天地が回る。地に降りた霜の白、澄んだ空の青──目の前でぐるりぐるりと入れ替わる。地に落ち転がった先で見上げると、首のない己の体が斬られたことにも気づかず、刀を構えたまま突っ立っていた──。
お茂の悲鳴が短く上がって途切れた。
「──ッ、は……っ、は、あ……っ」
這いつくばって吐いた。両手を地について、獣のように。胃の腑から酸がせり上がり喉を焼く。朝餉の前であることは幸いだったのか。
口の端を拭うこともできずに新吾は肩で息をしていた。
「目を逸らすな。肩の傷が刀を振れない理由ではないだろう。ならば、何が理由だ」
わからない、と言いかけて新吾は口を閉じた。
振れなくなった理由を肩の傷のせいだと、自らに言い聞かせてきた。斬られた時の刃の冷たさを体が覚えているのだと。
だが──今言われた通り、己はもう何度斬られた。腕を刎ねられ、脚を断たれ、首まで飛ばされて、それでも尚正気を保っている。斬られることそのものを恐れているのなら、とうに錯乱している筈だった。
──で、あるなら、この腕が自由にならないのは何故なのか。
刀も満足に振るえぬ半端者。武士を名乗るにも、この身では烏滸がましい──そんな後ろめたい思いを抱え、あの夜を境に役宅からは足が遠のき、品川へ通い詰めることになった。
己に言い聞かせてきたその理由は、正鵠を捉えてはいない。その下に何が隠されているのか、新吾は知らず知らずのうちに目を逸らしていた。
「既に覚悟を決めたんだろう。腹をくくれ。自分の心を見つめろ。本当に恐れていたのは何だ」
源一郎が問うた。
わからない──いや、わかっている筈だった。ふと、した時のこと。一人でいる時に頭に浮かんでくる、心の澱み。
──いつも頭の片隅にあるのは何の変哲もない、養生の間に見ていた自宅の天井だ。
晒を巻いた肩のせいで寝返りもできず、仰向けのまま日がな一日それを見上げていた。煤けた板の継ぎ目。梁の節。雨漏りの古い染み。障子の明かりが畳を這って移り、やがて暗くなってゆく。家人は己の他になく、見舞いの客が帰ってしまえば、家の中には物音一つしなかった。
その天井を眺めながら、幾度も鶴喜の捕り物の夜を思い返していた。用心棒相手に二人掛かりで斬り込み、しかし、遊ばれるように返された刀が肩口に入り感じた、あの刃の冷たさと痛みを。
──斬られた時の嫌な感覚を何度も、何度も。
その度に気分は落ちてゆく。なぜこうなったのか、何がいけなかったのか。そんな思考ばかりがグルグルと反芻される。
そして、心の奥底に仕舞われ、張り詰めていればこそ考えずに済んでいたナニカも。張りの緩んだ胸の奥底から、ジワリジワリと少しずつ滲み上がってきていた。
──斬られた己の不甲斐なさ。それだけではない。誰にも必要とされていない空虚感。自分だけ務めを果たせていない罪悪感。自分だけが取り残され、家の外が別世界のように思える疎外感。自宅である場所が安心出来ない場所に変わっていた。
そんな思いを抱えて幾日か。天井を眺め思い返す先も、少しずつ変わっていくようになった。
ある晩になって──天井の木目の一つが、ふいに、人の顔に見えた。
どこかで見覚えのある顔であった。
火付盗賊改の同心となって幾年、幾つもの改めに加わってきた。盗人を追い、捕らえ、やむを得ず斬ることもある。多忙で過酷な役目であり、己の手で断った命の数も、新吾は数えたことがなかった。
──その者たちの顔が、一つ、また一つと天井の木目の中に浮かぶ。
どれも、斬られた刹那の顔をしていた。口を半ば開け、目を見開いて、己に何が起きたのか分からぬという呆気に取られた顔。新吾が刃を入れた時の、そのままの表情。新吾は確かにその顔を覚えていて──忘れたつもりでいた。
──あの者たちは俺を恨んでいる。
そう思うと、床の中で体が震えが走った。逃げ場はなく、夜具を被っても震えは止まらなかった。
夜は殊更に悪い。行灯を消せば、天井の顔は闇に呑まれて見えなくなる。だが、見えなくなった分だけ視線が増え、瞼の裏に別の顔が浮かんだ。
気にすれば気にするほどに、呆気に取られた顔は怒り歪み恨む顔となり、見知らぬ顔や知人の顔にまで変化した。うつらうつらとすれば顔が迫り、跳ね起きると寝間着が汗で肌に貼りつく。風が雨戸を鳴らしただけで目を覚ますようになった。
火付盗賊改方は極論、お上より切り捨てを許されているせいか、組の仲間内では斬った者に心を乱すのは武士として未熟な証だという風潮がある。
──だから己の恐れを隠し、刀を振れないのは肩が引き攣り、傷が疼くせいだと思うことにした。
役宅から脚が遠退いたのは、養生していたからという理由だけではない。後ろめたさを感じると共に、いつしか役宅へ出なくてよいことに少しだけ安堵するようになっていたから。心の不具──死者を恐れているなど、組の仲間には言える筈がなかった。
