雨音は止まない。一夜明けた東京の空は湿り気を帯びたままだった。
六本木のマンション。三十二階の一室。
外からの微かな朝日とモニターの光が、暗い部屋を照らしていた。
俺――夜苅アキラ――は、キーボードを叩き続けていた。闇市場の掲示板、暗号化された通信アプリ、裏社会のニュースサイト。
情報の海を泳ぐ。
「……ねえ、まだ終わらないの?」
背後から、甘い声がした。
リリスモンだ。
彼女はソファに寝そべり、俺の背中を見つめていた。黒いドレスの裾が乱れ、白い太腿が露わになっている。
「仕事だ」
俺は振り返らずに答えた。
「デジモン関連の依頼が、思った以上に多い」
俺が「デジモン専門の情報屋」としての看板を掲げてから、まだ数時間。だが、既に問い合わせが殺到していた。
人間界に逃げ込んだデジモンたちは、混乱していた。隠れ家がない。食料がない。そして何より、ロイヤルナイツの影に怯えている。
「ふうん」
リリスモンは、退屈そうに欠伸をした。
「弱き者たちの悲鳴ね。心地いいけど、ずっと聞いてると飽きるわ」
彼女は立ち上がり、俺の椅子に背後から抱きついた。
豊かな胸の感触が、背中に押し付けられる。
「ねえ、アキラ。もっと刺激的なこと、しない?」
彼女の爪が、俺の胸元を這う。
「後にしてくれ。一件、気になる依頼がある」
俺は、画面上の一点を指差した。
差出人は不明。だが、内容は具体的だった。
『品川の港湾倉庫エリア、第3ブロック。そこに我々の同胞が囚われている。人間たちによって、解体されようとしている。助けてほしい』
「解体?」
リリスモンの目が、鋭くなった。
「人間がデジモンを?」
「ああ。どうやら、デジモンの身体パーツを高値で売買する組織があるらしい。生体兵器としての研究素材、あるいは単なるコレクションとして」
俺は、依頼を受け入れるボタンを押した。
「報酬は悪くない。それに――」
俺は立ち上がった。
「――お前のストレス解消にもなるだろう」
リリスモンは、にやりと笑った。妖艶で、残酷な笑み。
「あら、分かってるじゃない」
彼女は、俺の首に腕を回した。
「じゃあ、行きましょうか。私の可愛いアキラ」
「準備する。五分待て」
「待てない」
リリスモンは、俺の唇を奪った。
深く、激しい口づけ。
彼女の舌が、俺の理性を溶かそうとする。
数秒後、彼女は唇を離した。
「……続きは、帰ってからね」
彼女はウィンクした。
俺は、ジャケットを羽織った。
今日も、長い夜になりそうだ。
◇◇◇
品川埠頭。
潮の匂いと、錆びた鉄の匂いが混じり合う。
指定された倉庫は、静まり返っていた。だが、その静寂は偽りだ。
俺は、暗視スコープで倉庫を見下ろすクレーンの上にいた。リリスモンは、俺の隣で闇に溶け込んでいた。
「見張りは四人。全員、自動小銃で武装してる」
俺は小声で言った。
「人間にしては、重装備ね」
リリスモンは、見下すように言った。
「でも、私には無意味」
「突入するぞ。正面から堂々と」
「え?」
リリスモンは、意外そうな顔をした。
「隠密行動じゃないの?」
「必要ない。この組織には、恐怖を植え付ける必要がある。デジモンに手を出すとどうなるか、思い知らせてやる」
俺は、リリスモンを見た。
「派手にやれ。ただし、俺の合図があるまで殺すな」
リリスモンは、嬉しそうに目を細めた。
「了解。私の愛しい共犯者様」
俺たちは、クレーンから飛び降りた。
着地と同時に、見張りの一人が気づいた。
「な、なんだお前らは!?」
銃口がこちらに向けられる。
だが、遅い。
リリスモンが、一瞬で距離を詰めた。
「こんばんは」
彼女の爪が、男の銃を薙ぎ払った。鉄の塊が、飴細工のように切断される。
「ひっ……!?」
男が腰を抜かす。
他の三人も、慌てて発砲した。
乾いた銃声が響く。だが、弾丸はリリスモンの黒い翼に弾かれ、あるいは彼女の身体をすり抜けたかのように当たらなかった。
「無駄よ」
リリスモンは、指を鳴らした。
「ファントムペイン」
黒い霧が、男たちを包み込む。
「あ、ああああっ!!」
絶叫。
男たちの身体が、腐食していくわけではない。精神を、直接削られているのだ。
彼らは地面に転がり、泡を吹いて気絶した。
「雑魚ね」
リリスモンは、つまらなそうに男たちを跨いだ。
倉庫の扉が開く。中から、さらに十数人の武装した男たちが出てきた。
その中心に、リーダーらしき男がいた。白衣を着ている。
「な、何だこの化け物は!?」
男が叫ぶ。
俺は、一歩前に出た。
「化け物じゃない。俺のパートナーだ」
俺は、冷ややかに男を見た。
「お前たちが捕らえているデジモンを返してもらおう」
「ふざけるな! これは貴重なサンプルだ! このデータがあれば、次世代の兵器が――」
男の言葉は、最後まで続かなかった。
リリスモンが、男の目の前に移動していたからだ。
「……兵器?」
彼女の声は、氷のように冷たかった。
「デジモンを、ただのデータだと思ってるの?」
彼女の黄金の爪が、男の首筋に突きつけられる。
「ひっ……!」
「私たちは生きている。感情も、痛みも、憎しみもある」
リリスモンは、妖艶に微笑んだ。
「特に、憎しみはね」
彼女の爪が、男の皮膚を薄く切り裂く。血が滲む。
「や、やめろ! 金なら払う! いくらだ!?」
男が懇願する。
俺は、ため息をついた。
「金の問題じゃない」
俺は、リリスモンに合図した。
「やれ」
リリスモンは、歓喜の表情を浮かべた。
「ナザルネイル」
右手の爪が、黄金に輝く。
一閃。
男の白衣が、そして背後の鉄扉が、腐食し、崩れ落ちた。
男は、腰を抜かして失禁していた。殺されてはいない。ただ、全てのプライドと理性をへし折られただけだ。
倉庫の中が露わになる。
そこには、檻に入れられた数体のデジモンがいた。成長期のゴブリモンや、成熟期のヌメモン。どれも弱り切っていた。
リリスモンは、檻の前に行き、爪で鍵を破壊した。
「さあ、お行き」
デジモンたちは、怯えながらもリリスモンに感謝の視線を送り、逃げ出した。
リリスモンは、それを見送ると、俺の方へ戻ってきた。
「終わったわ」
「ああ」
俺は、震える白衣の男を見下ろした。
「次にデジモンに手を出したら、次は魂ごと腐らせる。組織のボスにそう伝えろ」
男は、何度も頷いた。
俺は背を向けた。
「帰るぞ」
リリスモンは、俺の腕に絡みついた。
「ねえ、アキラ」
「何だ」
「私、いい子だった?」
彼女は、上目遣いで俺を見た。
「あいつら、殺さなかったわよ。あなたが言った通り」
「……そうだな」
俺は、彼女の頭を撫でた。
「よく我慢した」
リリスモンは、嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ、ご褒美」
彼女の身体が、密着してくる。
「家に帰ったら、たーっぷり可愛がって?」
彼女の吐息が、俺の耳にかかる。
雨は、まだ降り続いていた。
だが、俺の隣にいるこの悪魔の体温だけは、熱いほどに鮮明だった。
俺たちは、闇の中に消えた。