雨が、東京を濡らしていた。
午前二時三十七分。渋谷のデータセンター、地下三階。非常灯だけが点滅する薄暗い廊下を、俺――夜苅アキラ――は歩いていた。
靴音は立てない。呼吸は浅く。右手にはラップトップ。左手には、違法改造したスキャナー。
仕事だ。
今夜の依頼主は顔も名前も知らない。ただ、暗号通貨で前金を払い、こう言った。
『サーバールームB-07の物理ストレージから、ファイル名「EDEN_PROTOCOL」を抽出しろ。報酬は五百万』
内容は訊かない。訊いても意味がない。金が全てだ。
セキュリティカメラは既にループ映像に差し替えてある。警備員のローテーションも把握済み。あと四分で次の巡回が来る。それまでに、サーバールームに侵入し、データを抜き、消える。
簡単な仕事――のはずだった。
サーバールームのドアに手をかけた時、俺は違和感を覚えた。
静かすぎる。データセンターは、通常、機械の冷却ファンの音で満たされている。だが、今は何も聞こえない。
まるで、この空間だけが、世界から切り離されたように。ドアを開ける。サーバールームの中は、いつもと違っていた。
無数のサーバーラックが整然と並ぶ、無機質な空間。だが、その中央に、異物があった。
金色に、輝いていた。最初、それが何なのか理解できなかった。照明の誤作動か、ハロゲンランプの故障か。
だが、違う。それは、生きていた。
胴体と手足を覆う黄金の重鎧。腕から突き出た三本の爪。
騎士だ。いや、違う。
デジモンだ。
脳裏に、十年前の記憶が蘇る。デジタルワールド。そして、あの時見た、無数の異形の生物たち。
だが、今は懐かしむ暇などない。デジモンが、こちらを向いた。
黄金のヘルメットの奥から、聖なる光が俺を射抜く。
「――人間」
声は、威厳に満ちていた。だが、温かみはなかった。
「この領域は、イグドラシルの審判により、封鎖された」
イグドラシル?
「デジタルワールドからの逃亡者を匿う施設、およびその管理者は、すべて浄化対象とする」
待て。
「我が名はマグナモン。ロイヤルナイツが一員にして、奇跡の執行者」
黄金の籠手が、光を放ち始めた。
「お前は――」
走った。
背後で、爆発音。振り返る余裕はない。サーバーラックが、黄金の光に包まれて粉砕されていく。
ドアへ向かう。だが、マグナモンが俺の前に転移してきた。
「逃亡は無意味だ」
拳が振るわれる。俺は横に飛んだ。拳が床を打ち、コンクリートが砕け散る。
廊下へ逃げる。非常階段。だが、階段の下にマグナモンが先回りしていた。
「プラズマシュート」
両腕から、黄金の光線が放たれる。俺は身を翻し、階段を駆け上がった。地下二階。地下一階。
背後で、マグナモンの足音。重く、確実に、距離を詰めてくる。
地上階に出た。ロビー。だが、出口の扉は、黄金のバリアで封鎖されていた。
「終わりだ、人間」
マグナモンが、ロビーに降り立った。
「お前の罪は、イグドラシルの領域を侵したこと。その罪は、死をもって償われる」
俺は、壁を背にした。逃げ場がない。マグナモンが、拳を構えた。黄金の光が収束していく。
「シャイニングゴールドソーラーストーム」
光が、解き放たれた。俺は、死を覚悟した。
その瞬間――
世界が、闇に染まった。
