〈西暦2066年2月22日 23時30分〉
雪が解け切ってまだ数日の寒い夜だった。分厚くどす黒い雲が夜空を覆い、星や月の明かりが遮られていても、コンクリートの大地に聳え立つビル群から明かりが消えることはない。もう30分もすれば日付が変わるというのに、社会人たちの
日本国の首都・東京。国土面積の1パーセントにも満たないこの都市は、国策が招いた一極集中により、今や日本人口の3分の1に当たる4000万人を擁する大都市と化している。既に容量超過であることは言うまでもない。居住用ビルには数畳の部屋がパズルのように組み込まれ、人々のプライベートな空間はその狭苦しい空間のみである。街路は列を作って歩く人々の流れが形成されるのが常だ。通勤・帰宅ラッシュの時間は特に酷い。まるでアリの行列のように。どんなに雪が降ろうとも風が強い日であろうとも、街は人の熱で常に蒸し暑いのだ。
しかしそれは昼間の話である。
夜。夜の東京から光が消えることは決してない。明かりの下にあるのは幸せな光景か、迷える者の寝室か、あるいは――大抵がそうであるように――身を粉にして働く労働者たちの姿か。ともかく、人間の休みない活動が、この大都市を常に光らせているのである。
そう、「光」。光あるところには影もあるのが常だ。東京にとっての影。それは……。
東京湾に面したコンクリート造りの倉庫。高い位置に開けられた窓からは薄明るい照明と怒声、そして悲鳴が漏れ出していた。
「んじゃゴラァ!」
大柄な男が金属バットを振り上げる。男の目の前には瘦せた若者が跪いていた。容赦なくバットは振り下ろされ、若者の腕が悲鳴を上げた。
「てめぇがヘマしたおかげで足が付いちまっただろがゴラァ!」
「どう責任とんじゃボケ」
「聞いてんのかこの野郎ォ!」
大柄な男を中心とした連中が口々に捲し立てる。彼らが羽織る黒いジャンパーには赤い筆文字系書体で『
人口が集中しすぎた東京は治安が急激に悪化。予てより犯罪数が増加していたが、2050年代後半からこれが急増した。ヤクザや暴力団の抗争、麻薬の売買、そして治安悪化に乗じた泥棒や強盗……。2060年以降、都内で殺人事件が起こらなかった日は一日として無い。欲望と暴力の街。それが夜の東京の側面である。
彼ら黒鴉会もヤクザ集団の一つだった。退役軍人や元警察官が多数所属するこのクランは、度重なる抗争で敵対勢力を壊滅させ、この港湾部を統一することに成功した。その武力は警察にも一目置かれており、迂闊に手出しできないとの噂である。つまりこの近辺で最強の組織であると言って過言ではない。
そんな黒鴉会の面々にタコ殴りにされている若者は、おそらく違法薬物の運搬か売買でヘマをやらかしたのだろう。彼の顔は腫れあがり、両腕は折られている。暴力組織の制裁はもはや拷問なのである。
「兄貴、コイツはもう片付けちまうしかないですね」
そう言ってナイフ片手に前に出た舎弟を、兄貴と呼ばれた一番大柄な男――
「まぁ焦るなよ。例のブツの実験台にピッタリだろが」
鷹山は倉庫の奥に置かれた箱を抱え、蓋を開放。収容されていた銃を取り出した。銃身の上に配置された弾倉、丸みを帯びたフレーム。それはまるでSF映画で使われる小道具の様だった。
「サブマシンガンFN P90。コイツはな、当たると身体ん中で弾が暴れまわるって評判だぜ。だがな、俺は自分の目で確かめないと信じられない性分なんだわさ」
彼が言わんとすることを悟った若い男は、絶望の表情を浮かべたまま、縛られた両足を尺取虫のように動かし、鷹山から距離を取ろうとする。しかし這いずり回っても逃げられるはずがない。ヤクザたちは彼をあざ笑うようにゆっくりと追いかける。遂に倉庫の壁に追いつめられてしまった。
鷹山は這いつくばる相手に向けて銃を構える。銃口が若い男の頭を向いた。
「運が悪かったな」
トリガーに指を掛ける。
「まぁ、黙って死ねや」
【ドッ‼‼】
発砲の音と同時に、倉庫に光が差し込んだ。入口の扉が解放されたのだ。黒鴉会のメンバーたちは何事かと振り返る。リンチにされていた彼も、銃弾が掠めた耳を押さえながらも、開かれたドアに目を遣った。
東京の夜景に照らされた何者かのシルエット。逆光の中で佇むその人影は、しかし、人間にしてはかなりの大柄だった。
「んだぁ、カチコミかゴラァ⁉」
ヤクザたちが一斉に拳銃を抜く。鷹山もサブマシンガンを侵入者に向けた。だが、5人に銃口を照準されたにも関わらず、相手は全く動かなかった。
夜の海風が倉庫に吹き込んだ。倉庫の中のヤクザたちと入口の人影は対峙を続けている。その時間は数十秒だったか数分だったか……あるいはほんの数秒だったか。
侵入者が不意に右手を動かした。銃を抜くのかと身構えるヤクザたちであったが、その右手が腰を弄ることはなく、ただ地面に水平に――ヤクザたちの方へ向けて伸ばされただけだった。
しびれを切らしたヤクザの一人が拳銃を構えたまま前に出る。
「何か言えやてめッ…」
次の瞬間、彼はまるでバランスを崩した人形のように、仰向けに倒れた。崩れ落ちたヤクザの頭から血が流れ出す。倉庫の汚い床と血液が交じり合い、赤黒い液体がじわじわと広がってゆく。死んだヤクザの眉間には、道端に落ちているような石がめり込んでいた。
