──夜明けの裏庭に、霜が降りていた。
乾いた音が続けざまに鳴っている。棒と棒とが打ち合わさる甲高く響く音だ。
留ら若い衆が五、六人、白い息を吐きながら三人ずつ組になっていた。一人が長脇差ほどに詰めた木刀を構え、残る二人が六尺棒を手に左右へ開く。木刀の男が踏み込もうとすると片方の棒が突き、たたらを踏んだところへ、もう片方の棒が横から小手を打つ。木刀が手を離れ、地に転がってから距離を詰める。
──板塀に囲われただけの土の裏庭。
隅に井戸と物干しがあり、その脇に、若い衆が稽古で打ち込む丸太が、無数の打ち傷を晒したまま数本地面に埋め込まれている。庭の奥には柿の木が一本、葉の落ちた枝を空に向けて広げていた。その裏庭にほど近い勝手口ではお茂が襷を掛け、朝餉の支度で忙しく働いている。
香具師の元締めの屋敷に道場はなく、辰五郎方の若い衆にとっては、この裏庭がそのまま稽古場になっていた──。
そして稽古をつけるのは、客分となった武士の役目である。一宿一飯の恩に対し、出入りの際には助太刀する。世の親分たちが客分の武士を先生と呼んで立てるのは、そのためだった。
源一郎扮する源太も客分として屋敷に身を置いてから、手の空いた折に若い衆に稽古をつけている──。
香具師の若い衆が差すのは、脇差か道中差し。対して勘蔵の手下は博徒で、揃って長ドスと呼ばれる長脇差を差し、浪人の数も多い。刃渡りでも数でも分が悪い故に、源一郎は斬り合いを教えることはなかった。
長物で間合いを保ち、刃の届かぬ外から牽制して打ち捕らえる。広い場所なら三人で、狭い場所なら二人で一人に当たる。棒の振れる場所を選び、相手をそこへ誘い込む。軒下や路地の奥へは自分から踏み込まず、懐へ入られた時のために脇差は帯から外さない。
勝ち負けは、事を構える前の備えで決まる。源一郎は若い衆にそう繰り返し説いていた。
──そんな稽古の場へ、新吾が刀を差して庭へ下りてゆくと棒を打ち合う音が止んだ。若い衆の目が新吾と、その後ろの源一郎とに集まる。
「稽古中すまないな。少し場所を貸してくれ」
源一郎が板塀に立て掛けてあった木刀を一本取り、庭の真ん中まで歩いてゆく。若い衆が棒を引いて端へ寄った。
源一郎が木刀を右手に提げたまま向き直る。新吾もまた木刀を手に取ろうとした所で──源一郎に制止された。
「真剣を抜け」
新吾が一瞬何を言われたのか、理解出来ずに固まる。
「……渡辺様、木刀を相手に真剣を向けるわけには、まして同じ組の……」
「抜け、新吾」
仲間に、それも上役である人物に真剣を向けることを躊躇う。当たり前のことだ。
「斬る気で来い──いや、殺す気で来い」
「し、しかし……」
「そうでなければ──死ぬのはお前だ」
言いかけた言葉は……しかし、出きる前に喉の奥で掻き消された。言葉が遮られ、唐突に殺気が飛んで来たせいだ。
有無を言わさぬ、身に無数の針の穴を穿つような強烈な殺気である。源一郎は構えてすらおらず、木刀を右手に提げ、ただ立っているだけ。
だというのに次の瞬間、新吾には見えた──源一郎の剣が己を正面から二分に断つ様が。
脳天から入った刃が、額を割り、鼻梁を裂き、喉を、胸を、腹を通って股まで一刀の元に抜ける。体が左右に分かたれ、血を噴きながら崩れ落ちていく。痛みを感じる暇もなく、『死』という事実だけが灼けるように脳裏へ刻みつけられる。
──息が止まっていた。
「っ……!」
気がついた時には膝を突いていた。額から脂汗が噴き出し、顎を伝って土の上にぽたりと落ちる。確かに感じた──今、自分は死んだのだと。一刀流。変幻自在とも呼ばれる一刀即万刀の理により、切り捨てられたのだと。
しかし奇妙なことに、対する源一郎は、やはり一歩もその場を動いてはいない。
