鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第七十八話

 

 ──時は少し遡る。

 

 本所の隠居所を遠巻きに、火盗改の手勢が包囲を敷いていた。

 

 夜の闇に紛れ、同心や手先たちが屋敷の周囲に散開している。提灯の明かりは落とし、『白く輝く』月明かりを頼りに、静かに、確実に獲物を囲い込んでいく。

 

 源一郎は屋敷の正面に位置を取り、配下の者たちに目配せを送った。傍らには指揮下にある同心の権助、そして新吾が控えている。他の同心たちも、それぞれの持ち場で待機していた。

 

 その時、背後から足音が近づいてきた。

 

「──若旦那」

 

 熊造だった。息を切らせながら駆け寄ってくる。

 

「どうだ」

「へい、間違いありやせん。ウチの下っ引きが見てやした。昼過ぎに伊勢屋から籠が出て、お千代さんがこの屋敷に運び込まれたのを確かに見たってんで」

 

 源一郎は頷いた。

 

 昼間、伊勢屋で騒ぎがあったという報せは既に届いていた。お千代が突然錯乱し、狂態を晒したと。そして番頭の宗右衛門が「養生のため」と称して、本所の隠居所へ連れて行ったと。

 

 毒だ──。源一郎はそれを聞き、すぐに察した。喜兵衛殺しにも毒が使われた疑いがある。何の毒かまでは分からないが……幻覚を見せ錯乱させる類のものだろう。宗右衛門は、お千代を狂人に仕立て上げようとしているのだと。

 

「屋敷の中の人数は」

「へぇ。ウチのが出入りを数えたところでは、恐らく用心棒の浪人が七人ほど、他に町人風なのが六、七人ほど。総勢で十三、四人てとこでさぁ」

「……それだけいれば、油断はできんな」

 

 権助が渋い顔で言った。その傍らには辰蔵の姿もある。

 

 お千代が錯乱し、連れ去られた──その報せを聞いた時の辰蔵の顔を、源一郎は覚えている。血の気が引き、目が見開かれ、そして次の瞬間には刀に手に飛び出そうとした。

 

 源一郎が止めなければ、辰蔵は単身で隠居所に乗り込んでいただろう。

 

「私の傍を離れないでいただきたい」

 

 源一郎はそう言って、辰蔵を御用改めに同行させることにした。暴走されては困る。だが、この場に置いておく方が目が届く。それに──お千代を助けたいという辰蔵の気持ちは痛いほどに分かった。

 

「辰蔵殿」

 

 源一郎が呼ぶと、辰蔵が振り返った。

 

「もう間もなく突入します。焦らず、お待ちください」

「……分かっています」

 

 辰蔵の声は固かった。抑えてはいるが、その奥に激情が渦巻いているのが分かる。

 

「お千代殿は必ず助けます。だが、辰蔵殿が無茶をすれば、かえってお千代殿を危険に晒すことになる。お分かりですな」

「……はい」

 

 辰蔵は唇を噛んで頷いた。

 

 弥平──偽の遺言状を書いた代筆屋。源一郎は本所の古狸たちに頼み、弥平を屋敷から誘い出してもらった。それを源一郎たちが保護したのだ。

 

 火盗改に捕まり怯えきった弥平は、自分の罪を軽くしてもらおうと、知っていることを全て吐いた。遺言状の偽造、喜兵衛殺害の手口、影鰐一味の構成員、この隠居所の存在──。

 

 全ては、この日のために下準備を続けてきた。

 

 その時──屋敷の中から、異様な音が聞こえてきた。最初は微かだった。だが、すぐに大きくなっていく。

 

「何だ……この音は……」

 

 新吾が怪訝な顔をした。源一郎は耳を澄ませた。聞こえてくるのは──叫び声だった。男たちの恐怖に引き攣った悲鳴。

 

「ひいいいっ……!」

「何だ……何が来るっ……!」

「助けてくれぇぇっ……!」

 

