第1話
気配を感じなかった。
今の今まで、一度もなかった経験だ。
ホワイトルームで叩き込まれた五感が、完全に無力化されている。誰かが――いや、何かがオレのすぐ隣にいる。
「ごめんなさい、隣いいかしら?」
凛とした声が、鼓膜を通さず直接脳に響いたような錯覚を覚えた。
背筋を冷たいものが駆け上がる。
この感覚は何だ? 警戒か、それとも――期待か。
オレは今日から高校生になろうとしている。
その舞台へと向かうバスの中で、友達出来たらいいなとか呑気に考えてもいた。
とはいえだ。
窓際の席から物思いに耽っていたとはいえ、油断していたつもりはない。新しい環境に心を躍らせていたとはいえ、自分の能力を過信してもいない。
だが、破られた。
それも、あまりにも容易く。
ホワイトルームでの日々は、オレの五感を常人の域を遥かに超えて研ぎ澄ませる程度には役立っていた。とある理由から最近はカリキュラムを受けていなかったが、それでも自分の能力に衰えを感じることはない。
なかったはずなんだけどな……
油断していようが慢心していようが、自分を脅かすような存在と出くわし、身震いしている自分に気づいた。
無表情以外作れないはずの顔が、わずかに綻んだ気がする。
この高揚感を、抑えきれない。
だが、まずは相手だ。相手を認識しなくては、出会いは始まらない。
思考に浸り虚ろになっていた目を正常に戻して、分析モードに移行する。
ゆっくりと顔を向ける。
視界に飛び込んできたのは――
(……マジか)
赤いブレザー。オレと同じ制服を纏った女子生徒だ。
特徴的なお団子頭に、リボンが揺れている。整った顔立ち。発育のいい胸元が、ブレザーの内側で主張していた。
だが、オレの視線はそこで止まらなかった。
自然と、下へ。
スカートから覗く太もも。黒いストッキング越しでも分かる、異常な筋肉の密度。まるで鋼鉄を絹で包んだような――いや、それ以上だ。
オレが今まで見てきた、どんな鍛え抜かれた肉体とも違う。
ホワイトルームで培われた人間の肉体は数多く見てきた。だが、この密度は異常だ。機能美という言葉がこれほど似合う脚を、オレは見たことがない。
端的に言うと、すごい筋肉をしていた。
分析するまでもなく分かる。コイツは只者ではない。
オレに声をかけてきたコイツの脚はオレよりも太く、まるで馬の脚のように――いや、鋼のように鍛え上げられた芸術的な脚線美をしていた。無駄な脂肪は一切なく、それでいて女性らしいラインは損なわれていない。
武器だ。
この脚は、間違いなく武器として完成されている。
出会いに期待していた矢先の、衝撃的な邂逅。
気配を感じることすらなく、カウンターを食らったような感覚。
この瞬間、オレは自分が今まで生きていた世界の狭さを痛感していた。
「オレは構わないぞ」
「そう。ありがとう」
あまりの衝撃に一瞬固まってしまったが、なんとか体面を整えて応対する。
どうやらこの無表情のおかげで、不快感を与えることもなかったらしい。
綺麗な所作で隣に座り、こちらに笑顔を向けてきた存在に、オレは早くも感動を覚えていた。
四月とは出会いが一番多い
らしい、というのはオレが知らなかっただけで、どうやら世間一般的には共通認識のようだ。
出会いなんてものは高校生ともなればすでに多くを経験しているはずで、もしかしたら人によっては大した意味を持たないのかもしれない。
だが、今ここに存在する綾小路清隆という高校生にとって、その出会いという言葉の意味は重かった。
なぜなら、その張本人であるオレが、その当たり前を今まで経験してこなかったからだ。
ホワイトルームという小さな箱庭で育ってきたオレにも、少なからず出会いはあったはずだが、正直どれも覚えていない。
だからこそ、外の世界へと飛び出してからこの瞬間まで――期待に胸を膨らませずにはいられなかった。
これから向かう高度育成高等学校という場所は、オレにいったいどんな出会いをもたらしてくれるのだろうと。
そして今、その答えの片鱗を掴んだ気がする。
◆ ◇ ◆
「席を譲ってあげようと思わないの?」
ハッと我に返る。
あれから数分は経過していただろう。
突然の出会いに感動し、彼女について分析をしている間に、どうやらバスも相当混雑してきたようだ。でなければ隣の彼女が、わざわざオレに断りを入れてまで座るわけもなかった。
