鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第八十五話

 

 少し前の過去──回想から意識が戻る。

 

 縁側で酒を飲む源一郎の膝の脇に、菖蒲が座っている。霊猫は相変わらず菖蒲の腕の中で喉を鳴らしていた。

 

「もうすぐ来るよ」

 

 菖蒲がもう一度言った。その言葉の通り──それからすぐに木戸を叩き、表の門の向こうから声がした。

 

「夜分に失礼いたす。──神谷伝兵衛と申す。渡辺殿にお目通り願いたい」

 

 聞き覚えのある声。源一郎は腰を上げ門へと向かった。潜り戸の閂を抜いて覗くと大柄な影が立っている。神谷伝兵衛であった。

 

「此度はちゃんと正面から参りました。前回のように斬り合いになっては堪りませんからな」

 

 苦笑混じりの声。それを源一郎は鼻で笑った。

 

「……あちらが抜かなければ、斬り合いになどならなかった。こんな晩に何用か」

「約束通り手土産の美味い酒を持参いたした。これがあれば私は客。まさか追い返したりはしますまい?」

「勝手に約束していったのは、そっちだろう……」

 

 飄々とした様子で神谷は片手に通い徳利を掲げた。それに視線がつられる。

 

「──諸白と言えば伊丹ですが、これは灘の諸白でしてな。桂川先生のお屋敷から分けていただいたもので、中々の出来だとか」

 

 桂川甫周──。蘭方医の大家であり、将軍家の奥医師を務める名門桂川家の当主。前野良沢、杉田玄白らと共に『解体新書』の翻訳に携わり、西洋医学を日の本に紹介した人物として知られる。オランダ商館との繋がりも深く、西洋の最新の学問に通じた開明的な知識人だ。

 

 神谷の持つ薬の知識──それは甫周の門下として本草学を学んだのだと、毒の正体を見破った際に明かしていた。御庭番としての任務に薬の知識は不可欠。故に、将軍家侍医である甫周のもとで最新の学を求めたのだろう。

 

 呆れたように源一郎は暫し神谷を見つめ──それから、潜り戸を大きく開けた。

 

「上がるといい」

「では、有り難く」

 

 神谷を縁側に通した。おたかに声をかけ、もう一つ猪口が運ばれてくる。

 

 二人は並んで座り、夜の庭を眺めながら酒を酌み交わした。虫の音が静かに響いている。月が雲の切れ間から覗き、庭木の影を地面に落としていた。

 

「改めて、此度の伊勢屋の一件、見事な捕り物でした」

 

 そう神谷が切り出した。

 

「神谷殿の助力あってのことだ。毒の正体──阿芙蓉と曼荼羅華の特定がなければ、喜兵衛殿の死は詮議もされず片づけられていたかもしれん」

「私はほんの助言をしたまで。宗右衛門を捕らえたのは渡辺殿の執念によるものでしょう」

 

 神谷は猪口を傾けた。諸白の酒は澄み、さっぱりとした辛口で晩夏の夜風に合う味だった。暫し、二人は黙って味わう──酒の味と虫の音だけが夜を満たしている。

 

 やがて、神谷が再び口を開いた。その声色がこれまでとは変わっていた。飄々とした御庭番としての顔を潜め、どこか迷いを含んだような声に聞こえる。

 

「渡辺殿。実はもう一つ、話したいことがあるのだ」

 

 源一郎は猪口を置き、何事かと神谷の横顔を見る。月明かりに照らされたその表情には苦悩の色が滲んでいた。

 

「……これは御庭番としてではなく、私個人の願いになるのだが……」

「個人の願い」

 

 神谷は暫し黙った。それから縁側に座る、菖蒲の腕の中で丸くなっている霊猫の方を──気配を探るように、じっと見つめた。

 

「──渡辺殿は、そこにいる何かが見えているのだろう?」

 

 それは確認であって、問いではないようだった。確信しきれない曖昧さが残っている。

 

「……私も何かの気配は感じるのだ。ちょうど、子供の頃に感じていたような懐かしい気配。時折、姿無き鳴き声も──」

 