息が詰まる。斬られた刃よりも、天井に浮かぶあの顔の方がずっと恐ろしい。
「自身の心の内に、何か見えたようだな」
源一郎は待っていた。急かすでもなく、木刀を提げたまま。
「……天井が」
それだけ言って、新吾は唇を噛んだ。
「養生の間、ずっと天井を見ておりました……そこに……斬った者の顔が浮かぶのです……」
躊躇い、しかし、堪えるようにして打ち明けた。軟弱者と謗られるのを覚悟して。心の奥底に澱んだものを見つめ、吐く。
「……お、俺、は」
声が掠れた。歯の根が合わず、かちかちと小さく鳴る。その震えが寒さのせいではないことだけは分かっていた。
「刀が振れぬのを、ずっと、傷のせいにしておりました……恐ろしかったのです……今まで斬り殺した者の影が……呆気に取られるような顔が、頭から離れず……」
新吾は左の肩口を掴んだ。
「斬らねば斬られる。改めの場では、そう己に言い聞かせていました……ですが、俺は──」
言葉が途切れた。喉の奥が引き攣れて、続きが出てこない。込み上げてきたものを、新吾は息を止めて呑み下した。
肩が震え出し、止めようと奥歯を噛みしめる。指に力が籠もって地を掻けば、爪の間に、溶けた霜と土が食い込んだ。
──盗人を斬るはお上より賜った御役目。斬った者に心を乱すは、武士として未熟の証。武士ならば強くあれ。世のため、人のため。命を惜しむな、名を惜しめ。
「組屋敷で育った者は、皆そう教えられます。自らの臆病を──子供の時分から共に育った者たちに知られるのも、腰の抜けた奴と見られるのも嫌だった……だから俺は、あの娘の許へ逃げた」
新吾は霜の上で拳を握った。
「……ですが、戻りたいとも思うのです。元の己に。人を斬りたくないのに、刀の振れぬ武士に価値などないとも思っている。この二つが、どうしても己の中で折り合わないのです」
鼻の奥が熱くなった。目の縁が滲んで、霜の白がぼやける。
「構え、打ち込もうとする腕が途中で止まる。この腕が己のものではないようで……どうしてなのか、自分でも分からない」
その先は声にならなかった。噛み殺した嗚咽が、喉の奥で詰まった音を立てた。
源一郎は木刀の切っ先を下ろした。しばらく、黙って新吾を見下ろしていた。
「──刀を振れぬのは恥ではない」
静かな声だった。
「負けるのも、恐ろしく思うのも恥ではない。斬った者の顔を忘れられぬのもな。恥というのは、己が守ると決めたものから目を逸らすことだ」
新吾は顔を上げた。目の縁に溜まったものが零れかけ、目を瞑り、それを押し留めた。
「お前は確かに鶴喜で負けた。そして、人を斬るのが恐ろしくなった。それを呑み込めないうちは、何も変わりはしない。乗り越えたいと思うのならば、まずは自らの心の声に耳を傾けるしかない」
新吾は己の手を見た。指の震えは、まだ止まっていなかった。
「世に非の打ち所のない武士などいない。刀が振れるから武士なのでもない。刀を振れても恥知らずの武士など、世には掃いて捨てるほどいる」
腰の二本を笠に着て、町人から袖の下を取る者。弱い者には居丈高に振る舞い、強い者の前では見て見ぬ振りをする者。市中の廻りで、そういう武士の姿を新吾も見てこなかったわけではない。
源一郎はそこで一度、言葉を切った。
「それにな、新吾。お前は、一つ忘れている」
「忘れて……」
「お前は斬った者の顔ばかり数えている。だが、その働きで平穏に暮らせる者がいる。お前が盗人を捕らえたことで、押し込みに遭わずに済んだ家がある。殺されずに済んだ者がいる。──その顔を、お前は一度でも思い浮かべたか」
新吾は答えられなかった。
「斬った者の顔は忘れられぬのに、救った者のことは覚えていない。それはな、お前が己の斬ったものばかりを気にして、守ったものを見てこなかったからだ。お前の剣で救われた者は確かにいる。それは誇ってよいことだ」
新吾は言葉を失った。
「新吾──。お前は何のために刀を差している」
「それは……武士として御役目のため。家のため、組のために──」
「それは、世の中で言われる体面という奴だ」
源一郎は遮った。
「お前自身の理由を訊いている」
何故、刀を差している──?
そんなこと考えたこともない。御役目でもなく、家のためでもなく、体面のためでもない。では何だ。何のために、今ここで刀を握っている。
耳の奥で、掠れた声がした。
──いなくなってからじゃ、遅いんですから。
枕元の行灯の頼りない灯り。骨の浮いた手。最期まで上役の手を離さなかった、あの細い指。
その指にお駒の白い指が重なる。帯の結び目を直していた、あの娘の指。
「……あの娘を」
声が震えた。
「あの娘を、海の底へ行かせたくない。俺は、そのために……」
「ならば、それが今のお前の剣の目的だ」
──守ってやるのではないのか、新吾。源一郎はそう言った。