込む風は、日が高くなっても冷たかった。右肩に乗せていた天秤棒の跡が疼く。新吾は片膝を抱え、片眼を隙間に当て桟橋と網小屋に起こる変化を交互に見ていた。

 

 §

 

 昼を少し過ぎた頃、船宿の裏手から桟橋に男が三人下りてきた。

 

 先に立つ男が桟橋の付け根で足を止め屈んだ。おもむろに帯から煙草入れを抜き、根付が日を受けて白く光っている──。その後ろには若い衆が二人控えており、顔はよく見えないが根付けの主が勘蔵だと新吾は直感した。

 

 しばらくして、もう一人が下りてきた。背を丸め、袱紗の包みを両手で隠すように胸に抱えている。

 

 見覚えのある男──汐見屋の主であった。

 

 客が店に上がっても挨拶もしない無愛想な男だ。それが勘蔵の前では腰を折って頭を下げ、媚びるような愛想笑いを浮かべている。その様に新吾は眉を顰めた。

 

 対する勘蔵は返す反応が皆無。気に入った人間には笑みを向けても、媚び諂うような人間は相手をするのも嫌、という風に見える。

 

 勘蔵は差し出された包みに視線を向けることもなく、沖の方を向いて煙管の煙を吐いていた。それから黙って顎をしゃくると、若い衆の一人が包みを奪い取り、掌の上で一度揺すって懐へ入れた。主は媚びるようにまた頭を下げ、後ずさって桟橋を足早に去ってゆく。

 

 どうやら、汐見屋の背後に勘蔵がいるというのは本当の話のようだ。

 

 §

 

 日が傾き、桟橋の影が長く伸びた。

 

 勘蔵の姿は確かめた。だが、網小屋には朝から誰一人として近づかない。件の巳之助はまだ姿を見せず、今日はこれまでか、一度屋敷へ戻って上役に報せるべきか──。新吾がそう考えはじめた頃、船宿の裏手に男が新たに二人現れた。

 

 前を行く男は、縞の着物を折り目良く着こなしていた。糊が利いているのか、着物の線が崩れずぱりっとしている。ピシリと決まった帯の位置、綺麗に整えられた髷。それは、ともすれば病的なまでの拘りを感じさせる。

 

 後ろの男はくすんだ木綿を着て、前の男の半歩後ろを、腰を低くしてついてくる。

 

 二人は岸壁の石垣が尽きたあたりから浜へ下りると、波打ち際をゆっくり歩いてきて、途中で足を止めた。

 

 後ろについて歩く男の顔に見覚えがあった。汐見屋の階段で、手すりに掛けられていた手──お駒を身請けしたいと持ち掛けてきた、神奈川湊の船主だという男。

 

 汐見屋では堂々とした態度を見せていた男が、前を行く男には背を丸めて従っている。

 

 何かを話しているようだが、距離は遠く聞こえるのは波の音ばかり。

 

 しかし、見張りを役目とする火付盗賊改方の同心。その役目の中で身に着けた技術というものがある。

 

「……晦日……前……月のない晩……潮…………海へ、嫁……出す……」

 

 読唇術の一端──新吾が二人の口元を見て真似、会話の中に出た単語を抜き出して再現する。船主を名乗った男が喉の奥で薄く笑い、しかし、もう一人の男は愛想笑いすらしない。

 

 背中を冷たいものが這い上がり、新吾は自分の膝を掴んだ。

 

 ──ピクリとも表情を動かさない男が、ふと顔を上げる。

 

 偶然か、それとも何かを感じ取ったのか、新吾のいる小屋の方を見ていた。

 

 切れ長の目、鋭い三白眼──巳之助だ。

 

 新吾は息を止め、板の隙から顔を離す。戸口の前では年寄りの爺が網を繕い続けている。小屋の表で、一つ咳をして砂に唾を吐く音がした。

 

 しばらくして、新吾がそっと隙に目を戻すと、船主の男が一人で桟橋の方へ引き返していくところであった。巳之助はそのまま半町余り先の網小屋の方へ向かって歩いてくる。

 

 見つかってはいない筈だ。しかし、あの蛇のような目には壁の内まで見透かされた気がした。新吾がゆっくりと息を吐く。掌が汗で濡れていた。

 

 §

 

 巳之助は人気のない網小屋の前で足を止めた。

 

