汐見屋の暖簾が見えなくなっても、新吾の手は匂い袋を握り締めたままだった。
地に足が着いていないような心地で、街道を南へ下ってゆく。歩行新宿の賑わいを背にして北品川へ入ると、軒行灯の灯りは一つ、また一つと数を減らしていった。
海から吹き上げてくる潮風が冷たく頬を刺す。それはまるで心の隙間にも吹き込むようで、新吾のただでさえ重い足を一層重くさせた。
──いや、嫌われてしまってな。
虚勢を張った空笑いに聞こえはしなかったか。番頭に向けて何気なく口にした言葉が、どうしてか自分の中で何度も繰り返された。
──不意に、新吾は何かの気まぐれかのように脇の路地へ折れた。
これも火盗改の役目を負う者の性か。軒の暗がりに身を寄せて、今来た通りを窺う。提灯が二つ三つ、街道を通り過ぎていった。新吾を探して足を止める者も、路地を覗き込もうとする者もいない。念のため寺の塀沿いをぐるりと回り込み、もう一度別の路地で同じように背後を確かめてから、街道へと戻った。
新月の日が近く、北の天王社の石段が闇の中に沈んでいる──。
その門前に構えた辰五郎の屋敷も、表門はとうに閉め切ってあった。門の脇の潜り戸を叩くと、ややあって閂の外れる音がする。顔を出した若い衆が手燭を翳して新吾の姿を確かめ、何も言わずに内へ引き入れた。
屋敷の廊下を奥へと進むと、離れの障子にはまだ灯が映っていた。
新吾が濡れ縁から声を掛けると、入れと返ってくる。膝をついて障子戸を開けると、部屋の主は火鉢の前に座って刀の手入れをしており、視線だけをこちらへ寄越した。
「早かったな」
泊まると言って屋敷を出た者が、夜の内に戻ってきたのである。何かあったと捉えるのが自然だった。
「……店を追い出されました」
「なに?」
新吾の言葉に、上役──渡辺源一郎は怪訝そうにした。しかし、慌てることなく刀を鞘に納めて脇へ置くと、五徳に掛けた鉄瓶を取り、湯呑に白湯を注いで新吾の膝の前に置いた。
新吾は握り締めていた匂い袋を膝に置き、湯呑を両の手で包んだ。指先が冷えきっていて、熱さが痛いほどだった。一口含めば、湯が喉を通って腹の底まで落ちてゆく。そこでようやく、自分の体が芯まで冷えていたことに気づいた。
源一郎は何も言わず、火鉢の前に座り直して火箸を取った。灰に埋もれかけた炭を挟み、赤い面を上にして寄せ直す。
「道中つけられてはいないな」
「はい。路地で二度、確かめました。つけられてはいません」
「そうか」
新吾は湯呑を膝に下ろした。
「迎えは、二十八日の晩だそうです」
火箸を繰っていた源一郎の手が驚きに止まる。
「お駒の口から直に聞いたのか」
「はい。身請け話を受ける返事はもうしてあると」
新吾は懐の上から袱紗の包みを押さえ、源一郎はしばし考え事をするように火箸の先で周りの灰を均してゆく。
──晦日の前の、月のない晩に。
浜で得た言葉の裏付けとなる。晦日も近くなれば、月は細くなってゆく、夜の闇が最も濃くなる頃合いだ。火盗改の追う盗っ人たちも朔の日に動き出す──後ろ暗い連中というのは闇の中でこそ動きたがるらしい。
「それから……帰りしなに、階段で下働きの娘とすれ違いました。若い衆がその娘を、お蔦と」
火箸の均す動きが止まる。お蔦とは、小柴の姉女郎の名だった。
「十四ほどの、まだ髪も結い慣れぬ娘です。店に来て日が浅いように見えました」
「……そうか。三吉の娘」
源一郎は炭の赤いところをじっと見ている。低く漏れた声は、新吾に向けられたものではない。
三吉という名に、新吾は覚えがなかった。問おうとして源一郎の目が鋭くなっているのに気づき、言葉を呑み込む。
新吾は膝の上で拳を握った。報告せねばならないことがまだ残っている。汐見屋の座敷を出てから、ずっと胸の内に重く圧し掛かっていたこと。
いつも通りに、と指示を受けていた。余計な事はするなという意味だと分かっていながら、新吾はお駒に訊かずにはいられなかったのだ。
──お駒の嘘について。