 同心たちが顔を見合わせた。

 

「中で何が起こっているのだ……」

「仲間割れか……?」

「いや、あの悲鳴は……何かに怯えているようだが……」

 

 困惑が広がる。同心たちには屋敷の中で起こっていることの正体が分からない。聞こえてくるのは、ただ男たちの悲鳴だけ。何に怯えているのか、なぜ恐慌状態に陥っているのか──。

 

「渡辺様……いったい、中で何が……」

「──さてな。人に毒を盛ったバチでも当たっているのだろうさ」

 

 権助の問いに源一郎は淡々と答えた。その言葉の真意は誰にも分からなかっただろう。

 

 ──狸たちが動いたか。

 

 本所に棲む古狸たち。源一郎が密かに協力を依頼していた、あやかしたちだ。彼らが宗右衛門と手下たちを化かしにかかっている。

 

 源一郎たち──屋敷の外にいる者には狸たちの化かしは見えない。だが、その効果は明らかだった。屋敷の中から聞こえてくる悲鳴が全てを物語っている。

 

「うわあああああああっ!」

「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……!」

 

 悲鳴は激しさを増していく。何人もの男たちが、同時に絶叫している。

 

「頃合いだ──突入する」

 

 源一郎は静かに言った。同心たちが緊張した面持ちで頷く。

 

「権助、裏手に回れ。新吾は俺と共に来い」

「承知」

 

 源一郎は腰の十手を引き抜き、屋敷の門に向かって歩き始めた。

 

 熊造が後に続き、辰蔵もその後ろについてくる。辰蔵の目は、真っ直ぐに屋敷を見据えていた。

 

 門には閂がかかっており、閉ざされていた。それに対し、源一郎は一歩下がり渾身の力を込めて蹴りを放った。轟音と共に門が砕け、内側へと倒れ込む。

 

 火盗改の手勢が屋敷の敷地内に雪崩れ込んでゆく。それと同時に──屋敷の中から庭に、一人の男が転がり出てきた。四つん這いで、泥にまみれ、恐怖に顔を引き攣らせた男。宗右衛門だった。

 

 源一郎は庭の中央に立ち、その男を厳しい眼で見下ろした。

 

「──火付盗賊改方である」

 

 凛とした声が夜の闇に響き──宗右衛門の顔が絶望に歪んだ。

 

 §

 

「伊勢屋番頭、宗右衛門──いや、盗賊『影鰐』。御用改めであるッ!神妙にお縄を頂戴せよッ」

 

 我に返った宗右衛門が泡を食ったように再び屋敷の中に逃げ出す。源一郎の号令と共に、火盗改の手勢がその後を追う形で屋敷に踏み込んだ。

 

 ──中は混乱の極みだった。

 

 座敷には男たちが折り重なるようにして倒れていた。床に這いつくばり、頭を抱え、念仏を唱えている者。壁に背を預け、虚ろな目で宙を見つめている者。失禁した者。泡を吹いて気を失っている者──。

 

 怪異は既に止んでいるようだった。だが、その爪痕は明らかだ。男たちは皆一様に何か恐ろしいものを見たのだろう。その目には、拭いきれない怯えの色が残っている。

 

 同心たちは、その光景に一瞬、足を止めた。

 

「な……何だこれは……」

「こいつら、いったい……」

 

 誰も答えられない。同心たちには男たちがこれほど恐慌状態に陥った理由が分からないのだ。屋敷の中に彼らを怯えさせるようなものは何も見えない。ただ、いつもと同じく夜の闇と、月明かりと、静寂があるだけ。

 

 だが──。

 

「来るなああっ!化け物めえぇぇぇ!」

 

 奥の部屋から叫び声が上がった。次の瞬間、一人の浪人が刀を振りかざして飛び出してきた。

 

 目は血走り、口からは涎が垂れている。怪異は止んでいるはずだが、この男の中ではまだ終わっていないのだろう。幻覚と現実の区別がついていない。

 