光が、消えた。いや、「消された」。
マグナモンの拳から放たれた光が、途中で霧散していた。まるで、見えない何かに喰われたように。
「――何だ、これは……!?」
マグナモンの声に、初めて動揺が混じった。
そして、彼女が現れた。
闇の中から。
最初に見えたのは、翼だった。黒の巨大な翼。それは天使のものではなく、堕天使のものだった。
次に、肢体が見えた。豊満な身体を包む、黒いドレス。だが、それは優雅さよりも、危険さを纏っていた。
そして、顔。妖艶で、美しく、そして――どこか懐かしい雰囲気を感じた。
彼女は、俺とマグナモンの間に立った。
「ロイヤルナイツ」
彼女の声は、甘く、冷たかった。
「せっかく静かに隠れていたのに、邪魔してくれたわね」
マグナモンが、一歩後退した。
「貴様……堕天使型デジモン……!?」
「あら、分かるの?」
彼女は微笑んだ。
「私はリリスモン。イグドラシルへの反逆者」
彼女の右手の爪が、淡く輝いた。黄金の爪。
「あなたたちロイヤルナイツが正義で私たちを狩るなら――」
彼女は、マグナモンを見据えた。
「――私は悪徳で、あなたたちを腐敗させる」
マグナモンが、再び拳を構えた。
「邪悪なるデジモンよ! イグドラシルの名において、浄化する!」
黄金の光が、リリスモンに向かって放たれた。
だが、リリスモンは動じなかった。
彼女は、片手を軽く上げただけだった。
「ファントムペイン」
囁くような声。
マグナモンの光が、止まった。
いや、止まったのではない。マグナモンの全身が、見えない何かに侵食されていた。黄金の鎧が、黒く変色し、ひび割れていく。
「何を……した……!?」
マグナモンが、膝をついた。
「奇跡の力が……消えていく……!?」
「あなたの奇跡は、とても美しいわね」
リリスモンが、マグナモンの前に歩み寄った。
「でも、美徳には残酷な凌辱を。それが私のルール」
彼女の爪が、マグナモンの胸に触れた。
「ナザルネイル」
黄金の鎧が、腐食し始めた。
「貴様……ロイヤルナイツを……侮辱するか……!」
「侮辱? 違うわ」
リリスモンは微笑んだ。
「私は、ただ事実を示しているだけ。あなたたちの正義は、私の闇の前では無力だということを」
マグナモンが、最後の力を振り絞って立ち上がろうとした。
だが、リリスモンは指を鳴らした。
「消えなさい」
マグナモンの全身が、完全に崩壊した。鎧が砕け、データが霧散し、最後には何も残らなかった。
静寂。
ロビーに、再び冷房の音が戻ってきた。まるで、何事もなかったかのように。
リリスモンは、俺の方へ振り返った。
「怖い顔してる。私のこと、覚えてないの?」
俺は、ようやく口を開いた。
「……ブラックテイルモン」
彼女は首を振った。
「それは、昔の名前。今の私は――」
彼女は、俺に向かって歩いてきた。
「リリスモンよ。アキラ」
◇◇◇
データセンターから脱出した俺たちは、廃ビルの屋上にいた。
雨は止んでいた。東京の夜景が、眼下に広がっている。
リリスモンは、屋上の縁に座り、足を組んでいた。俺は、その隣で煙草を吸っていた。
沈黙が続く。
何から訊けばいいのか、分からなかった。
なぜ、今になって現れた? あの騎士は何だった? お前は、なぜそんな姿になった?
