鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第七十五話

 

 宗右衛門は一瞬、男の言葉が理解できなかった。

 

「何やと……!」

 

 播磨の言葉が思わず口をついて出た。

 

「奥の部屋にいたはずなんですが……朝起きたら、もぬけの殻で……」

 

 宗右衛門は弥平を軟禁していた奥の部屋に駆け込んだ。

 

 確かに弥平の姿はどこにもなかった。布団は敷きっぱなし、飯の膳はそのまま残っている。商売道具の筆や硯もそのまま。だが弥平の姿だけが消えていた。

 

「どういうことだ。見張りは何をしていた」

「それが……夜通し見張っていたはずなんですが、誰も気づかなかったと……」

 

 男たちは顔を見合わせた。その顔には不可思議な事象に対し、気味悪そうにする忌避の色が浮かんでいた。

 

「頭、実は夜に、またおかしなことがあったんですが……」

「……何だ。何があった」

「昨夜、弥平の部屋から妙な音が聞こえてきたんで……」

 

 男の一人が声を震わせながら言った。

 

「そこで賭場でも開いてるような音でして……サイコロを振る音とか、『半だ丁だ』って掛け声とかが……弥平の部屋の方から聞こえてきたんで」

「賭場の音だと──?」

 

 宗右衛門は眉をひそめた。

 

「へぇ。最初は弥平が独り言でも言っているのかと思ったんですが……部屋を覗きに行くと音はピタリと止んで……当の弥平は布団でグースカ寝てました。でも、確かに聞こえたんですよ。『丁半丁半、張った張った』って……」

 

 別の男が続けた。

 

「俺も聞きましたぜ……どこからともなく賭場の喧騒が聞こえてきたのを。でも、この辺りに賭場なんてねぇでしょう。本所の外れの、こんな人寂れた場所に……」

「チッ……なら、なんで抜け出したことに気づかなかった。いついなくなったんだ」

 

 宗右衛門が舌打ちしつつ訊ねると、男たちは顔を見合わせた。

 

「朝になって見たら、既に布団に姿がなく……すぐ屋敷中を見回ったんですが、どこにも……俺らも寝入ってたとかではありませんで、どうやって屋敷を出たのかは皆目見当もつきませんや……」

「……賭場は当たったんか。あの男が足繁く通っていた賭場は」

 

 宗右衛門が訊ねると、男の一人が頷いた。

 

「へぇ、すぐに手分けして探しやした。両国の盛り場、深川の岡場所裏、本所界隈の賭場も当たりやしたが……どこにも姿はなく。顔見知りの博徒にも聞いて回ったんですが、弥平を見た奴は一人もいませんでした」

「馬鹿な……あれほどの賭博狂いが、賭場に少しも顔を出さんはずがなかろう」

「へぇ……俺らもそう思うんですがね。まるで煙のように消えちまって……」

 

 宗右衛門は歯噛みした。弥平は賭博狂いだ──賭場の声が聞こえ、我慢できずに飛び出していったというのは考えられる。だが……誰も出て行くのを見ていない。それに、寝ていたのを目撃しているという……どうやって見張りの目を欺いて屋敷を出たのか。そして、何故、どの賭場にも姿を現さないのか。

 

 ──まさか、本当に狐狸に化かされたとでもいうのか?

 

 分からない──。宗右衛門は狐狸妖怪の類を頭から否定してはいない。元来、闇の深い時代だ。神仏への信仰は深く、正体不明、説明のつかない事象に対する人の想像も逞しい。

 

「神隠しだ……」

 

 男の一人がポツリと言った。

 

 神隠し──人がある日忽然と姿を消す怪異。天狗に攫われた、狐に化かされた、山の神に連れ去られた──様々な言い伝えがある。消えた者は二度と戻らぬこともあれば、数日後に山中や辻で呆けた状態で見つかることもある。

 

 そして、戻ってきた者の中には、その間の記憶がない者、あるいは狂ったように『有り得ない何か』を口走る者もいるという──。

 

