鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第八十八話

 

 勧請の儀から数日が過ぎた。

 

 渡辺家の庭は、目に見えて変わった。祠、鳥居、狐塚──敷地全体に張られた白狐の結界が、庭の空気そのものを変えていた。澄んだ清浄な気配。それは源一郎には明確に感じられるものだったが、お鈴も肌身で感じ取っていたらしい。

 

「気分はどうだ?」

「そうですね……祠ができてから……何と申しましょうか、心が軽くなったような心地になりました」

 

朝餉の膳を片付けながら、お鈴がぽつりと言った。

 

「それも吒枳尼真天の神通力なのだろうな。白狐殿も言っていただろう──お鈴の心が安定すれば、血に宿る狐も安定する、と」

「はい……確かに、夢見が少し穏やかになりました。狐が走る夢は見るのですが、以前のように自分が四つん這いで走ったりは……少なくなりました」

 

 お鈴は少し恥ずかしそうに目を伏せた。源一郎は頷いた。灰狐による躾はまだ始まってもいないが、環境が整っただけでも効果は出ている。

 

 庭の狐塚からは、時折灰狐の気配が感じられた。霊体である灰狐は普段は塚の中にいるが、朝晩の供物の時間になると姿を現し、源一郎やお鈴と言葉を交わす。お鈴にとって、灰狐との会話は少しずつ日常になりつつあった。

 

 菖蒲は相変わらず気紛れに姿を現し、時折縁側に座って狐塚を眺めたり、眺めなかったり。灰狐と直接話をしている様子は見ないが、互いの気配は感じ取っているのだろう。屋敷の中と敷地──それぞれの領分を守る者同士の、静かな共存だった。

 

 §

 

 お鈴の心が少しずつ安定し始め──それから数日後のことだった。

 

 源一郎が屋敷の書院で、先般の捕り物に関する報告書をまとめていると、表門の方から声がした。

 

「御免──渡辺源一郎殿の屋敷はこちらでよろしいか」

 

 低く、大きく、よく通る声だった。源一郎は筆を置き耳を澄ませた。

 

 普通であれば、どのような客であっても先ずは、おたかに対応を任せるところだ。だが、源一郎にはその声に聞き覚えがあった。腹の底から出るような響きに。

 

 源一郎は立ち上がると縁側を通って内玄関へと向かった。そこでは、おたかが応対に出ようとしているところだった。

 

「おたか、構わない。俺が出る」

「坊ちゃん?」

「声の主に心当たりがある」

 

 玄関口から外に出ると、一人の山伏が門前に立っていた。

 

 四十がらみの壮年の男。日に焼けた精悍な顔に、鋭い目。頭には頭巾を被り、鈴懸と呼ばれる白い法衣に結袈裟を掛けている。腰には引敷の毛皮を巻き、背には笈を負い、手には金剛杖。足元は足半草履。山中を歩き慣れた者特有の立ち姿だった。

 

 どこからどう見ても、修行を積んだ正真正銘の山伏である。背は五尺七、八寸──源一郎より僅かに低いが、肩幅は広く、腕も太い。日焼けした顔には深い皺が刻まれ、鼻は高く、顎には無精髭がある。目つきは鋭いが、笑うと人懐っこい皺が寄る人物であった。

 

 だが──源一郎の感覚は、その男の背後に山の気配を捉えていた。深い森の匂い。古い岩の霊気。天を衝く杉の梢を渡る風。人間のものとは異なる、桁違いの霊力が山伏の衣の下にぴたりと収められている。

 

「──久しいですね、お師匠」

 

 源一郎が言った。おたかがすぐ後ろに控えていたが……源一郎が幼い頃に山に預けられて修行の日々を送っていたことは、おたかも当然知っている。父、藤治郎に高尾山へ連れられ、そこで紹介されたのがこの山伏──俊源坊という大天狗だった。渡辺家に代々伝わる鬼切流の剣を鍛え上げてくれた存在。妖怪とも噂されるが、天狗とは山を治める一種の神でもある。

 

 山伏が身に着けた装束──その全てが使い込まれた本物であり、修行を重ねた行者の佇まいには一分の隙もない。人間の目には、しかし──この山伏が天狗だと見抜ける者はまずいないだろう。

 

「おう、源一郎。元気そうじゃないか」

 

 俊源坊──天狗は、にやりと笑った。

 

