肩に寄せられていた頬が離れる。お駒は新吾の顔を見た。
「……小柴姐さん?」
「ああ」
「どうして新さんが、姐さんのこと」
言いかけて、お駒は驚きの表情から笑みの形に整えた。
「やだ、姐さんのお客だったの? そんなの聞いてないよ」
「客ではない」
「じゃあ何」
「外で会ったことがある」
お駒は絡めていた手と腕をほどいた。
「どこで」
「お前のことを話していた」
新吾はお駒の顔から目を外さなかった。
「この店に来たばかりの頃、夜ごと泣いて、小柴の布団に潜り込んできたと。泣きながら口にした国の名は、武州ではなかったと」
お駒は黙った。
行灯の芯が、じじ、と鳴る。廊下の先で女の笑う声がして、すぐに途切れた。
「……姐さんが、そう言ったの」
「ああ」
「ふうん」
お駒は膝の上で指を組み、その指を見下ろした。
「……あたしのこと嗅ぎ回ってたってこと」
「そうではない」
「嘘ばっかり。血吐いて店を出されてから、生きてるのか死んでるのかも分かんなかったのに。新さんはそれを探し出して、あたしがどんな女か聞いたんでしょ」
「若菜」
お駒が顔を上げる。険のある表情。眉根が寄っていた。
「若菜というのは……本当の名か」
「もういい」
お駒は答えなかった。一向に合わない視線は酷く冷め、さっきまでの笑みはもう欠片も残っていない。
「どっちでもいいでしょ、言っても信じない癖に」
新吾は愕然とした。一瞬で離れた心。いや、始めから心の距離は縮まってはいなかったのかもしれない。
「若菜──」
「聞きたくない」
お駒が遮った。
「何なの。今夜は何しに来たの。説教? あたしが嘘ついてたって、わざわざそれを言いに来たの?」
「そうではない。俺は──」
「聞きたくないって言ってるでしょ!!」
声が跳ね上がった。
「アンタだって、何にも話さないじゃない。どこの誰なのかも、何して食べてるのかも。一本差しで、肩を庇って、いつもふらっと来てふらっと帰って。それで、あたしにだけ本当のことを言えって?」
続けて、ポツリと呟く。
「偉そうに……」
新吾は何も言えなかった。
「本気かって訊いたよね──本気だよ。こちとら命がかかってるんだ。店から出るためなら何だってしてやる。そう言うそっちはどうなの。あたしが本気になったら、ここから出してくれるって言うの。ここから出して、どこかへ連れてってくれるって言うの」
懐の包みを上から押さえた。この前の晩、払ってやると言うつもりで掻き集めてきて、とうとう出せなかった五両である。
「俺は……」
「ほら。言えない」
お駒が吐き捨てるように言い……新吾は懐へ手を入れた。
いつでも渡せるよう袱紗に包まれたそれを取り出し、お駒の前に置く。袱紗の包みの中、更に包まれた紙を開くと、行灯の灯を受けて小判の縁が鈍く光った。
「五両だけ用意できた」
お駒の目が小判に落ちた。
「これで、お前の残りの年季を買うつもりだった」
お駒は何も言わなかった。小判から目を離さず、膝の上の手が僅かに動いた。伸ばしかけたようにも見えたがしかし、指はしばし空を小さく掻いて彷徨っただけ。
お駒の唇が歪んだ。困ったような、笑ったような、それでいて泣き出しそうな複雑な表情に見えた。
「……なんで」
掠れた声だった。
「若菜」
お駒は静かに首を振った。一度、二度。
「……そんな金、無駄よ」
お駒は小判を包みで閉じ、目に入らないようにした。小判が包みの中で触れ合い、小さく鳴る。
「身請け話はもう受けたから」
お駒の声は低くなっていた。
「迎えは二十八日の晩って、もう決まってるの」
新吾はお駒を見た。嘘。まだ考えているところだと言ったのは、ついさっきのことだ。
「何故、嘘を……」
「知られたくなかった」
お駒は目を逸らしたまま言った。
「若菜、その話は──」
受けるな、と言いかけて新吾は口を噤んだ。受けても受けなくても行き着く先は網小屋。俺が助けるから断れと、火盗改の役目に就いている者として、役目に関わる秘を口にすることは許されない。
「あたしはね、ここを出るの。どうやったって出るの。誰にも邪魔なんかさせない」
お駒の肩が上下していた。
