まもなく23時になるというのに、街から人が消える気配はなかった。昼間と変わらない量の人間が金曜の夜を謳歌していた。夜の闇という自然の摂理に楯突くように、窓が、電飾が、自動車や電車が、光を途絶えさせまいとしている。自然を資本としながら、自然からの脱却を図ろうとしている文明の意地。その風景が守屋にはそう見えてたまらなかった。
ここ、旧秋葉原再開発計画区は、都内の中でも特に入り組んだ街路の残る地区に分類される。今となっては少なくなってきた、旧世代の無秩序な開発の名残である。「再開発計画区」の名称とは裏腹に、計画が発表されては白紙、また新しい計画が始まるが中止、という繰り返しであった。秋葉原を慕う人間たちの全力での抗議……立退きへの全力抵抗やインターネット上での抵抗運動などの成果である。確かに不便ではあるが、しかし細い街路に根を張った独自文化というのがこの街の魅力なのだろう。彼はそう納得することにしていた。
正直、守屋は途方に暮れていた。威勢よく飛び出してきたのは良いものの、探している軍人には遭遇できそうもない。そもそもソイツがキラー事件の関係者なのかどうかすら不明。自らの衝動的な行動を後悔するが、しかし時すでに遅しである。アテも無いし、何の成果も得ずにもう一度ネットカフェに戻る気にもならないし、しかし人混みの中は居心地が悪いし。さぁどうしようかと思ったところで、着信があった。山岸からかと思い即座に携帯電話を取り出す。しかしメッセージは彼女からではなかった。
『守屋巡査部長殿へ 我々の管轄に人探しの案件が発生しました。19歳男性です。ご確認ください。 敷田』
敷田というのは守屋の部下である。今はたしか交番務めだったはずだ。
尾行の方で新しい動向があったのかと期待したのに。守屋は溜息を溢す。溜息は白い靄となって拡散した。
行方不明者というのは毎日のように発生する。申し訳ないが日常茶飯事であり特別な物ではない。家出や夜逃げ、もしくは何者かに拉致されるか……。いずれにせよ発見が困難であること、実際に見つかった例の方が少ないことは確かだ。残念だが今回の青年も同じだろう、と彼は思う。
『了解した。注視する。』
守屋はそう返信する。こっちも忙しいんだよ、その程度で連絡してくるな、と書いてやろうかと思ったが理性で我慢した。
コートのポケットに携帯をしまい、さぁどうしようか、と再び考え始めた、その時だった。彼の目はある一点に吸い寄せられた。
それは雑居ビルとアパートの間の、細い路地だった。二つのコンクリートの壁に挟まれた、暗く狭い、どこにでもありふれた隙間である。しかし守屋は何かを感じたのだ。彼の経験が、勘が叫んでいるのだ。ここに何かある。行け、と。
路地の入口から覗いてみる。幅は1メートルもないだろう。路地は建物に合わせて屈曲しているらしく、出口は見えない。故に暗い。目を凝らしてみるが、数メートル先に落ちている段ボール箱しか見えない。他はむき出しの配管やエアコンの室外機か。
「行くか」
守屋はそろりそろりと路地に足を踏み入れた。暗がりに消えていく彼を気に留める通行人は誰一人いない。
路地裏というより「隙間」と言った方が適切か。そう思わせられるほど、空間は狭かった。コンクリートに挟まれて、大通りの喧騒は虚構であったかのように聞こえなくなっていた。同時にその冷たさが肌を襲う。彼は自分の手足が震えていることに気が付いた。寒さ故か、それとも。
「怖いわけない……」
彼はそう自分に言い聞かせるが、その呟きすらも、分厚い壁に阻まれて籠った音になるだけである。鼓動が早くなる。
「くそぅ」
こうなれば仕方ない。守屋は腰のホルダーからピストルを取り出した。何かあっても丸腰よりはマシだろう。そう思わないととても耐えられそうになかったから。
落ちていた段ボール箱を蹴飛ばす。中には何も入っていないようだった。裏側に潜んでいたのであろうネズミが走り去っていっただけだった。配管を登って逃げていくネズミを一瞥し、さらに奥に進む。行く先は右に屈折していた。路地裏を形成するビルが大通りに対して角度を付けて建てられているからだろう。表側は居酒屋なのか、焼き鳥の臭いが充満していた。裏口の外に放置されているゴミ袋が音を立てた。守屋は反射的に銃を構えるが、風に吹かれたか、はたまたネズミかゴキブリだろうと思い直し、深く息を吐いた。
