鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第三十八話

 

 山谷堀沿いの道は、闇に沈んでいた。

 

 提灯の明かりを最小限に絞り、一行は足音を殺して進んでいく。左手には堀の黒い水面が月明かりを映し、右手には葦が生い茂っている。時折、蛙の声が聞こえる他は、静寂が辺りを支配していた。

 

 この辺りは江戸の外れ。山谷堀と日本堤を越えた先にある、寂れた一帯だった。かつては寺があったというが、今は廃れて久しい。素性の分からない無宿人が住み着き、堅気の者は近寄らない場所だ。

 

 源一郎は先頭を歩きながら、闇の中に目を凝らしていた。と、その時──道の脇の茂みから、小さな影が飛び出してきた。

 

 黒みがかった灰の毛並み。先端が二股となった長い尾に、きらりと光る細い金色の目。見覚えのある狐だった。赤坂の萬屋で見張りをしている中、豊川稲荷の白狐から使わされて挨拶に来た狐だった。

 

「──お待ちしておりましたよ、鬼切殿」

 

 常人の目には見えない灰狐は、足早に歩く源一郎の足元に寄り添いながら小声で告げた。その声は人間の耳には聞こえない。源一郎だけが聞き取れる、あやかしの声だ。

 

「あぁ、返事はしなくて結構ですよ。破れ寺の中に、四十ほどの人間がおります。そのうち、明らかに盗賊と思われる者は十数名ほど。残りは男女の無宿人ですが──」

 

 歩きながら話す灰狐は僅かに間を作った。

 

「無宿人どもも、武器を持っております。木刀、竹棒、鎌、鉈、鳶口、短刀、包丁……寄せ集めですが、数は多い。それと──」

 

 狐の声が僅かに緊張を帯びる。

 

「無宿人の中に、どうにも様子のおかしな者がおりますね。苛立って落ち着きのない、どう見ても正気とは思えぬ様子。それに──寺の中は妙な匂いがしております」

 

 匂い──聞き覚えのある単語。源一郎の眉根がピクリと反応する。

 

「白檀や桂皮、丁子のような線香の香りがするのですが、その奥に何か別の、苦いような匂いが混じっております。まるで何か臭いものを、線香で覆い隠そうとしているような……」

 

 源一郎は息を詰めた。神猿が神域で感じることのあったという、焦燥や苦痛、鬱屈とした空気──そういった空気を持つ者達からは甘く、苦い、臭い匂いがすると言っていた。ならば破れ寺は、その空気を持つ者たちの根城ということになる。

 

 そして、現代社会を生きた経験のある源一郎の脳裏に──ふと、薬物中毒という言葉が過る。だがしかし、江戸の世にそのような代物が出回っているなど、聞いたこともなかった。

 

「そうそう、盗賊どもは逃げる準備をしているようです。境内に大八車が出ていて三、四人で何か箱を積み込んでおります」

 

 源一郎は眉を顰めた。やはり、移送を目論んでいたようだ。間一髪だった。

 

「盗賊の位置は寺の山門前に二名、本堂の中に六名、裏手に二名。全員武器を持っています。本堂の奥に三人ほど別格の者がいます。他の者とは明らかに雰囲気が違う。一人は巨漢、一人は浪人、一人は弓使い」

 

 どうやら散り散りに逃げた者たちも合流していたらしい。神猿の使いからの報告にあった、社人を殺した者たちの特徴と一致する。それが分かったのは朗報に違いない。

 

「感謝する」

「いえいえ。お方様から与えられた役目も佳境。もうしばらく見張っていますので、何か不測の事態があればお伝えしましょう」

 

 源一郎が短く言い、灰狐は尻尾を振ると再び道端の茂みに消えていった。

 

 ──遠く破れ寺が見える位置まで到達すると、源一郎は歩みを止め平蔵に近づいた。

 

「お報せすべき追加の情報があります」

 

 小声で新たな情報を伝える。灰狐から聞いたとは言わなかったが、平蔵も詳しくは聞かない。源一郎の情報源が人ならざるものにあることは、薄々察しているのだろう。

 

「ふむ」

 

 平蔵は顎を撫でた。月明かりの下、その横顔は精悍そのものだった。

 

