鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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後半戦。木村さんはオマケ。


第三十六話

 源一郎が重い溜息をつき、額に青筋が浮かぶ……その瞬間──詰所の空気が一変した。温度が下がったような感覚。いや、それだけではない。空気そのものが重くなったような変化があった。

 

 それは最早、鬼気とでも言えようか。堀田に浴びせ掛けたものよりも強烈な──。源一郎の体から、殺気とも似て異なる重苦しい圧が溢れ出し、その場にいた者に息苦しさを感じさせた。

 

 詰所にいた与力や同心たちが身の危険を感じ、一斉に息を呑んだ。何人かは無意識に刀を手繰り寄せ、何人かは後ずさる。

 

「な……」

 

 木村は声を失った。

 

 目の前に立つ若い与力が、突然、異質な存在に見えた。同じ武士、同じ与力のはずなのに全く別の生き物のように感じられる。

 

 町奉行所の与力は基本的に文官だ。取り調べや書類仕事が主な職務であり、実際に現場に出て刀を振るう機会はない。捕物といっても、後ろに控えているか実働の同心や岡っ引きに任せることが多い。

 

 ──だが、火盗改は違う。

 

 火盗改は武力を持って盗賊を制圧する。危険な凶賊を相手取り、実際に斬り合いをする。刀を振り、人を斬る。その場での処刑も認められている。武官のみで構成される組織──それが火付盗賊改だ。

 

 そして木村にとって不運だったのは……目の前の男が火盗改の中でも有数の武闘派──いや、もはや存在自体が人間離れしてしまっているバケモノだと知らなかったこと。

 

「木村殿──」

 

 源一郎の声が静かに詰所内に響いた。

 

「俺は『お願い』をしているのです。態々ここに来ている意味、わかって貰えませんか」

 

 その声は穏やかだ。だが、その穏やかさが、かえって恐ろしい。源一郎が無造作に刀の柄に腕を乗せ、ジリと脚を動かした。それだけだった──。

 

 誰もが身動き出来ないでいる中、銀色の線が一筋奔る──。

 

 それだけで──木村は、寺社奉行方の堀田と同じように首を斬られた感覚を味わった。現実と同じような痛み。首を冷たい刀の刃がすり抜けてゆく感覚。首が刎ね飛ぶ。血が噴き出し、思考が止まる『刹那』が見えた。

 

「っ……!」

 

 木村は首を押さえて膝をついた。慌てて確かめる。切られていない。首が繋がっている。それを理解した途端、呼吸が荒くなった。冷や汗が全身から噴き出し、バクバクと心臓が鳴る。立ちあがることすらままならなくなった。

 

「ひっ……!」

 

 誰かが悲鳴を上げた。

 

 その場にいた他の与力や同心たちも、同様だった。皆が木村の首が転げ落ちる様を幻視して腰を抜かし、あるいは気圧されるように退いて壁に背中を預け、驚愕の視線で源一郎を見ていた。大半の者が呼吸を乱し、顔色を青くさせている。

 

 そして彼らもすぐに気づいた。血が出ていない。傷もない。木村も死んでいない……そもそも源一郎は刀を抜いてすらいなかったことに。詰所内が完全な沈黙に包まれる。全員が固まっていた。まるで石にでもなったかのように。

 

 殺気──ただのそれだけで切られたと錯覚させられたと理解した。

 

「な、なに、を……」

 

 木村は震える声で言った。だが、その先が続かない。恐怖で上手く言葉が出てこない。

 

 源一郎は刀の柄から手を離した。だが、滔々と身の外に流れ出る鬼気は収まらない。むしろ──その圧はさらに強まったようにも感じられる。

 

 詰所全体を、重く冷たい空気が支配してゆく。息をするのも苦しい。心臓を鷲掴みにされているような圧迫感。そのまま、心臓が重圧で押し潰されてしまいそうな──。

 

 源一郎はゆっくりと詰所を見回した。

 

 その視線が向けられるたびに、与力や同心たちは身を竦ませた。目を合わせることすらできない。視線が触れただけで、次は自分ではないかと……そんな恐怖を覚える。

 

「──もう一度だけ言います。今宵、火盗改が御用改めを行う。その場には寺社奉行方の堀田殿も来られることになっております」

 

 その声は穏やかだ。

 

