学園都市キヴォトス、その中でも屈指の無法地帯であるブラックマーケットのどこかにある廃墟の庭から、細い煙が上がっていました。
空は暗くなってきて、少し前から空に浮かぶ光の円環が明るく見えています。煙は多少見えづらくなっていますが通りすがる人の何人かはそれに気づき、特に気にすることもなく通り過ぎていきました。
ブラックマーケットでは、というかキヴォトスでは火の手が上がるような事件はさほど珍しいことではなく、自分が被害に遭いさえしなければ文字通り対岸の火事です。とはいえ実際のところ煙の原因は物騒なものではなく、単にそこに住んでいる人が暖をとるために火を焚いているのでした。
火の上には小さな鍋がかけられていて、野菜くずや乾燥肉がことこと音を立てて煮込まれています。それを大きめのスプーンで時折かき混ぜながら、もそもそ乾燥パンをほおばる姿がありました。
火に照らされるその顔は精悍で、中性的な印象を与えます。短い黒髪や年の若さも相まって、ともすれば男の子かと勘違いしてしまいそうです。もっとも、頭の上に浮かぶ赤い花に×を重ねたようなヘイローが、キヴォトスの学生――つまりは女の子であることを示していました。
彼女は鍋の中をひと掬いして、ふー、ふー、と息を吹きかけてから口へ運びます。しばらく口の中で味わってから首をかしげましたが、そのまま二口、三口と続けて食べ始めました。
「ここでの生活も最後なんだから、ちょっといいもの食べたらいいのに」
少し音の高い、男の子のような声が聞こえました。男の子はどこにもいないし、ちょうど彼女がスプーンを加えていたタイミングだったので彼女の声でもありません。ですが、彼女はそれが何でもないように答えます。
「こういう節約が大事なんだよ。代わりに明日はご飯のおいしい宿に泊まるし、エルメスも腕のいい人に診てもらおう」
「本当? キノ、明日もこのメニューで行こうよ」
「いやだよ、何のために節約したか分からなくなる」
話しながら、キノと呼ばれた少女は先ほど食べていた乾燥パンをスープに浸しながら食べ始めました。さっきまでより頬が緩んでいます。
「じゃあせめて、明日は真っ先にメンテナンスしてもらおうよ。ここじゃ替えの部品もオイルもいやに高いから、ここで暮らしてる間一度もメンテナンスできてないんだよ? 人間で言えばお風呂に――」
「分かった、分かったから」
キノはいくつかのポーチやホルスターを吊るしてあるガンベルトに掛かった、革と金属でできたキーホルダーをきゅっと握りこみました。むぎゅ、と音がして、声は止まりました。なんと、キノと会話していたのはこの小さなキーホルダーなのでした。
「明日はまずここを出て、D.U.に向かおう。それで、エルメスをメンテナンスしてもらえるところと宿を探して、余った時間で観光と情報収集だ」
「おっけー」
いつのまにか乾燥パンを食べ終えたキノは、鍋を持ち上げて中身を一気にかきこみました。熱くないんでしょうか?
空にした鍋を持って屋内に入ると水でさっと洗い――廃墟ですが水道は通っていました――、よく拭いて逆さにして置いておきます。スプーンも水洗いして、鍋と一緒に置いておきました。
続けてキノはどこからか歯ブラシを取り出すと、丁寧に歯を磨き始めました。片手で数えるほどしかいない知り合いたちが口を揃えて言うほどに食事好きであるキノにとって、歯の健康は睡眠時間より重要です。元から彼女の睡眠時間はそこらの生徒よりずっと多いので、多少減ったところで何の問題もありませんが。
それが終わると、床にこれまたどこからか取り出した寝袋を広げました。上から手のひらを押し当てて寝心地を確かめ、ふむ、と一応納得したような表情を浮かべます。
あれこれと寝る前の準備を終えて再び庭の焚火の前に戻ってきたキノはさっと周りを見回しました。火が照らしている範囲では、忘れ物は特になさそうです。
「これで全部かな?」
「大丈夫、全部そろってるよ」
「よし」
エルメスに確認を取ると焚火を蹴り崩して、上から何度も足で踏みつけて火を消しました。あたりが真っ暗になり寝袋のある所へ戻る道筋も見えなくなりますが、キノは気にした様子もなく、ちゃんと見えているかのように歩いていき、寝袋に潜り込みました。