「頭……この屋敷、やっぱり何かに憑かれてるんじゃ……」

「黙れ……!」

 

 どうしてこんなにも都合の悪いことばかりが起こる──宗右衛門は苛立ち一喝した。

 

 弥平は偽の遺言状を書いた張本人だ。他にも通行手形などの偽造を請け負っていた。あの男が誰かに自慢話でもすれば全てが終わる。遺言状や通行手形の偽造の罪は死罪──喋れば弥平もただでは済まないとは言え……不安は大きい。何故、あのような男を利用しようと考えたのか、今となっては後悔しかない。

 

 ──新たな遺言状の噂に始まる株仲間の嘲笑、従兄弟の動揺、奉公人たちの態度の変化。そして、弥平の失踪。

 

 どうしてこうも上手く物事が進まない。まるで全てが繋がっているようだ。誰かが自分を追い詰めようとしているとしか思えない。

 

 ──何でや。何でこうも上手くいかないっ……!

 

 宗右衛門は己の計画が崩れ始めていることを、はっきりと感じ取っていた。

 

§

 

 疲れ切った様子で宗右衛門が伊勢屋に戻ると、店の奥にある住居空間で、お千代が慌ただしく動き回っていた。

 

 見るに、お千代は父──喜兵衛の居室だった部屋で何かを探しているようだった。箪笥を開け、文箱を漁り、床の間の掛け軸の裏まで調べている念の入れよう。

 

「……お嬢様、いったい何をなさっているのです」

 

 宗右衛門が声をかけるとお千代が振り返った。その顔に一瞬警戒の色が浮かんだ──。だが、すぐに表情を取り繕う。

 

「父の形見を探しているのです。母が父に贈った煙管があったはずなのですが見当たらなくて」

「さようですか」

 

 宗右衛門は穏やかに答えた。だが、内心では疑念が渦巻いていた。

 

 ──形見を探している? 本当にそれだけか。

 

 いや──本当は望みを掛けて噂の遺言状を探しているのだろう。誰かが、お千代に入れ知恵をしている。本物の遺言状の存在を教え探すよう仕向けているのではないか。

 

 ……そうだ。あの火盗改の息子だ。間違いない。巷では若い武士が代筆屋を探していたという噂もあった。

 

 ──あのボンクラがぁ……余計なことを。

 

 もしかしたら弥平が屋敷から忽然と消えたことも何か関わりがあるのではないか──。荒唐無稽。支離滅裂。論理破綻。弥平が消えた理由を長谷川辰蔵に求めるのは現実的に無理がある。しかし……一度考えるとそうとしか思えず、宗右衛門は苛立ちで頭に血が上るのを感じた。

 

 ──長谷川、辰蔵……許さんぞ……

 

 宗右衛門の目に暗い光が宿る。

 

 いっそ、あの若造を始末してやろうか──。一瞬、そんな考えが頭をよぎる。だが、宗右衛門はすぐにその考えを打ち消した。

 

 ──阿呆か、ワシは。

 

 火盗改の頭の息子に手を出すなど狂気の沙汰だ。成功すれば長谷川平蔵の怒りを買い、江戸中をひっくり返してでも下手人を探すだろう。失敗しても己の正体が露見する危険が大きくなる。どちらに転んでも破滅への道。十数年かけて築いた全てが水の泡になる。

 

 それに──辰蔵を殺したところで何も解決しない。噂は既に広まり、弥平は行方知れず。辰蔵一人を消したところで、崩れかけた計画が元に戻るわけでもない。

 

 宗右衛門は深く息を吐いた。怒りに任せて動くのは愚か者のすること。冷静になれ。影鰐は常に冷静だった。感情で動かず計算で動く。それが己の流儀ではないかと。

 

 ──今やるべきことは、あの若造を殺すことではない。

 

 宗右衛門は思考を切り替えた。

 

 喜兵衛の残した遺言状が本当にあるなら、それを見つけ出して処分しなければならない。弥平が見つかったなら喋る前に始末せねばならない。

 