いつの間にか、湯呑を持つ手がまた冷えていた。
「渡辺様」
声が掠れる。源一郎は火箸の先をで炭に添えたまま、目だけを新吾に向けた。
「申し訳ありません。追い出された理由なのですが……お駒に小柴の名を出しました」
源一郎が顔を上げた。眉根が寄る。
反対に新吾は目を伏せた。後ろめたさ、後悔から上役の顔を見られなかった。
「死んだことも、どこにいたかも口にはしておりません。ですが、お駒の嘘を曝いて怒らせてしまい……その騒ぎを聞きつけたのか、座敷の外に店の若い衆が……」
言いながら、喉が乾いていくのが分かった。言が途切れ、続ける言葉が見つからない。火鉢の炭が、ちりちりと鳴っている。
「その若い衆に、小柴の名を盗み聞かれたということか」
責める声ではない。おそるおそる顔を上げると、新吾が覚悟していた怒りの色は源一郎の目にはなかった。ただ新吾の奥の奥まで見通そうとするような静かな視線を向けられている。
新吾は座敷でのやり取りを思い返した。小柴の名を出した時、お駒の声はまだ低かった。酷く声を荒げたのは、『若菜』の名が本当かと疑った後である。
──だが。
それまでにも、お駒は『自由になれた小柴姐さんが羨ましい』と、新吾自身も小柴の名を何度となく口にしている。
「……盗み聞かれていないとは、正直なところ言い切れません。お駒が声を荒げてからも、小柴の名は何度か出ていたと思います」
「ふむ……痴話喧嘩、痴情のもつれは女郎屋では珍しくもない。若い衆は店の女と客が揉めた時の仲裁役を兼ねているのだろうが……その者に店を追い出されたのか」
「いえ……お駒にです。店の者には泊まりの勘定をそのまま置いて、また来ると伝えました」
それに対して番頭が返したのは、『ここには他にも良い娘が揃っておりますから。またのお越しをお待ち申しております』という言葉だった。
「そうか──。ならば、一旦は聞かれたものと考えておくべきか」
源一郎は火箸の先を火鉢の縁で打った。乾いた音を立てて灰が落ちる。
「しかし、騒ぎを起こしたお前を怪しんでいるのなら帰り道を尾けさせる筈だ。それがなく番頭は金を受け取って、また来いとまで言った。向こうはまだ、お前をただの客と見ているやもしれん」
「……はい」
それから源一郎は、小柴が辰五郎の元にいたと、天王門前の床店が襲撃された日に既に勘蔵の耳へ入っているものとして、話を続けた。
「仮に小柴の名から辰五郎との繋がりを手繰られたところで、勘蔵は縄張り争いの手管の一つと勘繰るだけだ。火盗改の内偵とまでは辿り着けん」
源一郎は火箸の先を灰に突き立てた。灰が小さく崩れ、火箸がそのまま立つ。
「だが──それよりも危ういのは、お駒だ」
新吾は顔を上げた。
「お駒が辰五郎の手の者と通じていたと疑われれば、お駒はその二十八日を待たずに消されるかもしれん。向こうにとって、身請けの芝居など無くても構わんのだからな」
新吾は両手をついて頭を下げた。
「……申し訳ございません」
「新吾」
低い声だった。新吾は頭を上げられなかった。
「迂闊と言わざるをえんな。俺は、いつも通りにしろと言った筈だ」
「……はい」
「惚れた女のことで目が曇るのは分かる。だが、お前は火盗改の同心だ。次はないと思え」
「……肝に銘じます」
畳についた指先から、血の気が引いていった。お駒を網小屋へ行かせたくないと願いながら、そのお駒を、網小屋の手前と同等の場所まで追いやりかけていた。
源一郎はしかし、それ以上責めることはなかった。
「……だが、よく伝えてくれた。黙っていられる方が、よほど困る」
新吾はゆっくりと顔を上げた。源一郎は灰に立てた火箸に手を添えたまま、もう炭の方を見ている。声を荒げられたわけではない。それでも、己の失態が招きかねない事の重さを一つずつ並べられるのは、怒鳴りつけられるより遥かに堪えた。
「汐見屋の出入りは、辰五郎の駕籠かきと荷運びに見張らせる。もし、お駒が外へ連れ出されれば、すぐに報せが来る。お前はもう御用改めまで汐見屋には近づくな」