だが、俺が口を開く前に、リリスモンが先に話し始めた。
「十年前、あなたを人間世界に送り返した後、私はデジタルワールドに残った」
彼女の声は、静かだった。
「あなたがいなくなって、私は退屈だった。だから、強くなることにした」
「進化したのか」
「ええ。ブラックテイルモンから、レディデビモンへ。そして、リリスモンへ」
彼女は、夜空を見上げた。
「進化する度に、私は力を得た。でも、同時に何かを失った気がする」
「何を?」
リリスモンは、俺を見た。
「あなたと過ごした、あの三ヶ月の感覚」
俺は煙草を灰皿に押し付けた。
「……で、なんで今、俺の前に現れた」
「デジタルワールドが、終わりを迎えようとしているから」
リリスモンは立ち上がった。
「イグドラシル――デジタルワールドを管理する超越存在。そいつが、デジモンの数が増えすぎたと判断した。だから、大粛清を開始した」
「大粛清?」
「ロイヤルナイツ――さっきあなたを殺そうとしたデジモンたち。彼らは、イグドラシルの命令で、デジモンの大半を消去している」
リリスモンの瞳が、赤く光った。
「私は、その命令を拒否した。他にも、逃げ延びたデジモンが大勢いる。そして、多くがこの人間世界に逃げ込んだ」
「それで、ロイヤルナイツも追ってきた、と」
「ええ。そして、彼らは逃亡者の協力者も排除対象にしている」
リリスモンは、俺の肩に手を置いた。
「あなたは、偶然にも、彼らに目をつけられた。もし私が来なければ、あなたは今頃――」
「死んでた、か」
俺は、新しい煙草を取り出した。
「……礼を言うべきか?」
「いらないわ」
リリスモンは微笑んだ。
「私は、あなたに借りがある。十年前、あなたは私を使い捨ての道具じゃなくて、対等なパートナーとして扱ってくれた。だから、今度は私があなたを助ける番」
俺は煙草に火をつけた。
「で、これからどうする気だ」
「それを決めるのは、あなたよ、アキラ」
リリスモンは、俺の顔を覗き込んだ。
「私は、あなたのパートナー。あなたがロイヤルナイツと戦えと言えば戦う。逃げろと言えば逃げる。あなたが何もするなと言えば――」
彼女の爪が、俺の頬に軽く触れた。
「――それでも、私はあなたの側にいる」
俺は、彼女の目を見た。
十年前と同じ、鋭い瞳。
だが、その奥に、何か別のものが見えた気がした。
「……一つ、訊いていいか」
「何?」
「お前、昔と態度が違わないか」
リリスモンは、少し驚いた表情を見せた。
「……気づいた?」
「ああ。昔のお前は、もっと距離を取ってた。対等なパートナーとして、な」
俺は煙草を吸った。
「でも今のお前は、やけに俺に密着してる」
リリスモンは、数秒沈黙した。
それから、彼女は静かに笑った。
「……そうね。変わったわ」
彼女は、俺の首に腕を回した。
「十年前、私はブラックテイルモン――小さな猫の姿だった。あなたは子供で、私もあなたをパートナーとしか見ていなかった」
彼女の爪が、俺の頬に触れた。
「でも、レディデビモンに進化して、人間の女性の姿を得た時――私は初めて、あなたへの感情が変わっていたことに気づいた」
「変わった?」
「ええ。あなたを想うと、胸が苦しくなった。あなたがいない世界が、耐えられないほど退屈だった」
リリスモンの瞳が、俺を見つめる。
「そして、リリスモンに進化した今――私は、この感情が何なのか理解した」
彼女の唇が、俺の耳元に近づく。
「私は、あなたに執着している。堕天使が他者を誘惑するように、私はあなたに惹かれている。でも、あなたに対しては誘惑じゃなくて――」
彼女の吐息が、熱い。
「――独占欲」
彼女は、俺の首を強く抱きしめた。
「私は、あなた以外のテイマーなんて認めない。あなた以外の人間なんて、どうでもいい」
彼女の吐息が、熱い。
「だから、アキラ。もう一度、私のテイマーになって」
俺は、数秒考えた。
選択肢は、三つある。
一つ、断る。リリスモンを追い払い、今まで通りの生活に戻る。だが、それは難しいかもしれない。サーバールームの件で、ロイヤルナイツが俺を協力者と認識している可能性が高い。
二つ、受け入れる。リリスモンと組み、この大粛清とやらに巻き込まれる。危険だが、生き延びる可能性はある。
三つ――
俺は、リリスモンの腰に手を回した。
「――条件がある」
「言って」
「俺は世界を救うつもりはない。デジモンの未来にも、人類の平和にも、興味がない」
俺は、彼女の目を見た。
「俺が動くのは、俺の利益のためだけだ」
リリスモンは、にっこりと笑った。
「それでいいわ。私も、あなたの利益のために動く。あなたがロイヤルナイツを全滅させろと言えば、私は喜んでそうする。あなたがイグドラシルを破壊しろと言えば、私はその方法を考える」
彼女の爪が、俺の背中に這う。
「あなたが効率的だと思う方法で、私はあなたの刃になる」
俺は、彼女の背中を抱きしめた。