 源一郎は黙って聞いていた。菖蒲が腕の中の霊猫を撫でながら、小さく首を傾げている。

 

「実を申せば──神谷の家は猫憑きの家系でな。猫の霊が人に憑き、その家系に代々受け継がれる。西国では犬神や狐憑きが知られているが……我が一族に伝わるのは猫だ」

 

 猫憑き。源一郎は僅かに目を細めた。神谷の声には長い間秘めてきたものを吐き出すような重さがあった。

 

 ──憑き物筋。

 

 犬神、蛇憑き、狐憑き、管狐、飯綱──そして猫。憑き物はその家の血に宿り、代を重ねながら受け継がれる。憑かれた者の中には、常人を超える感覚を得る者もいる。だが──その一方で心身を蝕まれることもある。それはちょうど、お鈴のように──。

 

 源一郎は黙って聞いていた。

 

「特に猫憑きの障りは、女において重くなると言われていてな。何故かは分からぬが……ただ、古くからそう伝えられている」

 

 神谷の声が一段低くなる。

 

 猫憑きに限った話ではない。狐憑きも、犬神も、蛇憑きも同じだ。男にも障りは出るが、多くの場合、女は心身ともに深く侵される。幻が見え、幻聴が聞こえ、感情の波が激しくなり、ひどい時には自分が人なのか獣なのか分からなくなり、言動が乱れる。

 

 源一郎は前世の知識を辿った。憑依現象が女性に多いという記録は、洋の東西を問わず存在する。西洋でも悪魔憑きや魔女とされた者の多くは女性だった。精神医学的に見れば、ストレスや解離性障害、ヒステリーとの関連が論じられることもあるのだろう──だが、この世では妖怪は実在する。精神の病と霊の障りは、はっきりと区別できるものではないのかもしれない。

 

「周囲からは忌み嫌われ、婚姻も憚られる。猫憑きの家と知れれば、付き合いも絶たれる。我が一族は代々、そのことを隠して生きてまいった」

 

 神谷は自嘲するように笑った。

 

「そこにいる何かは、私に憑いているものなのだろう。他の人間には見えぬし──私とて、見えぬ。だが気配だけは分かるのだ」

 

 源一郎はちらりと菖蒲を見た。菖蒲は神谷の話を聞いているのかいないのか、霊猫の背を撫で続けている。霊猫は気持ちよさそうに目を細めていた。

 

「私は御庭番としての修行と、桂川先生のもとでの学問で、どうにか己の障りを律することができている。男であったことも幸いした。猫の気配は常に感じるが、それ以上のことは起こらぬ。だが──妹は」

 

 神谷の声に、痛みが滲んだ。

 

「妹のお絹は──障りが、まるで違う」

 

 神谷は暫し、言葉を選ぶように間を置いた。

 

「幼い頃から、見えると言う。人には見えぬものが──」

「……見えるとは」

「人ならざるもの。獣のようなもの。影だけのもの。火のようなもの──あやかし、と呼ぶべきものが、お絹の目には映る。そして、囁くような声。笑い声。泣き声。私には見えも聞こえもしないものが」

 

 神谷の拳が膝の上で握りしめられていた。

 

「月の強い晩には特に酷くなる。我を忘れ、猫のように鳴き、彷徨う。時には鳥獣を狩ることさえある。そうかと思えば、何日も口をきかなくなることも」

 

 源一郎は神谷の目を見た。そこにあるのは、冷徹な御庭番ではなかった。妹を救いたいと願う、一人の兄の切実な眼であった。

 

「本草学を学んだのも──元はと言えば、妹の病を薬で治せぬかと考えたのが始まりだった。桂川先生のもとで蘭方医学を学び、漢方も試し、様々な処方を妹に施した」

 

 神谷は唇を噛んだ。

 