「何だ、少し見ないうちに、ずいぶんと男前になりおって。若い頃の藤治郎に似てきたな」

「お師匠こそ、お変わりなく」

「わっはっは。山の者は変わらんよ。──して、上がらせてもらえるか」

「もちろんです。おたか、足を洗う桶を」

「あ、はい。すぐに」

 

 おたかは少し戸惑いながらも、手早く桶に水を張って式台の脇に据えた。山を歩いてきた修験者の足は土埃にまみれていた。天狗は草履を脱ぎ、桶の水で足を洗い始めた。手ぬぐいで拭きながら、おたかに目を向ける。

 

「あんたが、おたか殿だな」

 

 おたかが目を瞬かせた。

 

「は、はい。そうですが」

「初めてお会いする。だが──藤治郎から聞いておった。母なき息子の世話をしてくれている女がいると。それがあんただろう」

 

 天狗の口調は気安かった。おたかは一瞬呆気に取られたが、すぐに表情を引き締めて頭を下げた。

 

「はい。乳母を務めておりました、おたかと申します」

「うむ。藤治郎が信頼しておった女だ。あの男は腕っ節はそこそこだが、人を見る目だけは確かだったからな──あんたのことも、随分と頼りにしておったよ」

 

 おたかの目にかすかな潤みが浮かんだ。父の名を、こうして語ってくれる者がいることが嬉しいのだろう。

 

「……私などを有り難いことです。坊ちゃんも、お師匠様のおかげで、立派な剣の遣い手になられました」

「はっはっは。あの坊主を鍛えるのには、ちと手を焼いた。なにしろ筋だけは良かったからな。渡辺の血にしても、常人離れしたものがある。おたか殿も、さぞかし苦労なされたろう」

 

 天狗は飄々と受け答えると、おたかが可笑しそうに笑った。──源一郎は内心で感心していた。この天狗は、人の社会に溶け込むことに慣れている。修験者として里を渡り歩く以上、人間との会話も役目のうちなのだろう。

 

 天狗はそれ以上は何も言わず、洗い終わった足を上げて式台に立った。

 

「さて、上がらせてもらうぞ」

「どうぞ、こちらへ」

 

 源一郎は天狗を座敷に通した。おたかが茶と干菓子を運んでくる。天狗は遠慮なく腰を下ろし、笈を下ろして背筋を伸ばした。

 

「ふぅ。相模を通り、武蔵の村々を回りながら、江戸まで十日ほど歩いた。流石に脚が疲れた」

「健脚で知られる天狗が疲れるものですか」

「人の身に化けている時は相応に疲れるものだ。知らなかったか」

 

 源一郎は笑った。天狗は茶を啜り、干菓子を一つ摘まむ。それから先程まで背負っていた笈の中を探った。

 

「これは土産だ」

 

 天狗が取り出したのは、油紙に丁寧に包まれた小さな包みだった。いくつかに分けられたそれを、畳の上に並べる。

 

「御岳山の麓で採れた薬草から調合した薬だ。こちらは腹の薬。胃の腑が荒れた時に煎じて飲め。こちらは傷薬。切り傷、擦り傷に塗ればたちどころに塞がる。そしてこちらは反鼻──精のつく薬だ。男にはどうしても必要な時があるだろう。焼酎にでも漬けておけば、よく薬効が染み出る」

「最後のは結構です」

「遠慮するな。若い時分に使わずしていつ使うというのだ」

 

 天狗はからからと笑った。豪放磊落というのは、まさにこのような男のことを言うのだろう。源一郎は苦笑しながら、薬の包みを有り難く受け取った。天狗の調合する薬は、山の薬草と天狗の法力が合わさったもので、市中の薬種問屋ではまず手に入らない貴重な代物だ。

 

「それと、配札の余りだが──お前さんの屋敷にも一枚置いておくか。高尾の護符だ」

「有り難く頂戴いたします」

 

 護符を受け取り、源一郎は改めて天狗を見た。

 

「お師匠。今度の江戸入りは霞の巡回ですか」

 

 霞──修験道における信仰の縄張りのことだ。檀那──信者のいる地域を巡回し、独占的に加持祈祷や札を配ったことから檀那場とも呼ばれていた。こうした霞の巡回により布施を集め、山伏達は修行のための資金としていたのだ。

 