「斬ってやるぅうぅっ!」

 

 浪人は手当たり次第に刀を振り回しながら、廊下を駆けてくる。

 

「来るぞ、気をつけろッ」

 

 源一郎が注意を促し、新吾が咄嗟に刀を抜いて受け止める。金属がぶつかり合う音が響いた。

 

「くっ……!こいつ、正気じゃねえ……!」

 

 狂乱した浪人は、死に物狂いで刀を振るう。恐怖で我を失っているからこそ、力の加減がない。全力で、がむしゃらに斬りかかってくる。火盗改の同心たちを幻と認識しているのか、手当たり次第に刀を振り回す。

 

「取り押さえろ!」

 

 源一郎の指示で、同心たちが浪人に組みついた。三人がかりでようやく取り押さえ、刀を奪う。だが、それで終わりではなかった。

 

「うおおぉおぉおっ!」

 

 また別の浪人が、奥から飛び出してきた。こちらも目が据わり、狂乱状態にある。幻覚か現実か、区別がつかない様子で刀を振り回している。

 

「化け物どもめっ……!もはや、まやかしは効かぬぅっ!そこに、なおりやがれぇぇっ!」

「化け狸共がっ、人をなめるでないわああぁぁ!!」

 

 狂乱した者たちが次々と現れ、乱戦になった。

 

 源一郎は十手を構え、向かってくる浪人を迎え撃つ──。

 

 浪人が絶叫しながら斬りかかってくる。その太刀筋は滅茶苦茶だった。型も何もない、ただ力一杯振り回しているだけ。

 

 源一郎は冷静に太刀を躱し、懐に入り込むと十手で浪人の手首を打った。刀が落ちる。続けて、顎を十手の柄で打ち据える。浪人は膝から力が抜け、人形のように崩れ落ちた。

 

「死ねぇえぇぇえぇ!!」

 

 振り返ると、また別の者が向かってきていた。宗右衛門の手下の一人だろう。匕首を握り、半狂乱で突っ込んでくる。

 

 源一郎は身を翻して突き出された刃を避け、十手で手下の素首を横から打ち据えた。激痛に手下が悲鳴を上げる。すかさず足を払い、倒れたところを取り押さえた。

 

 熊造も奮戦していた。

 

「火事と喧嘩は江戸の華──こちとら鉄火場に慣れた江戸っ子でぇ!大人しくお縄につくってのが粋ってもんじゃねぇのかい!」

 

 手下の一人を組み伏せ、縄をかける。その隣では若い同心──新吾が別の手下と格闘していた。

 

「くそっ、暴れるんじゃねえ──って言ってんだろうがぁぁあぁ!!」

 

 屋敷のあちこちで、怒号と悲鳴が交錯する。──だが、戦いの趨勢は明らかだった。

 

 宗右衛門の手下たちは、元々戦う気力を失っていた。怪異に打ちのめされ、恐怖に震え、ともすれば火盗改の御用改めである。抵抗らしい抵抗もできないまま、次々と捕縛されていく。

 

 狂乱した浪人たちも、一人、また一人と取り押さえられていった。七人いた浪人のうち、三人は伸され、また三人は縄をかけられて転がされている。

 

「一人、見つかっておらんな」

「それに──お千代殿もまだです」

 

 源一郎が周囲を見回し──その時、背後から声がした。

 

「渡辺殿っ……私に行かせてください……!」

 

 辰蔵だった。源一郎は振り返り、辰蔵の目を見た。そこには必死の懇願があった。

 

「……任せました」

 

 源一郎は短く言った。

 

「ですが、無茶はなさいますな」

「はい!」

 

 辰蔵は奥へと駆けていった。その背中を見送りながら、源一郎は視線を巡らせた。

 

 ──さて、宗右衛門はどこだ。

 

 先ほどまで庭で這いつくばり、火盗改を目にすると一目散に逃げ出した男の姿は……未だ見つかっていなかった。

 

 

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