「しかし──薬ではどうにもならなかった。漢方の処方は憑き物に効くとされるものも幾つかあるが、どれもまじない染みた論ばかりで、確たる根拠がない。蘭方にしても、こうした症状への対処はまだ乏しい。桂川先生のもとで学んだ西洋の考え方では、憑き物とは──霊が取り憑くのではなく、脳の機能に異常をきたし、本人が動物に支配されていると思い込む状態であると解釈する」

 

 源一郎は僅かに目を見開いた。この時代にそこまで踏み込んだことを言う者がいるとは。だが、神谷は桂川甫周の門下だ。蘭学に触れ、西洋の合理的な思考に馴染んでいる。開明的な考え方をするのは、むしろ自然なことかもしれなかった。

 

「蘭学の視点で考えれば、妹の症状は脳の病であり、適切な処方さえ見つかれば治る筈なのだ。だが──どれだけ学んでも、薬を変えても、妹の障りは収まらない」

 

 神谷は苦悩するように拳を握った。

 

「蘭学の理論で説明しきれないものがある。合理では辿り着けない何かが、妹の身に起きている。私の目には何一つ見えぬ。だが、妹には──はっきりと見え、聞こえている。それが妄想なのか真実なのか、私には確かめる術すらない。──それが悔しくてならない」

 

 秋の虫が鳴いている。月が雲に隠れ、庭がいっそう暗くなった。

 

「……渡辺殿の身辺を探る中で──信じがたいことだが、渡辺殿には神通力のようなものがあると、私は確信した」

 

 神谷が真っ直ぐに言った。

 

「先日、この屋敷で見た無数の目──渡辺殿はあれらと意思を通じることができる」

 

 源一郎は何も答えなかった。否定も肯定もしない。

 

「火盗改の鬼切与力。渡辺性の者は、かの頼光四天王──渡辺綱の末裔だと言う。その力が、もしお絹の憑き物をどうにかできるものであるならば──」

 

 神谷は縁側に手をつき、深く頭を下げた。

 

「どうか、妹に──会ってやってはいただけないだろうか」

 

 庭の虫の音だけが、暫しの間を埋めた。

 

 源一郎は猪口の酒を見つめていた。

 

 憑き物筋。前世の知識では、精神疾患や遺伝的な体質として片づけられるものかもしれない。だが、この世界では──妖怪は確かに実在する。座敷童も、狐も、河童も、見越入道も、霊猫も。源一郎はその目で見てきた。

 

 ──彼らが確かに存在していることを、源一郎は知っている。

 

 だが──会ったからといって、何ができるのか。源一郎は妖怪を視ることはできる。言葉を交わすこともできる。だが、憑き物を祓う術を持っているわけではない。お鈴のことでさえ、対処出来ていない。ここで安請け合いをして期待を持たせ、結局何もできなかったとなれば──それは残酷だ。

 

「……正直に申し上げる」

 

 源一郎は言った。

 

「人ならざる者が視える。それは否定しない。だが──憑き物を祓えるかどうかは分からない。会ったところで、俺に何ができるかも見当がつかない」

 

 神谷は顔を上げた。その目に失望の色はなかった。むしろ──源一郎が正直に答えたことに、安堵しているようにすら見えた。

 

「承知している。都合の良い奇跡を期待しているわけではないのだ。ただ──」

 

 神谷は言葉を選ぶように、少し間を置いた。

 

「お絹が見ているもの、聞いているもの──それが真実なのか、妄想なのか。それすら、私には分からぬ。蘭学に従えば脳の病。だが、もし──もし、お絹が見ているものが本当に在るものだとしたら。あの子は壊れているのではなく、ただ見えているだけなのだとしたら──」

 

 神谷の声が震えた。

 

「──それを確かめてくれる者がいるだけで、あの子にとっては救いになるのだ。自分がおかしいのだと、壊れているのだと──そう思い続けている妹に。同じ世を見ている者がいるのだと……それだけでも教えてやりたい」

 

 源一郎は暫く黙っていた。

 

 ──同じ世を見ている者。

 

 それは、源一郎自身がこの世界で抱えてきた孤独でもあった。誰にも言えぬもの。言ったところで、狂人扱いされるだけのもの。だが、源一郎には菖蒲がいて、お鈴がいて、おたかがいた。