「南町奉行所にも、是非ともご協力いただきたい。……そう『お願い』に参りました。三度目はありませんが」

 

 お願い──その言葉がかえって恐ろしく響く。言葉の裏には『強制』や『脅迫』といった意味が感じ取れた。断れば、どうなるのか。その答えは今まさに味わった幻覚が示していた。

 

「木村殿、いかがか」

 

 源一郎の視線が、再び木村に向けられた。

 

「あっ、え、ぁ……」

 

 木村は小さく悲鳴を上げた。首を押さえたまま、畳の上で震えている。顔は蒼白で、額には脂汗が浮かんでいる。歯の根が合わない。

 

「あ、い、いや……わ、私は……」

 

 木村は何かを言おうとした。だが、言葉にならない。源一郎の威圧が効き過ぎたせいで、頭が真っ白になっているのだ。

 

 町奉行所与力としての誇りも、火盗改への反発も、全て吹き飛んでいた。ただ、目の前の男が恐ろしい。逆らったら、今度こそ殺される。その本能的な恐怖だけが、木村の心を支配していた。

 

「木村殿」

 

 源一郎が思うような返答を中々貰えないことに、いい加減苛立ち……更に圧を込めて一歩迫った。

 

 木村は口を開いた。だが、ハクハクと喘ぐばかりで声が出ない。喉が渇き切っている。舌が痺れている。何を言えばいいのか分からない。

 

 ──誰か助けてくれ。

 

 そう叫びたかった。だが、誰に助けを求めればいいのか。周囲の与力や同心たちも、同様に身を凍らせている。誰も動けない。誰も何も言えない。場は完全に源一郎に支配されていた。

 

 その時──奉行所の奥から、誰かがやってくる足音が聞こえた。

 

「これは一体何の騒ぎだ」

 

 低い声が響いた。振り返ると、そこには一人の男が立っていた。五十過ぎだろうか。背は低いが、がっしりとした体躯。眉は太く、目は大きく見開かれている。紋付き羽織袴を着た、明らかに上役と分かる出で立ち。

 

「お、おぶぎょう……」

 

 木村が掠れた声で呟いた。

 

 南町奉行──池田修理(筑後守)長恵その人だった。

 

 池田修理長恵は周囲から豪胆な性格で知られている。裁定については苛烈果断で、職務において失態を犯し将軍への拝謁を禁止されたこともあった。だが、基本的に陰湿さのない単純明快な人物であり、事情の入り組んだ面倒な案件にも踏み込んで裁定を下すため、一定の人望があった人物だ。

 

 感情豊かで、喜怒哀楽が激しい。失敗して落胆していたかと思えば、すぐに立ち直る。時には大声を上げて泣き叫ぶこともあり、「鬼の目にも涙」と評されたこともある。良くも悪くも、裏表のない男だった。

 

 池田修理長恵は畳の上で這いつくばっている木村と、腰を抜かしている与力や同心たちを見回した。

 

 ──異様な光景だった。

 

 詰所にいる者たち全員が、まるで本物の鬼にでも出くわしたかのように怯えきっている。その中心に、一人の若い男が立っている。刀は抜いていない。ただ立っているだけだ。それなのに、この有り様。

 

 ギョロリとした目が源一郎を捉えた。

 

「……何者だ」

 

 その声には警戒の色が滲んでいた。だが、詰所にいた者たちのように怯えてはいない。豪胆な性格と長年の経験が、この異常事態にも冷静さを保たせていた。むしろ、その目には何事かと好奇心すら浮かんでいる。

 

 源一郎は南町奉行に向き直る。そして同時に──武威を収めた。

 

 重く冷たかった空気が、少しずつ和らいでいく。詰所にいた者たちが、ようやく息をつくことができた。

 

「火付盗賊改方与力、渡辺源一郎にございます」

 

 源一郎は頭を下げた。さすがに町奉行本人を相手に、先ほどのような態度を取るわけにはいかない。

 

「日枝神社の奉納金窃盗の件で参りました。盗賊の拠点を突き止めましたので、今宵、御用改めを行います。つきましては、南町奉行所にも御協力いただきたく」

「ふむ」

 

 無いと言っていた三度目の誘い──池田修理長恵は鷹揚に頷き、腕を組んだ。その仕草には詰所の惨状を見てもなお動じない胆力が表れている。──それから、畳の上で震えている木村を見下ろした。