屈折箇所を抜けると行く手に光が見えた。路地は数十メートル先で大通りにぶつかって終わるようだ。すると今は中間地点あたりか、などと彼は少し安堵し、再び前進を始める。
2、3歩進んだところで、守屋は思わず足を止めた。10メートルほど先だろうか、室外機の影から「足」が覗いていたから。彼はぎょっとした。恐らく酔っ払いが迷い込んで寝ているだけだろうが、心臓に悪いことこの上ない。
「……仕方ない、起こしてやるか」
手ぶらで帰るのは嫌だった。ならせめて哀れな泥酔者を介抱してやるか。守屋はそう考え、足の飛び出しているところに向かった。近づいても起きる気配がない。
「おいアンタ、そんなとこで寝ちゃ風邪ひくぞ」
声を掛けても足は動かない。
「なぁおい」
室外機の影を覗き込む。同時に守屋は情けない悲鳴を上げた。
足の持ち主は、腰から上がなかった。胴体は腹部で切断され、その断面からは肉と
骨と内蔵の一部が確認できる。辺りが血の海だったことは言うまでもなく。守屋は唖然とした。まさか自分が第一発見者になってしまうなんて。それもキラー事件かもしれない。しかしそんな事実より、ショックの方が大きいのが本音だった。目の前に死体が現れるなんて。自分は死体に話しかけていたなんて。
もう一度遺体に目を遣り、彼は気が付いた。地面に血の跡がある。それも引きずったような……。犯人が上半身を持ち去った際のものかもしれない。遺体の血は固まっていない。つまり今は事件発生直後だ!
「まだ近くにいるのか」
守屋は拳銃を片手に走り出した。血の跡を追って。数メートル先で、路地が丁字型に分岐していた。血痕は右に入っていく路地に続いている。彼は迷わず右に進んだ。ゴミ箱を倒し、配管に肩をぶつけても走り続けた。赤い液体は確かに続いていた。
不意に目の前に壁が現れた。古いアパートの裏に突き当たったのである。行き止まりだ。しかし血痕はここまで続いている。妙だ、と守屋は思った。袋小路の中で、犯人と死体の上半身はどこに消えたのか。彼は辺りを見渡す。アパートの壁、雑居ビルの壁、何らかの店舗の壁……。どの面もとても人が上って超えられる高さではない。ましてや遺体を抱えてなど不可能だ。
彼はふと気が付いた。アパートの壁に血痕が付いていることに。まさか、と思った。しかし常識に反し、血痕は壁を登っていた。守屋は懐中電灯を取り出すと、血を辿って照らし出した。1階、2階、3階。まだ上まで続いてる。点々と続く血痕は、やはり死体を引きずって登ったということになるのだろうか。4階、そして屋上……。
「あっ」
屋上に人影があった。暗がりを行く影はやけに体格が良く……いや、何か甲冑や鎧のようなものを着ていたのかもしれない。奴は太い腕で何かを持ち上げ頭上に掲げる。目を凝らした守屋は思わず息を飲んだ。そいつが屋上のテレビアンテナにぶっ刺したもの。それは間違いなく、人間の上半身だった。彼は2つを悟った。1つは、あの上半身はは引き裂かれた下半身のものだということ。もう1つは、こんなことをするのはアイツしかいないということ。キラーだ。間違いなくキラーだ!
キラーが振り向いた。夜闇に紛れて輪郭しか見えなかったが、しかし、それでも彼は感じ取っていた。奴がこちらに物凄い殺意を向けていることに。悪寒が全身を駆け巡る。筋肉の小刻みな震えが止まらない。恐怖が脳を支配していた。理性を超えた生存本能が、彼の右手を——引き金に掛けた人差し指を——動かした。
パァン‼
一発発砲した後はもう意識していなかった。キラーに向けて6発、続けざまに撃ち込んだ。乾いた銃声とアスファルトに落下する薬莢の金属音がこだまする。それでも彼は引き金を引き続けた。弾倉が空回転してカチャカチャと音を立てる。不意に再装填を思い出し、守屋は一瞬視線を手元に落とし……次に向き直った時、影は消えていた。キラーはその姿を眩ませたのだ。
守屋は動けなかった。身体中の筋肉が硬直していた。まさに「蛇に睨まれた蛙」という言葉の通りに。彼は立ち尽くしていた。探照灯で照らされ、他の警察官に発見される瞬間まで。
つづく