「境内に大八車が出ているということは奉納金を移送する準備の最中か」

「はい。あと少し遅れていれば別の場所に移されていたかもしれません」

「間に合って良かったな。……無宿人の中に様子のおかしな者がいるというのは?」

「苛立って落ち着きがなく、正気でないような者が何人か。それと、寺の中から妙な匂いがすると」

 

 平蔵の目が細まった。

 

「……匂いか。狐憑き……乱心……いや、何か人を狂わせる香?忍びの秘薬に阿呆薬があると噂に聞いたことはあるが……」

「……その可能性は十分にあるかと」

「いずれにせよ、見極めるしかあるまい。だが、騒ぎになれば混乱する」

 

 平蔵は一瞬だけ考え込み、そして決断した。

 

「抵抗する者に容赦は必要ないが、無抵抗な無宿人を態々敵に回す必要もない。説得して数を減らせないか試してみよう」

「承知いたしました」

 

 平蔵は同心一行を手招きで集め、小声で指示を出した。その声は小さいが、よく通る。無駄な言葉は一つもない。

 

「まずは逃げ道を塞ぐ──佐久間は同心四名、岡っ引き五名を率いて裏手に回れ。合図があったら突入し、逃げる者を押さえろ」

「はっ」

「渡辺、権助。岡っ引きを数人連れて山門の見張りを制圧しろ。奇襲して、他の賊に御用改めを悟らせるな」

「心得ました」

「残りは後詰め。山門を破り、渡辺らが正面から突入した後に続く。逃走者の確保、盗賊の捕縛に専念せよ」

 

 率いられた同心たちが無言で頷く。皆、場数を踏んだ者たちだ。今更細かい指示は要らない。平蔵の言葉一つで、それぞれが己の役割を理解していた。

 

 ──これが、火付盗賊改方だ。

 

 源一郎は改めて、平蔵という男の統率力を実感した。言葉少なに、しかし的確に。部下たちは平蔵の指示に疑いを持たない。それは恐怖による服従ではなく、信頼による結束だった。

 

 平蔵は堀田と木村を見た。二人は緊張で青い顔をしている。提灯の明かりに照らされた顔は、幽霊のように血色が悪い。

 

「寺社奉行方と町奉行所の方々は、我々の後ろに控えていてくれ。切り合いをせよとは言わん。危険な場所には近づかんでいい」

「は、はい……」

 

 堀田が掠れた声で答えた。木村も無言で頷く。正直、足手まといになられても困る。後方で見ていてくれるのが一番だった。

 

「──渡辺」

 

 平蔵が源一郎を見た。その目の奥に冷徹な光が宿っている。だが、それは残虐さを示すものではない。正義を成そうとする者の強い意志が籠もった光だ。

 

「これはお前のヤマだ。名乗りと先陣は任せる」

「……はっ!」

 

 源一郎は深く頷いた。

 

 お前のヤマだ──その言葉の意味は分かっている。日枝神社の一件は、源一郎が最初から関わってきた事件だ。盗賊を見逃し、社人が殺された。その責任を源一郎は感じている。だからこそ、自分の手で決着をつけろ。平蔵はそう言っているのだ。

 

「では──行け」

 

 平蔵の号令で、一行は動き出した。佐久間と五名の同心が、裏手に回り込むために音もなく闇の中に消えていく。源一郎と権助、熊造ら岡っ引きは山門を睨んだ。

 

 §

 

 破れ寺の山門は篝火が一つ焚かれているのみで、闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。

 

 傾いた柱、半ば崩れ落ちた茅葺き屋根。かつては立派なものだったのだろうが、今は見る影もない。山門の扉は閉ざされており、中の様子を窺うことはできない。

 

 その山門の前に、見張りの男が二人立っていた。手には棒を持っている。時折、欠伸をしたり、互いに気楽そうに会話したりして警戒感は持っていない様子。

 

 源一郎たちは灯りを持たずに闇に紛れ、音もなく山門に近づいていった。見張りの男たちは、こちらに気づいていない。月明かりも弱く、闇に溶け込むように動く源一郎たちを見つけることは難しい。

 

 源一郎は権助に目配せした。権助が頷いた。

 

 ──次の瞬間、闇が動いた。

 

 源一郎と権助が同時に飛び出し、見張りの男たちが気づいた時には、既に遅かった。

 

「な──」

 