 

「木村ぁ」

「は、はい……」

 

 木村は、這いつくばったまま答えた。声がまだ震えている。

 

「北町奉行所から苦言が来ておるぞ」

「は……?」

 

 木村の顔が、さらに青ざめた。

 

「『町奉行方の役人が、若い火盗改の与力たった一人の圧に怯んでいたそうだな』とな。それで北町奉行所まで風評被害を受けておると」

 

 南町奉行の声は静かだったが、口答えを許さない厳しさを含んでいる。

 

「町人地では既に噂になっておると聞く。『奉行所の同心は偉そうなだけで頼りない』、『いざという時に何の役にも立たぬ』とな」

「そ、それは……」

「何だ、この体たらくは。加えて、このまま何もせず事件が御宮入りすれば、無能の謗りを免れまい。南町奉行所全体の威信に関わる。貴様ぁ……もしや逃げようなんざ、考えてはおらんよなぁ?儂に、何もできませんでしたと御老中松平様に報告させるつもりかぁ?」

 

 奉行は木村を見下ろした。その目に宿るのは、一大事に動こうとしない木村への怒りと奉行としての使命感──。裏表のない池田修理長恵らしい激しい反応だった。

 

「行ってこい。火盗改に協力し、盗賊の一人や二人切って手柄を立てよ」

 

 木村の顔が絶望に歪んだ。

 

「し、しかし御奉行……」

「失態を挽回する機会を寄越すというのだ。ありがたく思え。それともこのまま、御老中より厳しき沙汰が下るのを待つと申すか」

 

 修理の声には有無を言わせぬ重みがあった。だが、陰湿さはない。単純明快に、やるべきことをやれと言っているだけだ。木村は、がくりと肩を落とした。もはや逃げ場はなかった。

 

「……承知、いたしました」

 

 木村は絞り出すように言った。その声は死刑宣告を受けた罪人のように虚ろだ。

 

「筑後守様、御用改めへのご助力、感謝いたします」

「ふん……」

 

 源一郎は南町奉行に頭を下げた。修理も厳密には源一郎に加勢した訳ではないのだろうが、そういうことにしておいた方が都合が良い。

 

「──では、今宵、戌の刻。浅草、観音堂前でお待ちしております」

 

 源一郎が詰所を出ようとした時、背後から修理が声をかけた。

 

「待て、火盗の」

 

 源一郎が振り返る。すると、修理が鋭く源一郎を見ていた。

 

「……渡辺、と言ったな。お前、鬼平の配下になって長いのか」

「はっ。長谷川様の下で働き、二月ほどになります」

「ふん」

 

 修理はにやりと笑った。その笑みには敵意よりも興味の色が濃い。元来、修理は神速果断を尊ぶ人柄である。問題が起こってからダラダラと手をこまねいているのは性分に合わない。その点──アッサリと状況を動かした源一郎に興味を抱いたのかもしれなかった。

 

「あの男の下にも、面白い奴がいるようだな。今宵の御用改め期待しておるぞ。確と務めを果たせ」

「はい。恐れ入ります」

 

 源一郎は一礼して、詰所を後にし──重い沈黙だけが残った。

 

 木村は未だ、畳の上から中々立ち上がることができなかった。全身が震えている。手足の感覚がまだ戻らない。安堵のせいか、全身から力が抜けてしまっていた。

 

 修理は源一郎が去った方を見つめていた。

 

「……あの男、いったい何者だ」

 

 誰も答えられなかった。修理は腕を組み、小さく息をついた。だが、その表情には怯えはなく──むしろ、どこか愉快そうな色が浮かんでいた。

 

「あの覇気。世が世なら、武将よ。火盗改には化け物がいるようだな」

 

 その呟きには、恐れよりも感嘆が込められていた。

 

「面白い奴だ。奉行所の手など借りずとも、どうとでも出来ただろうに。貸しを作らせて一体何をするつもりなのか」

 

 修理はそう言って、豪快に笑って去って行った。詰所にいた者たちは、その笑い声に呆然とするばかりだった。この奉行は、あの化け物のような男を前にしても、全く怯まなかったのだから。

 

 さすがは「鬼の目にも涙」と評された男──その豪胆さは伊達ではなかったということだった。

 

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