師走も二十日を過ぎたが、歩行新宿の通りは日が暮れてからも人の足が絶えなかった。
あちこちの旅籠の軒下に臼と杵が出してある。近いうちに餅を搗くのだろう。松を担いだ男が二人、掛け声をかけながら新吾の脇を抜けていった。暮れの払いに追われる商人が提灯を提げて小走りに行き交い、その合間を飯盛女の呼び声が縫っていく。
新吾は汐見屋の前で足を止めた。
この暖簾を潜るのも久方ぶりである。上役から呼び出されてから一度も来ておらず、昨日は浅利の籠を担ぎ、頬被りの下に顔を伏せてこの前を通り過ぎた。
いつも通りに、と上役からは言われている。
新吾は顎を引き、暖簾を潜った。
「おや、新さん。よくお越しで」
帳場の脇から遣り手の婆が出てきた。目尻の皺を深くして笑う。
「お駒が首を長くして、待っておりましたよ」
その後ろから、番頭も揉み手をしながら顔を出した。
「ささ、お上がりなすって。婆さん、奥の座敷へ案内しておくれ」
帳場格子の奥が見え、そこには主が座っていた。茶を啜るばかりで客が来ても視線も向けない。この店に通い始めた頃からそうである。客に愛想を振りまくのは番頭と遣り手の婆ばかりで、主は帳場から動こうとしない。
そんな主が昨日──桟橋で勘蔵に愛想笑いを浮かべていた。勘蔵には相手にもされていないと分かっているだろうに、腰を低く、媚び諂うように笑みを貼り付けて。
新吾は帳場から目を外し、遣り手婆の後について階段を上がった。
通されたのはいつもの奥の座敷であった。火鉢の炭はよく熾っていて、行灯の灯が畳の目を照らしている。婆が下がっていくと、新吾は刀を脇に置いて膝を崩した。
廊下を駆けてくる足音がした。
「新さんっ」
障子が勢いよく開いた。
「ひどい。七日だよ、七日。もう来てくれないのかと思った」
お駒は新吾の前にぺたりと座り込み、両の手を取った。
「冷たい手……今まで何してたの?……あ、聞かないんだった。いいよ、来てくれたから許したげる」
会いたかったと、お駒は新吾の手を自分の頬に当て、すぐに離して銚子を取り上げた。
「ね、明日うちでお餅搗くんだって。若い衆が朝から臼を洗ってたの。新さん、搗きたてのお餅好き?あたしはね、きなこ。でも辛味大根もいいなあ」
盃に注ぐ酒が縁から溢れ、新吾の膝に落ちた。
「やだ、ごめん」
お駒は袂から手拭いを出して膝を拭いながら、声を立てて笑った。感じたのは、気のせいとも思えるほどの少しの違和感──機嫌がよいだけにも見えるし、妙に高揚しているようにも、気を張っているようにも見える。
廊下を誰かが通っていった。お駒の喋りがふっと途切れ、視線が障子の方へ流れる。足音が遠ざかると、お駒はまた新吾の方へ向き直って笑みの形を作った。
──また違和感。
「それでね、聞いてよ。隣の座敷の姐さんがさ──」
朋輩の女郎が客に袖にされた話を、お駒はひとしきり喋り、新吾は相槌を打ちながら盃を口に運んだ。
お駒の髪に銀の簪が挿してある。脚の先に珊瑚の玉が一つ揺れていた。顔見せの印だと言い、あの晩は返事はまだしていないと言っていた。
「その簪」
お駒の手が髪へ伸びた。
「……話を受けたのか」
「まだ。考えてるとこ……でも、そろそろ潮時かなぁ。断れるのは」
お駒は簪を挿し直し、少し首を傾げた。
「旦那様がうるさくってさ。いい話だ、またとない話だって。毎日だよ。断ったら罰が当たるって言うの」
「そうか」
「あたしが他の人の物になっちゃったら……新さんは寂しい?」
この前の晩と似た問い。新吾はお駒の顔を見た。
巧妙に心をくすぐる言葉だ。しかし、身請けはまだ決まっていないと言うが、受けても受けなくても行き着く先は網小屋であると新吾は知っている。
投げ掛けられたその問いに、果たして意図はあるのか──もし、ここでお前を身請けしたいと言えば、ここに五両あると突き出せば何かが変わるのだろうか。
上役は、いつも通りに汐見屋に上がり──店の空気やお駒の変化を見ろと言った。それは余計な事はするなという意味なのだろう。だが……新吾自身にはどうしても確かめたいことがあった。
「若菜」
呼ぶと、お駒は、なぁに、と小首を傾げたまま新吾を見た。
「前に……国へ帰る時は、一緒に着いて来てほしいと。そして、出来れば父母に会わせたいと言ったのは、本気ではなかったのか」
お駒は目を瞬いた。それから、ぷっと吹き出した。
「それ。悋気?」
「そうではない」
「悋気だ。新さんが悋気起こしてる。初めて見た」
嬉しい、とお駒は指先で新吾の頬を揶揄うように、つついた。
「本気に決まってるじゃない。年季が明けたら、新さんと一緒に武州へ帰って、おとっつぁんとおっかさんに夫婦になりますって報せに行くって言ったでしょ」
武州、という言葉は少しのつかえもなく出てきた。
「船主の旦那なんて、旦那様が勝手に持ってきた話だもの。あたしは新さんがいちばん。ほんとだよ」
──指切りげんまん、したよね。
お駒は新吾の腕に自分の腕を絡め、肩に頬を寄せた。鬢付け油の甘い匂いがし、その下に丁子の香を探したが、もうほとんど匂わなかった。
新吾は黙って、お駒の重みを肩に受けていた。
本当の国は上州だと上役は言った。泣きながら口にする国の名は上州だったと、小柴が覚えていたのだ。
新吾自身、小柴に確かめてもいる。小柴の息が楽な晩があり、若菜という名は聞いたことがあるかと尋ねると、小柴は僅かに首を振っていた。
それから、途切れ途切れの声で言ったものである。
『あの子は本心を隠すのが上手ですから』
十四、五でこの店に連れて来られ、知らない国の娘の名を叩き込まれた。それを本当の自分のこととして口にできるようになって、この店で生き延びてきた。客の心に近づき、その癖、自身の心は見せないよう。嘘というのは、お駒が自分を守るための数少ない手段の一つだったのではないか。
お駒は肩に頬を寄せたまま、心を繋ぐための言葉を語っている。甘い言葉。夢のある未来。あなたは特別だと──新吾はその声を聞きながら、自分の膝に置かれた手を見ていた。
「ねぇ、新さん──」
自分もまた、名も身の上も明かさずにこの座敷へ通ってきたのであって、何も聞かないでくれているお駒に甘えてきた。その口で、今更嘘を曝いて何になる。
小柴の名が、喉元まで来ていた。
この店でその名を口にしてよいものか。この店の者にとって、小柴は口を塞いでおきたい女である筈だ。その名を客が知っていると主の耳に入れば、どこで聞いたのかと疑われる。手繰った先には辰五郎の屋敷があり、勘蔵の商売敵がお駒に客をつけていたと噂されれば、お駒も疑われることになる。
「年季明けしたら、二人で家を借りて──」
だが……疑念を晴らしたいという欲求には抗いがたい。
新吾がお駒の手を握ると、掌がじわりと温まった。この座敷で交わした言葉、心、ぬくもり、どれか一つでも本当のものがあったのか知りたかった。
言ってはならない言葉。しかし、その禁忌にも等しい言葉は、どうしようもなく口から衝いて出た。
「──小柴という女を、知っているか」
喋りを止めて、お駒の声が止んだ。