「……はい」
新吾は膝の上の匂い袋に目を落とした。
「……それからもう一つだけ、お伝えしたいことが。これは気のせいかもしれませんが、お駒と話していて違和感がありました。もしかしたら……お駒は、店の裏側に気づいているのかもしれません」
「ほう」
源一郎の目が再び新吾に向く。
「廊下を人が通るたびに喋るのを止め、足音が遠ざかるのを待っていました。それに、こちらは命がかかっている、ここを出るためなら何だってすると口にしています」
「何だってする、か。まるで何か仕出かそうとしているようにも聞こえるな」
「はい。ですが……もしそうなら、なぜ身請け話を受けたのかが分かりません。行き着く先がどこか、分かっていながら……」
源一郎はすぐには答えなかった。火箸の先で、灰に浅い筋を一本引く。
「頭のよい娘、か──何を知って、何を思って話を受けたのか。それはお駒にしか分からん」
呟いて、火箸を置く。
新吾は黙り込んだ。自身はあの娘のことを、何一つ分かっていなかった。寝物語に武州と口にした時のお駒の声には少しの淀みもなく、指切りげんまんしたよね、と笑った顔にも嘘が込められているとは気づけなかった。
小柴の『恨まないでやってくれ』、『あの子は本心を隠すのが上手ですから』という言葉が思い出される。女郎の誠と卵の四角、とは言うが、お駒は嘘をつくことに慣れすぎている。
「……お駒の言葉はどこまでが誠で、どこまでが嘘だったのでしょうか」
口に出してみると、自分でも驚くほど声が沈んでいた。
「俺に向けた言葉も。若菜という名も。どれが本当なのかどうかも分からなくなりました」
何を信じたらいいのか、と新吾が呟くと、源一郎がふっと息を吐いた。
「男ならば、女の軽い嘘の一つや二つ、気づかなかったと笑って済ませてやれ」
新吾は顔を上げた。
「女が嘘をつく時は、大抵そこに守りたいものがあるものだろう。暴けば、その守りたいものが剥き出しになる。可愛げのある嘘くらい、黙って騙されてやるのも男の器量のうちだ」
源一郎が自分の湯飲みを取り、白湯を注ぐ。
「その匂い袋、お駒はどこから出したのだ」
「……袂ですが」
「七日も顔を見せなかった男の贈り物を、大事に袂に入れていたわけだな。随分と手の込んだ嘘つきだ」
新吾は息を呑んだ。
掌の匂い袋を見る。来るか来ないかも分からない男の贈り物を、あの娘は毎日、肌身を離さずにいたのだ。投げつけられたことばかりが頭に残り、それまでずっと袂にあったことには思い至らなかった。
小判に伸びかけて、空を掻いた指。なんで、と漏らした掠れ声。新さんには知られたくなかった、と目を逸らした横顔。
──嘘の下には、守りたいものがある。
「……俺も、愛した女の嘘くらいは、許せる男でありたいものだ」
独り言のような声だった。そういって白湯を啜る。
匂い袋の縮緬は汗を吸ってしっとりと湿っている。丁子の香は、もうほとんど残っていない。それは、それだけ長く、あの娘の肌の近くにあったということでもある。
新吾は匂い袋を握り締めた。
「……好いた女です。やはり、あの娘を海の底へ行かせたくはございません」
源一郎は黙って新吾を見ていた。新吾が湯呑を脇へ寄せ、膝を正す。
「お願いの議があります──。渡辺様……俺に、稽古をつけてはいただけませんか」
源一郎の眉が僅かに動いた。
「二十八日の晩、網小屋へは……どうか俺に」
新吾は自分の右手を見た。膝の上で、その手を握り込む。刀を振れない心と体。それを克服しなければ、鉄火場に立つなど夢のまた夢だ。
「この手で助けたいのです……!」
新吾は両手をつき、額を畳に擦り付けた。
「どうか……どうか、もう一度だけ俺に機会をっ……!」
火鉢の炭が、また小さく爆ぜた。
源一郎は長いこと新吾を見下ろしていた。
「……俺の稽古は厳しいぞ」
「承知の上です」
「明日、夜明けに裏庭へ出ろ。刀を持ってな」
源一郎の顔を見ることなく、新吾は深く頭を下げ続けた。