幻。幻影。それとも夢幻の如き剣理か。抜山蓋世──力は山を抜き、気は世を蓋ふの言葉に等しく、理解の及ばない領域にある剣士の威気は、ただのそれだけで有り得た未来を視せる。
「どうした。来い」
動揺を禁じ得ない。歯を食いしばり、鯉口を切って真剣を抜くも……刀を握る指が震えていた。
朝の薄陽に、刃が鈍く光る──。真剣を振りかぶろうとした腕が上がりかけ、しかしそこで、ぎこちなく動きが止まった。
──木刀の切っ先が、僅かに揺れる。
「が、あぁっ……!!」
右の腕が肘から先ごと跳ね飛んだ。刀を握ったままの腕が、くるくると宙を回って地に落ちる。
源一郎の威気に吞まれた場──そんな光景をその場にいた全員が視せられた。
「ひっ……」
庭の端で若い衆の一人が引き攣った声を上げる。
新吾が反射的に己の右腕を見た。ある。刀を握ったまま、確かにそこにある。
──また切っ先が揺れた。
左の脚に赤い線を奔らせ、膝から下を断たれる。体が傾ぎ、再び膝を突くと同時に、肩口から胴にかけて袈裟懸けに断たれた。
「はあ、っ……はぁ……はぁ……」
地に落ちた霜の冷たさが肌に沁み、荒い息が白く広がっては解けて消える。どこにも傷はない──そう分かってはいるのに体が震え、言うことを聞かなかった。
──そしてそれは、その場にいた見学者たちも同じ。
若い衆の一人は棒を取り落としたまま震え、一人は板塀に背を押しつけて目を固く瞑って背ける。留でさえ顔を青くさせており、源一郎の立ち会いと聞いて見学していたお茂に至っては、腰を抜かしてその場にへたり込んでいた。
皆、確かに視ていた──。
源一郎が新吾の腕を刎ね、脚を断ち、両断し、骸が血の海に沈むのを。はた、と直後に気がつき、五体揃ったまま膝をつく新吾を見て、それがただの見間違いではないと知り、また顔を青くする。
「立て」
頭の上から声が降ってきた。
新吾が見上げた源一郎の顔には、何の色も浮かんでいなかった。膝を突いた新吾への気遣いも、死を視せたことへの呵責もない。ただ斬るべくして斬ったという、火盗の剣鬼の顔がそこにはあった。
──御用改めの場で、盗っ人どもが見て絶望するのは、この顔か。
そう新吾は思った。片手を膝について立つ。膝が笑っていた。
「構えろ」
言われるがままに構える。
源一郎は木刀を下げた。胸も喉もがら空きのまま、無造作に一歩、間合いへと踏み込んでくる。
──今ならば打てる。どこへでも届く。
分かっているのに、柄を握る手が動かない。肩口が軋むように強張り、振りかぶろうとした腕が意思に反して途中で止まる。
切っ先が揺れ、胴を薙がれる。幻だと分かっていてもなお、死への畏れが立ち向かおうとする意思を容赦なく挫こうとする。
「俺を殺せ」
新吾は立ち上がり、再び構えた。
源一郎が木刀を下げたまま、今度は半身を開いた。無防備な姿が、新吾の目の前に晒される。
──振れ。振れっ。振らなければっ……!
己にそう命じても、腕が上がらない。上役の胸を借りているのだ、応えなければならない。だが、どうしても心と体は一致しない。額に浮いた脂汗が顎を伝って流れる。冬の朝だというのに、着物は汗みずくで肌に張りついていた。
「なぜ振らん」
源一郎が問うた。
「……振れぬのです」
「では、なぜ振れん」
答えられなかった。
切っ先が揺れ、右の腕が飛んだ。
「っ……!」
「答えろ」
「斬られた時の、ことを……思い出すのです……!鶴喜の板の間で、用心棒の刃を受けた時のことを……!肩口に刃が入った、あの冷たさをっ……」
「嘘だ」
源一郎は即座に断じた。
「お前はもう何度俺の剣を受けた。なのに、まだ俺の前に立っている。お前があれしきのことで剣を捨てるなど有り得ない。──何から逃げている」
「逃げてなど……」
木刀の切っ先が、すっと持ち上がり、初めて構えを取った。
「まだ逃げるか」
低く、怒気の込められた声と共に、首が飛んだ──。