 

「……妹御の障りがどのようなものか、もう少し詳しく聞いた上で会うべきか判断したい。中途半端な覚悟で会えば、かえって妹御を傷つけることにもなりかねん」

 

 神谷は深く頷いた。

 

「一つ訊いてもよいだろうか」

「何なりと」

「妹御も御庭番の任には就いておられるのか」

 

 神谷は目を伏せた。

 

「……あぁ。障りがありながらも、弓の腕と身の軽さを上役に買われ密偵として使われていた。少し前まで別の名を使い、任務に当たっていたが──」

「別の名」

「──卯木、と」

 

 源一郎の手が止まる。

 

 ──卯木。その名には覚えがあった。

 

 山王祭の一件で捕らえた弓使いの女。盗賊団に紛れていた訓練を受けた者。一言も口を利かず、鋭い目で源一郎を睨み続けていた。何か事情がある──そう直感して拷問にはかけなかったが……結局、何も話さぬまま上役と覚しき者が引き取って行った。

 

「卯木」

 

 源一郎は静かに呟いた。

 

「山王祭の一件で、俺が捕らえた女か」

「……そうだ」

「名前は覚えている。だが、神谷殿の妹御だったか……」

 

 神谷は目を伏せた。

 

「お絹は盗賊団への潜入の任から戻った後、障りが酷くなった。盗賊団の中で過ごした日々が刺激したのか──以前にも増して発作が頻繁になった。今は、ある場所で静かに暮らしているが……」

 

 源一郎は猪口に酒を注ぎ、一口含んだ。辛口の酒が喉を焼く。

 

「──分かった」

 

 静かな声だった。

 

「考えると言ったが──やはり、会おう。妹御の障りを視た上で、何ができるかを判断する。安請け合いはできないが、少なくとも会うことはできる」

 

 神谷は息を呑んだ。そして──深く、深く頭を下げた。

 

「──かたじけない。本当に、かたじけない」

 

 その姿は御庭番の密偵ではなく、妹の身を案じる兄そのものであった。その姿に感化され、源一郎は心動かされたのか──。

 

「堅苦しいのはよしてくれ。調子が狂う」

「……あぁ。では、そのように」

 

 神谷は顔を上げて──笑った。あの人懐っこい、武者修行の浪人の顔で。

 

§

 

 神谷が帰ったあと、源一郎は再び縁側に座った。

 

 夜の庭に虫の音が満ちている。月が雲の切れ間から覗き、庭木の影を地面に落としていた。

 

 菖蒲が隣に座っていた。霊猫はもういない。神谷と共に去ったのだろう。小さな座敷童は源一郎の横顔をじっと見つめている。

 

「また難しい顔してる」

「……まあ、色々とな」

 

 源一郎は苦笑した。

 

 弥勒信仰。阿芙蓉の流通。御師の正体。御庭番が動いているほどの、何か大きなもの。そして──猫憑きの女、お絹。卯木という仮の名で、山王祭の夜に捕らえたあの女。

 

 一つの事件が終わるたびに、霧が晴れ、また新たな謎の一端が見える。

 

「あの猫の人、悪い人じゃないよ。猫が懐いてる人は大体いい人」

 

 菖蒲が小さな声で言った。源一郎が笑う。

 

「そうか。菖蒲がそう言うなら、信じよう」

「うん。それに、あの猫、とっても気持ちよかった。ふわふわで」

 

 菖蒲は満足そうに頷くと、縁側に座り足をブラブラと揺らした。

 

 並んで夜の庭を眺める。

 

 ──いずれ、全ての霧が晴れる時が来る。

 

 だが、今はまだ、その時ではない。一つずつ、目の前にあるものを片付けていくだけだ。お鈴のこと、猫憑きの娘のこと、阿芙蓉のこと、御師の正体を暴くことも。

 

 源一郎は徳利に残った最後の酒を猪口に注ぎ、静かに飲み干した。

 

 秋の虫が静かに鳴いていた。

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