「小柴姐さんが羨ましいよ。血吐いて、使いものにならなくなって、この店を追い出されてさ。それでも自由になれたんだもの。あたしだって追い出されて自由になれるんなら、血でも何でも吐いてやる」
新吾は口を開いた。
小柴はもういない。骨と皮になって、上役の源一郎に看取られて死んでいった。今は海蔵寺の土の下にいる。
「若菜、聞いてくれ。小柴は──」
「聞きたくないってば!」
お駒は袂に手を突っ込んだ。掴み出したものを、新吾の胸に叩きつける。
小さな匂い袋であった。胸に当たって膝に落ち、畳の上を転がる。掌に収まるほどの、新吾がこの娘に贈ったただ一つの品。
「帰って」
「若菜」
「帰ってったら!」
廊下で足音が止まった。障子の外の廊下に誰かが立っている気配がした。
お駒が一瞬廊下を気にした。新吾からは顔を背け、膝の上で両の拳を握りしめている。その肩が細かく震えていた。
新吾は畳の上の匂い袋と袱紗を拾い上げた。次いで刀を取って立ち上がる。
「……若菜」
「……」
お駒はもう、こちらを見ようともしなかった。助けると言えたら、お前を守りたいと言えたのなら──新吾は掛ける言葉も見つからずに、その場を後にするしかなかった。
障子を開けると、廊下に店の若い衆が一人立っていた。新吾の顔を見て、視線を逸らして道を空ける。新吾がその脇を抜け、その場を去ると背後で障子が閉まる音がした。
§
階段を下りかけたところで、下から怒鳴り声がした。
「お蔦! 何もたもたしてやがる。炭はそっちじゃねえ! 奥の座敷だって言ったろうが!」
「は、はい」
細い声が答えた。
炭取りを両手に提げた娘が、階段を上がってくる。十四ほどであろうか。木綿の着物の大きさが合っておらず、袖口から出た手が冷たさで赤くなっていた。見習いなのか髪はまだ結い慣れていないらしく、後ろ毛がほつれている。
新吾は階段の途中で足を止めた。
娘が新吾に気づくと、隅に寄って頭を下げる。そのまま新吾の脇を通ると、廊下の奥へ小走りに消えていった。
──お蔦、と呼ばれていた。
小柴の姉女郎。網小屋で殺されて、海に沈められたという女の名。この手の店では与えられる名が使い回され、次の娘にお蔦の名が当てられていた。
新吾は手すりを握り、残りの段を下りた。
「おや、もうお帰りで」
帳場の脇から番頭が出てきて、驚いたように眉を上げた。
「お駒が何か粗相でも……」
「いや……嫌われてしまってな。女心というものは男には難しい」
新吾は懐から財布を出し、番頭の手に金を載せた。
「今夜の分は置いてゆく。泊まりの勘定で取っておいてくれ。また来る」
「へえ、これはこれは……」
番頭は掌の金を確かめ、いっそう丁寧に腰を折った。
「──ここには他にも良い娘が揃っておりますから。またのお越しを、お待ち申しております」
ニコリと番頭が人の良い笑みを向ける。帳場格子の奥が見えたが、そこには誰もいなかった。
§
──暖簾を分けて表へ出ると、海の方から吹いてくる風が頬を打った。
通りにはまだ人が多かった。提灯の灯が幾つも揺れ、人が行き交い、向かいの旅籠の二階からは三味線の音が漏れてくる。酔った客の笑い声がどこかで弾けた。
新吾の握った掌の中には、もうほとんど消えかけの丁子の香の匂い袋がある。
座敷に上がってすぐに覚えた妙な違和感が、まだ胸の奥に燻っていた──。
七日も来なかったと拗ねてみせ、楽し気に餅の話をし、酒を溢しては声を立てて笑う。あれは新吾が来て機嫌よく見せているだけだったのか。
だが……廊下を誰かが通るたびにお駒の喋りは途切れ、視線は障子の方へ流れていた。足音が遠ざかるのを待ってから、また笑みの形を作り直してもいた。
それに……こちとら命がかかってるんだ、というお駒の言葉。
あの場では、追い詰められた女の言葉の綾として聞いていた。だが、もしや……命がかかっていると言ったのは、その言葉の通りの意味ではなかったのか。
お駒は気を張っていたのだ。新吾に会えて浮かれていたのではなく、危険だと分かっている身請けを前にして、店の耳がどこにあるかずっと探りながら喋っていたとしたら。
ならば、お駒は……店の裏側を知っている──?
背後の暖簾の内から、番頭の愛想のいい声が聞こえる。裏で人が消されていることなど感じさせず、店は何事もないように商いを続けていた。