 ほどなく、桟橋の方から若い衆が一人、浜を小走りにやって来る。こちらも見覚えがある──船宿の勝手口で飯を掻き込んでいた内の一人だ。若い衆は巳之助に頭を下げると、網小屋の戸を開けて中へ入ってゆく。

 

 網小屋の中から出てきた若い衆は、丸い石を抱えていた。漬物石ほどの石で、縄が十文字に掛けてあるもの。網の錘であろうか──。若い衆は石を砂の上に下ろすと、また中へ入り、二つ、三つと運び出して並べた。

 

 巳之助はその前にしゃがみ、石を一つずつ手元へ引き寄せては、掛けた縄を両手で握って強く引いた。

 

 四つ目の石で手が止まる。巳之助が若い衆に何かを言うと、若い衆は首を竦めて縄をほどき、再び掛け直し始めた。巳之助もまた片膝を石に乗せ、その縄の端を自分に引き寄せ絞る。緩ければもう一度結ばせ、もう一度引く。

 

 石は七つ。運ぶのは下っ端に任せても、縄の緩みは巳之助が自ら確かめていた。まるで、それが抜かりの許されない作業であるかのように。

 

 ──お蔦は網小屋で殺され、海に沈められた。しかし、その遺体はその後に浜に流れ着いている。

 

 源一郎に聞かされた話を思い出し、新吾の視線が鋭くなる。

 

 石を網小屋の中に戻させると、巳之助は戸口から波打ち際までゆっくりと歩いた。足を止めて振り返り、網小屋を見る。それからゆっくりと振り返り、沖を眺めていた。

 

 気がつけば──潮が引きはじめていた。

 

 網小屋の前の砂浜が少しずつ広くなり、干潟になりかけている。船宿裏の桟橋を新吾が見れば、その周辺も潮が引いて水深が浅くなり、砂の堆積した州が見え始めていた。

 

 特筆すべきなのは、ちょうど桟橋の位置に澪──小舟が通れるほどの深い溝となった天然の水路があり、沖へと向かって延びていたこと。そして、その道の先の沖には、碇を降ろして留まる大きな船がある。

 

 巳之助はしばらくその澪を眺めていたが──日が沈む頃、網小屋を後にした。

 

 巳之助が見えなくなるまで、新吾は板の隙から目を離さなかった。桟橋から網小屋までの距離。波打ち際までの間合い。店裏の細道。潮の引く時間帯。沖へ延びる澪。見たものを一つずつ頭に刻む。

 

 頬被りの結び目を締め直して立ち上がる。戸口の前で変わらず網を手繰っていた年寄りが、顔を上げずに言った。

 

「気ぃつけな」

 

 この日、年寄りが口をきいたのはそれだけであった。

 

 §

 

 辰五郎の屋敷に戻ると、すぐに離れへと向かう。当の源一郎は離れで火鉢に炭を足していた所のようで、新吾は頬被りを解いて膝をつき、見たことを順を追って話していった。

 

 汐見屋の主が、大百足の勘蔵に頭を下げていたこと。お駒の身請けを申し出た男が、巳之助と一緒にいたこと。そして二人の会話から新たな情報を得たこと。

 

「晦日の前、月のない晩、海へ嫁に出す……か」

 

 源一郎が吟味するように呟き、新吾は黙って頷いた。『海へ嫁に出す』とは隠語か、身請けを騙った殺しの準備が着々と進んでいると考えると辻褄が合う。

 

 源一郎が目を細め、新吾が報告を続ける。巳之助が網小屋の前で、網の錘に掛けた縄を一本ずつ検めていたこと。若い衆の結んだ縄を幾つか掛け直させていたことにも触れた。

 

 源一郎は何も言わず、一つ一つ頷きながら聞いている。

 

 巳之助が戸口から波打ち際まで歩いて、間合いを測るようにしていたこと。潮が引くと桟橋あたりに澪が現れ、その澪が沖へ延びていたこと。

 

「その澪を通れば、潮が引いた後も桟橋の小舟で沖の船に移ることが可能ということか」

「はい」

「なるほどな……遠浅の海では遺体は上手く海に流せない。沖の船で湾の外まで運んだか。──よく見てきた。これで、おおよその手管も見えた」

 

 源一郎はそれだけ言って、今度は新吾に視線を向ける。

 

「明日は汐見屋へ上がれ。いつも通りにな」

 

 新吾は返事をするまでに、少し間がかかった。

 

「……はい」

 

 火鉢の炭が小さく爆ぜた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。