 声を上げる間もなく、源一郎の拳が見張りの一人の鳩尾を打った。息が詰まり、声にならない呻きを漏らして崩れ落ちる。

 

 同時に、権助が十手を振り上げ、もう一人の頭を容赦なく強打した。男は棒を取り落とし、気を失う──岡っ引きたちが素早く駆け寄り、二人の見張りに猿轡を噛ませ、手足を縛り上げた。

 

 一瞬の出来事だった。声を上げさせることなく、山門前の見張りを制圧した。

 

 源一郎たちが山門を制圧するのを確認し、平蔵に率いられた同心、岡っ引きたちが大挙してくる。その手には十手、『火盗』『御用』の字の入った提灯が携えられていた。

 

 源一郎は閉ざされた山門の前に立った。──扉の向こうから、微かに人の気配がする。話し声。物を運ぶ音。まだ、こちらの存在には気づいていないようだ。

 

 源一郎は大きく息を吸い込んだ。胸の奥で、何かが蠢いている。高揚感──?いいや、これは怒りだ。

 

 五人の無辜の社人たちが、賊どもの手にかかって命を落とした。その光景が脳裏に浮かぶ。喉を貫かれた者、頭を射貫かれた者、絞め殺された者、首を捻られた者──。源一郎が見張りに徹し盗賊を見逃したその結果、殺されたのだ。

 

 予期していた筈だ。心のどこかに不安があった筈だ。だが、その不安から目を背けた。それは──源一郎自身の甘さがもたらした『罪』だ。

 

 その罪に対する自身への怒りが源一郎の内側から濁流となり、際限なく溢れ出そうとしている。源一郎は己を見つめるために目を閉じた。

 

 ──深く、深く、息を吐く。怒りを鎮めようとする。怒りと共に抑えつけている武威が漏れ出ようとしていた。

 

 意識の底へと潜り、己を見つめる。罪の意識。怒りの源泉。貪を知り、戒とする。瞋を見つめ、定を成す。癡を認め、慧を求める。

 

 怒りに身を委ね、武威を発するのではない。鬼気を纏うのでもない。それらを超えた、その先へと昇華させる。

 

 ──剣禅一如、無念無想の極地へ。

 

 参禅参究。幾度も繰り返した守破離のプロセス。全てが学びであり探究、罪の意識でさえも自己を高みへと押し上げる糧とする。

 

 ──大死一番。

 

 怒りを捨てる。恐れを捨てる。迷いを捨てる。己を捨てる。全てを捨て去った先に──何が視える?

 

 『空』である。己の中の鬼に克つ──『克鬼』の境地へとアッサリと至る。源一郎は目を開けた。

 

 瞬間──源一郎の纏う空気が完全に消えた。気配がない。殺気がない。武威も、鬼気も、何もない。ただ、そこに一人の剣士が在る。それだけだ。

 

 だが──それこそが、最も恐ろしい状態だった。研ぎ澄まされた精神。心は水鏡のように静謐で、ただ一本の矛として争いを鎮め、世を均さんとする。人の形をした、武神の化身──。

 

「南無八幡大菩薩よ──」

 

 力強い言霊──渡辺の、源氏の氏神の名を唱える。源一郎は半身となり……そして──威気を溜めた後、右脚で山門の扉を蹴り破った。

 

 轟音が響く。かつては立派だったのだろう傾いた山門の扉が、朽ちかけ脆くなっていた蝶番ごと吹き飛んだ。木片が飛び散り、土埃が舞い上がる。扉は本堂の方へと転がり、凄まじい音を立てた。

 

 その轟音に境内の中が一瞬、静まり返る。源一郎は蹴り破った山門を潜り、境内へと踏み込んだ。

 

 そして──。

 

「──御用改めであるッ!手前ども、火付盗賊改の御用人ぞ!控えおれ、無用の者は下がれ!」

 

 源一郎の声が、稲妻のように夜の帳を切り裂いた。

 

 その声は人の声とは思えないほど響いた。本堂だけでなく、破れ寺全体の境内、裏門まで轟く、腹の底から絞り出された大音声。

 

「一同、神妙にお縄を頂戴せよ!抵抗する者は命がないと思え!逃げる者は盗賊一味と看做す!一人たりとも逃がさぬと心得よッ!」

 

 火盗改の威勢を存分に見せつけた。

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