ヤクザたちは悟った。侵入者はデコピンで石を飛ばし、人間の頭蓋骨を粉砕したのだ――。あり得ない。普通そんなことは出来やしない。しかしそうとしか考えられないではないか。底知れない恐怖に侵された鷹山は叫ぶ。
「お前ら何やってんだ、奴を蜂の巣にしちまえ!」
「お、おう!」
ヤクザたちは一斉に発砲した。発砲の炎が倉庫内を明滅させ、轟音が反響して気味の悪い交響曲を奏でる。しかし倉庫の入口に、既に敵の姿は無い。飛んだのだ。人間ではあり得ない跳躍力で、敵は倉庫内に張り巡らされた足場のどこかに着地したのだ。その証拠に鉄製の足場を踏みしめる音が聞こえてくる。
【ズダダダダ‼‼‼‼】
鷹山はサブマシンガンを掃射する。しかし当たった手応えは感じられなかった。他の面子も拳銃を撃ち込むが、暗闇を駆けまわる相手をそもそも捉えられていないようである。銃弾が壁で弾ける音、窓ガラスの割れる音、落下する薬莢の音が反響するのみだった。
「ち…畜生!」
「どこに居やがる⁉」
ヤクザたちは完全に敵を見失った。倉庫の真ん中で、4人は円陣形を組み、各々の方向に銃を向けて警戒する。歴戦の猛者であるはずの彼らではあるが、その顔は引きつっていた。
「兄貴、アイツは人じゃねぇ」
「何者でしょう⁉」
鷹山は何も答えなかった。ただ確かに倉庫の中にある気配を目で追いかけていた。姿が見えなくても感じる。こちらに向けられた視線と、異常なまでの殺意を。
彼の脳裏にあったのは先週発生した事件だった。彼ら黒鴉会と縄張りを隣接する敵対組織・蛇骨組の事務所が何者かに襲撃され、首領と幹部が全滅した大事件。事務所の壁はヤクザの血で真っ赤に染め上げられ、床は足の踏み場もないほどに臓器が散乱していたという。黒鴉会に負けずとも劣らない組織であった蛇骨組。そのアジトを十数分で壊滅させたのは……。
「コイツか」
奴らには天罰が下った、などと喜んでお祭り状態だった。天罰などではなかったのだ。今相手をしている謎の殺戮者だ。悪魔だ。蛇骨組も同じ目に遭ったのだと悟った。
【スッ……】
何かが落下してくる感覚。奴に違いない。何処だ。何処から降りてくる?
次の瞬間、円陣形を組んだ彼らのど真ん中に、「それ」が着地した。敵は高所から狙いを定めて飛び降り、見事に4人の死角に降り立ったのである!
ヤクザたちは即座に振り返り攻撃しようとするが、正体不明の敵の方が断然早い。拳銃を向けた者は、引き金を引くより先に、敵の張り手を受けて吹き飛んだ。距離にして10メートル、倉庫の壁に激突してずり落ちる。
「野郎ッ!」
別のヤクザがナイフを抜く。近距離戦では銃より刃物の方が有利だと考えたのだろう。加えて彼はこのクランで1番のナイフ使いだった。幾人もの敵をナイフで始末してきた。そんな彼の自信と狂気で研ぎ澄まされた刃が「それ」に迫る。
しかし刃が突き立てられるより一瞬先に、彼の右手首から先が「宙を舞った」。驚愕で見開いた彼の目に映ったのは、「それ」が鋭利な刃物――おそらく手の甲に固定する形で装備していた――を振り翳した姿だった。驚きの感情は、一瞬後には激痛に呑み込まれる。彼の悲鳴がこだました。「それ」は無様にへたばるナイフ使いをしばし見下ろした後、手の甲に装備した刃物で容赦なく突き殺した。
その隙にもう一人のヤクザが「それ」に拳銃を構えながら接近していた。しかしその行動すらも察知されていたのである。「それ」は接近してきたヤクザを振り向き様に殴り飛ばした。拳はヤクザの顔面を直撃し、頭蓋骨をも粉砕。内容物を噴出させながらそのヤクザも崩れ落ちた。
鷹山は何もすることができず、惨劇を傍観していた。手が震えて銃弾を再装填することができず、また恐怖は拳銃やナイフといった他の選択肢を忘れさせていたのである。
他3人を殺戮した「それ」が彼に迫ってきた。甲冑のようなものを着込み、ガスマスク状の覆面で顔を隠している。首筋の結合部から覗く素肌は、人間のそれとはとても思えなかった。ゆっくりとこちらを指差してくる手は、緑や黒っぽいようにも見え、人間のようではあるが、しかし獣のような力強さを感じざるを得ない。
鷹山は悟った。これは人間ではない。宇宙人か地底人か、あるいは悪魔か死神か……。
「それ」が手招きのような動作をする。鷹山には分った。コイツは「かかってこい」とでも言っているのだ。挑発しているのだ。彼は闘志を漲らせる。宇宙人だろうが悪魔だろうが知ったことではない。挑発されたのに戦いに乗らないなどという考えは微塵もなかった。それが彼の生き様であり、ヤクザとしての誇りだったのだから。
「うおぉぉぉ!」
彼は何とか装填を終えたサブマシンガンを構えた。意を決して、引き金に指を掛ける。
「くたばれぇぇぇ」
数発の発砲音に続き、男の悲鳴と何かが潰れる音が響き渡ったきり、倉庫は静かになった。
血溜まりを歩く「それ」。倉庫内には5人の死体が散乱し、こびり付いた返り血はさながら芸術作品のように、無機質な壁を彩っている。「それ」はその光景を見渡して満足したのか、倉庫の出入り口へと歩いてゆく。
「運ガ悪カッタナ……」
つづく