 そして──お千代だ。

 

 お千代をどうにかする必要がある。だが、殺すのは得策ではない。見合いの話も既に進めてしまっているし、商人には評判という無視できない要素もある。

 

 ならば──。

 

 宗右衛門の頭に、ある計略が浮かんだ。

 

§

 

 場所は再び本所──伊勢屋、隠居所の屋敷にて。

 

 男たちは相変わらず冴えない顔をしていた。弥平の消失が彼らの心に影を落としているのか。本所七不思議の噂が彼らの恐怖を煽っているのか。

 

 だが、一度宗右衛門の目つきを見ると男たちは姿勢を正した。冷たく、鋭い眼差し──頭目の目に昔の苛烈さが戻りつつあることに気づいたのだ。

 

「──おう、お前ら聞けや」

 

 宗右衛門は低い声で言った。

 

「計画を変更する」

「変更、ですかい……?」

「お千代を、見合いの日までこの屋敷に軟禁する」

 

 男たちは顔を見合わせた。

 

「軟禁するって……どうやってです?」

「気違い茄子──曼陀羅華を知っとるやろ」

 

 宗右衛門は冷たく笑った。

 

「喜兵衛を殺した時に使うた分の余りが、まだワシの手元にある。あれを少量、お千代の使う茶葉に混ぜておく。量を加減すれば、死にはせん。だが、摂取すれば幻を見て錯乱する」

 

 男たちの顔に徐々に理解の色が浮かんでくる。

 

「日中、客のおる時間帯にやる。店先で突然お千代が錯乱すれば、大騒ぎになる。有り得んもんが見える、何か聞こえると喚き散らす娘──客も奉公人も皆が錯乱するお千代を目撃する。父を亡くした悲しみで心を病んだのだ、可哀想に、とな──」

 

 宗右衛門は淡々と続けた。

 

「そこでワシが出て収める。こんな騒がしい店では養生できん、お嬢様のためにも静かな場所で休ませた方がよい、と。そうして此処に連れてくる。大勢の前で錯乱したのだから、誰も疑わん。むしろ、すぐに店から離すのは当然のことだと思うやろう」

「な、なるほど……」

 

 男の一人が感心したように頷いた。

 

「殺さずに済むし、誰にも怪しまれない。流石は頭だ」

「見合いの日まで此処で預かり、そのまま信州の商家に引き渡す。向こうには、『心を病んでいるが、環境が変われば良くなる』とでも言うておけばええ。嫁いだ後のことは知らん。江戸から遠く離れた信州で、お千代が何を言うても誰も信じん。狂人の戯言で片付けられる」

 

 宗右衛門の目が暗く光った。

 

「それに……錯乱しとる間に聞き出せることもあるやろう。本物の遺言状のこと、誰が裏で糸を引いとるか……正気を失った人間てもんは隠し事ができんからな」

「いつやるんです」

「早い方がええ。明日の昼八つ時、客が多い頃合いを見計らう。茶の支度はワシがやる。お前らは此処で待機しておれ。お千代を連れてきたら見張りを頼む」

 

 男たちは顔を見合わせた。そして、一人が頷いた。

 

「……へぇ。分かりやした、頭領」

 

 宗右衛門は満足そうに頷いた。

 

 これで全てが片付く。お千代を信州に追いやり、裏で動いている者の正体を聞き出す。そうすれば計画は元通りになる。

 

 ──そう、元通りに。

 

 宗右衛門は自分に言い聞かせた。十数年かけた計画。今更、崩れるはずがない。そう信じようとしていた。

 

 だが──。

 

 人を化かすことに長けた狸たちの目が、暗闇の中──静かに全てを見つめている。

 

 置行堀の声。送り提灯の灯り。狸囃子の音。

 

 本所七不思議はただの怪談ではない。闇の薄れた遙か未来にまで畏れを残す山怪──狐狸が惑わす化かしの妙。

 

 この地に棲む霊験を持つ獣たちが、じっと息を潜めて人を化かす機会を窺っていた。

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