頭の横に腰から外したベルトを置くと、キノは目を閉じます。
「おやすみ」
すぐそばから聞こえた挨拶に、キノも同じ言葉を返しました。
「おやすみ」
地平線に日の光が見えるころに、キノは目を開けました。同時に頭の上のヘイローが音もなく灯ります。
「おはよう」
「…………」
挨拶をしながら寝袋から出てきたキノは反応のないエルメスにそれ以上何も言わず、ベルトを腰に巻くと寝袋をたたみ始めました。最終的にくるくると丸められて小さめのバウムクーヘンくらいになったそれを部屋の隅において、部屋の中央に背筋を伸ばして立ちます。
「…………」
腰の右側に吊るしたリヴォルバーに手を添え、しばらく佇んだかと思うと、さっと引き抜いて腰で構え、引き金を引きました。
ずどん。
銃声がして、壁に小さな穴が空きました。ちょうどその部屋の明かりをつけるスイッチがある場所でした。
「…………」
そのままキノは、リヴォルバーをホルスターに戻しては抜き撃ちを繰り返し、そのたびに部屋のドアノブや、壁の絵画に書かれた女性の顔面などに穴をあけていきました。何度か弾倉を交換してさらに抜き撃ちを繰り返し、最後に弾倉をもう一度交換してようやく手を止めました。
かと思うと今度は左手を腰の後ろに回し、小さな自動拳銃を取り出して撃ち始めました。ぱんぱんぱん、とさっきより軽い音で弾丸が飛び出していきます。こちらも引き金を引くたびに何かしらを破壊するので、だんだん部屋の中で抗争でも行われたのかと思うような景色に変わっていきました。キヴォトスの外の人が見たら、ここに血痕がないことを不思議に思うでしょう。
弾倉を三回交換したところで、キノは手を止めてホルスターに拳銃を戻しました。
「おはよう、エルメス」
「……もうちょっといい起こし方はなかった?」
キノは床に置いていた寝袋と前日に洗った食器を両手に持つと、廃墟を出ました。火が出たばかりのブラックマーケットに人通りは少なく、普段の騒がしさはまだ鳴りを潜めています。
「エルメス、よろしく」
「任せてー」
キノがエルメスに声をかけると、キノの腰にぶら下がった金属と革でできたストラップ、つまりエルメスがぴょんと空中に飛び出すと輝き始めました。次の瞬間、キノの目の前には一台のオフロードバイクがありました。すでに多くの荷物が載せられており、タイヤやヘッドライトなどについた汚れが、それなりに使い込まれていることを感じさせます。
そう、エルメスはただの喋るストラップではなく、バイクに変形して喋るストラップだったのです。どこかの学校の機械いじりが得意な誰かさんたちが見たらどう思うでしょうか。
キノはバイクになったエルメスから鞄を下ろすと食器を詰め込み、エルメスに載せなおします。その上から寝袋を慣れた手つきで括り付け、荷物を引っ張って固定されているか確認しました。
「キノ、準備いい?」
「大丈夫」
エルメスの急かすような声に答えて、キノはエルメスにまたがりました。キックスターターを蹴り下げるとエンジンがかかり、キノの小さな臀部を揺らし始めます。
「いやあ、こんな長距離を走るのはいつぶりかなあ!」
「最近はブラックマーケットの中でしか動いてなかったからね。燃料を使い切るくらい走ろうか」
キノは話しながらアクセルを開けて、一気に走りだしました。昨夜泊まっていた廃墟が一気に後ろへ流れて行って見えなくなりました。
「いいけど、本当に使い切っちゃだめだからね?」
「分かってるよ。けどD.U.でガソリンも補充するから、ここの低品質の奴は使っておいた方がいいと思う」
「それもそっか」
一気に大通りを駆け抜けて、一人と一台はブラックマーケットを抜け出します。早朝のエンジン音、近所迷惑などお構いなしです。
これから長く続いていくキノの旅が今、実に緩やかに、始まったのでした。
あとがき
-the Preface-
初投稿です。
本文の文字数をもっと増やしたかったのですが、出さなきゃ始まらないので出してみました。
後はあとがきを書きたかったので。
この一晩でキノは住居侵入罪、窃盗罪、器物損壊罪、建造物損壊罪を成立させています。
あくまでキヴォトスではなく日本の法律ですし、私は法律に詳しくはないですが。
まあそのくらいキヴォトスでは些細なことです。
次はどこにあとがきを書こうかしら。