「おう。相模から武蔵を配札やら祈祷しながら回る道中でな。江戸にもいくつか回る場所がある。日本橋から深川、本所辺りを重点的にな。お前に会いに来たのは、まあ──そのついでだ」

「ついでですか」

「ついでだ。だが、ついでにしては少し長居するかもしれん。古い馴染みの所にも顔を出さねばならんし、一月ほどは江戸におるつもりだ」

「一月──。であれば、離れに泊まっていかれてはいかがです。布団もありますし、風呂も使えます」

「──おぉ、なんと、そうか!いやいや、催促したみたいで悪いな!しかし、それは助かる!江戸の木賃宿は狭いし、臭いし、空気は悪いしで敵わんのだぁ。それに山の者には天井も低すぎる。礼に反鼻をもう一つつけてやろう」

 

 天狗は即座に頷いた。始めからそのつもりだったらしい──遠慮する気配は微塵もなかったのだった。

 

 §

 

 とりとめもなく話をしていると、ふと──天狗が茶碗を置いて庭の方を見やった。

 

 山伏の面がすっと消え、一瞬だけ人間のものではない気配が滲んだ。目つきが変わる。鋭く、深く──山そのもののような、泰然とした底知れぬ存在感。

 

「……稲荷を勧請したか」

「ええ。豊川稲荷の御分霊を。少し前に」

「御丁寧に、祠を中心に結界まで張ってあるな。吒枳尼真天の眷属の業か。なかなかの手練れだ。これでは悪意ある者は近づくこともできんだろう」

 

 天狗は感心したように頷いた。

 

「それに──狐塚の中に、もう一匹いるな」

「教育係の灰狐殿が住み着いています」

「教育係。何の教育だ?」

 

 源一郎は居住まいを正した。天狗には、お鈴の事情など知りようもない。

 

「実は──屋敷に、お鈴という家人がおりまして」

「うん」

「おたかの養女ということになっておりますが、実のところは父上の知り合いの遺した娘で、俺とは幼い頃から共に育った仲。今は俺の役目を手伝ってくれる密偵でもあり──家人でもあります」

 

 天狗は黙って聞いている。

 

「そのお鈴が──狐憑きの血筋でして」

 

 天狗の眉がわずかに動いた。

 

「ほう」

「はい。どうやら父方の血がそうだったらしく。お鈴自身にも俺ほどではありませんが、人ではないものを視る力があります。最近になって、その力が強くなり──夢見が悪く、感情が不安定になることが増えました」

 

 源一郎は言葉を選びながら続けた。

 

「縁あって豊川稲荷の白狐殿に相談したところ、お鈴の中に眠っている狐はまだ若く、躾もされていないと。放っておけば暴走する恐れもあるとのことでした。そこで、勧請と合わせて──血に宿る狐の躾を引き受けていただいた次第です」

「なるほど。狐塚にいる狐が、その躾役というわけか」

「はい。ただ──お鈴の中にいるモノが何なのかは、まだ分かっていないようで。外に出てきていないので、狐の正体が見えづらいのだそうです」

 

 天狗は腕を組んだ。

 

「憑き物筋の娘か。……難儀な話だな。だが、力づくで祓うよりは共に生きる方が理に適う。狐の使役は修験にも通じる業だ。真っ当な手を打ったと思うぞ」

「であれば、よいのですが……」

「して、その娘──今はこの屋敷にいるのか」

「はい。奥におります」

「後で顔を見させろ。中にいるモノの気配くらいは、この鼻で嗅げるだろうさ」

 

 天狗は鼻を一つ鳴らした。山の支配者たる天狗の嗅覚は、並の妖を遙かに凌ぐ。源一郎は静かに頷いた。

 

「──ところでな源一郎、この屋敷の飯時はいつだ」

「……もう少し待ってください。おたかに言って急ぎ支度させますから」

「頼むぞ。俺は江戸に至るにも峠を越えて険しい山道を歩いてきたのだ。腹が減って死にそうだ」

「天狗が空腹で死んでどうします。……わざわざ険しい山道を通らず、街道を歩けばいいでしょうに」

「俺は行者ぞ?それでは修行にならんだろう。それに、人の身に化けている時は、人の腹が減るのだ。知らなかったか!」

 

 カラカラと笑う。源一郎は呆れ半分に笑いながら、おたかを呼びに立ったのだった。

 

 

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