屋敷の門を出ると、夜の空気が肌に冷たかった。
辰蔵はお千代を抱えたまま、門前に用意された駕籠のところまで歩いた。同心の新吾が先に走って駕籠の戸を開けている。
「お千代殿、少し揺れますが、もう少しの辛抱です」
辰蔵はお千代をそっと駕籠に乗せた。お千代はまだぼんやりとした目をしていたが、辰蔵の手が離れる時、その指先を微かに握り返した。
「辰蔵さま……」
小さな声だった。辰蔵は一瞬だけ息を詰め、それから静かに手を離した。
「医者のところへ。店の方にも報せを、お願いします」
「承知しました」
新吾が駕籠の傍につき、担ぎ手に合図を送る。駕籠が持ち上がり、夜道を静かに遠ざかっていく。お千代の細い指の感触がまだ掌に残っていた。
──辰蔵は一人、その場に残った。
駕籠が夜の闇に溶けていくのを見送りながら、ようやく自分の手を見た。
震えていた。
まだ止まらない。刀を握っていた時には気づかなかった震えが、お千代を降ろした途端に戻ってきた。指の間に何か粘つくものが残っている気がした。血ではない。だが──人を斬った手だ。その違和感は消えない。
辰蔵はきつく拳を握り締めた。
「──辰蔵」
声がした。
聞き覚えのある──しかし、この場にいるはずのない声だった。
振り返ると、塀の脇に一人の男が立っていた。着流し姿。刀は差しているが、帯は緩く、どこか散歩の途中のような風情だ。笠を被り、腕を組んで塀に寄りかかっている。
「……ち、父上」
辰蔵は目を見開いた。辰蔵の父──長谷川平蔵が何食わぬ顔でそこにいた。
「なぜここに──」
「いや、なに。ただの夜の散歩だ。今日は月が綺麗だからな」
平蔵は笠の下から空を見上げた。白い月が高く輝いている。
「散歩で本所までは来ませんっ……!ここは──」
「知っておるよ。源一郎の捕り物の現場だろう」
平蔵はあっさりと言った。隠す気もないらしい。塀に寄りかかったまま辰蔵を見ている。飄々とし、その目は穏やかだが全てを見通すような深さがあった。
「……心配して、来てくださったのですか」
平蔵は答えなかった。ただ、辰蔵の顔をじっと見た。
月明かりの下、辰蔵の頬には切り傷がある。着物の袖口には返り血が滲んでいた。そして──震えを堪えて握り締めた拳。
平蔵はゆっくりと塀から背を離し、辰蔵の前に立った。
「──良い顔になったな」
辰蔵は虚を突かれた。
「……え」
「良い顔だと言った」
平蔵は静かに言った。
「何も知らぬ甘っちょろい者の顔ではなくなった。痛みを知り、耐えることを覚えた者の顔だ」
辰蔵は唇を噛んだ。鼻の奥が熱くなる。何か言おうとして……言葉が出なかった。人を斬った。その事実が体の中にあって、どう受け止めればいいのか、まだ分からない。
平蔵はそれ以上、何も聞かなかった。人を斬ったか、とも。怖かったか、とも。何も──。
代わりに、ふっと笑った。
「帰るぞ。腹が減ったろう。夜鳴き蕎麦でも食っていくか」
「……はい」
辰蔵は頷いた。声が掠れた。
二人は並んで歩き出した。平蔵が半歩先を行く。辰蔵がその後に続く。月明かりが二人の影を長く伸ばしていた。
しばらく無言で歩いた。夜風が頬に心地よい。虫の音が遠くから聞こえる。
「──父上」
「うん」
「……俺は、まだまだ弱いです」
「そうだな」
平蔵は振り返りもせずに言った。
「弱いから、震える。だが、震えながらも刀を抜いた。それでいい」
辰蔵は黙って歩いた。父の背中を見ながら。その背は広く、頼もしく──だが、いつか追い越さねばならぬものだと辰蔵は知っていた。
「辰蔵」
「はい」
「近いうちに見合いの話が来るかもしれん」
唐突だった。辰蔵は面食らった。
「……見合い、ですか?今その話をされるのですか」
「今だから言うのだ」
平蔵は歩きながら言った。
「お前も長谷川の嫡男だ。いつまでも独り身というわけにはいかん。先方は橋場神明の神官で、養女であるが良い娘がいると聞いておる」
辰蔵は言葉に詰まった。見合い。神官の養女。──それは辰蔵の身分に相応しい、当然の縁組みだ。
お千代の顔が一瞬だけ脳裏を過ぎった。駕籠に乗せた時の細い指の感触。だが──それは胸の奥に仕舞い込むと決めたものだ。
「……承知、しました」
辰蔵は静かに答えた。
平蔵はちらりと辰蔵を見た。一瞬だけ何か言いたげな色が目に浮かんだが、すぐに前を向いた。
「まあ、急ぐ話ではない。追々、少しばかり落ち着いてからでよい」
「はい」
二人はまた黙って歩いた。両国橋が近づいてくる。橋の上からは月に照らされた隅田川が銀色に光って見えた。
「──父上」
「うん」
「今夜、来てくださって……ありがとうございます」
平蔵は何も言わなかった。ただ、鼻から短く息を抜いた。それが照れ隠しであることを、辰蔵は知っていた。
隅田川の上を、涼しい風が吹き抜けていった。