「そこの君、お婆さんが困っているのが見えないの?」
OLと思わしき女性の声が、静かなバス内に一際響く。
注意されているのは優先席に堂々と座る金髪の男。オレ達と同じ制服を着ているが、学生とは思えない不遜な態度でOLを見てこう言い放った。
「クレイジーな質問だね、オフィスレディ。私が席を譲る理由は何処にもない」
「君が座っているのは優先席。席を譲るのは当たり前でしょ?」
「ナンセンスだねぇ。優先席はあくまで優先席であって、法的な義務はどこにも存在しない。それに本当に困っているお婆さんを助けたい気持ちがあるのなら、優先席かそうでないかなんて些細な問題だと思うのだがね?」
態度はどうかとも思うが、金髪の男の言葉には筋が通っている。
そのためOLは何も言えなくなってしまったようだ。
乗客たちの視線が泳ぐ。誰もが関わりたくないと言わんばかりに目を逸らし、車内には重苦しい沈黙が降りた。エンジンの低い唸りだけが、やけに大きく聞こえる。
これは気まずい空気だな。
あのOLは気が強そうなので悔しがっているだけだが、もしオレだったらこの空気はきっと耐えられない。恥ずかしさで死んでしまうだろう。
だからこの空気の中でもし動ける人間がいるとしたら、まったく空気が読めない馬鹿か、鋼のメンタルの持ち主かのどちらかに違いない。
「まったく……仕方のない男ね」
では隣に座った只者ではなさそうなコイツは、どういう人間だろうか――と思った瞬間だった。
呆れるような溜息とともに、コイツは捨て台詞を吐きながら颯爽と席を立ち上がり、そして何のためらいもなく騒動の渦中に踏み込んでいった。
その動きには一切の無駄がない。まるで戦場に赴く戦士のような、迷いのない足取りだった。
「あなた、ちょっといいかしら?」
「おやおや、今日は女難の相でも出ていたのかな。こんなにも愚かな女性達に絡まれるなんて思っていなかったよ。けれど、申し訳ないが社会貢献には全く興味が無いんだ」
「まだなにも言っていないわよ」
「そうかな? 言葉にはしていなくても、目が『つべこべ言わずに席を譲れ』と言ってるように私には見えるのだがね」
「あら、物分かりがいいのね。ちなみにだけど、素直に私の言うことを聞くつもりはある?」
「ハッハッハッ! 私を脅そうとは君は面白いガールだねぇ。だが、答えはノーだ。どれだけ言われようがそれは変わらないよ。先ほどオフィスレディにも言ったが、お婆さんを助けたい気持ちがあるのなら君が譲ればいい。私はなにか間違っているかい?」
「間違ってないけど格好悪いわね。あなたが譲らないなら、もちろん私が譲るつもりだけど……」
これには正直驚かされた。
すごい度胸だなと感心すらしたほどだ。
あの空気の中出ていくだけでも相当なものだが、唯我独尊を体現したような金髪の男子生徒とも互角にやりあっている。気の強そうなOLを簡単に言い負かした相手に、大したものだと思った。
まさか鋼のような脚をした女子高生が、鋼のようなメンタルまで持っているなんて想像もつかなかったが――話の流れ的には、アイツがお婆さんに席を譲ることになるんだろう。
男子生徒は何を言われても断固として席を譲らないだろうし、他に動こうとしてる人間も見られない。アイツ自身も席を譲ることを考慮しているようだし、それがこの場において一番平和的な解決にもなるはずだ。
オレはこの状況を分析し、そう結論付けた。
別に分析らしい分析もしていないが、この局面においてそれ以外の結果はまずないだろうと見ていた。
だが――
「だったらこういうのはどうかしら?」
もう決着はほぼついていたかのように思ったが、バス内にアイツの意味深な言葉が響いた。
アイツはその後、男子生徒になにやら耳打ちをしているようで、ものすごく悪い笑顔を浮かべていた。まるで獲物を前にした肉食獣のような、危険な微笑み。
逆に耳打ちされている男子生徒は、今までの余裕がどこへやら。徐々に表情が険しくなっていく。額に薄っすらと汗が滲んでいるようにも見えた。
そして遂には、やれやれといった感じで観念したように席を立ち上がろうとする男子生徒。
その異様な光景に、バス内の誰もが注目していた。
「気が変わったよ。さあ、お婆さん、遠慮なくここに座るといい」
「いいのかい? そんなに気をつかってくれなくても私は大丈夫なんだけどねぇ……」
「なに、人の親切はありがたく受け取っておくものだよ。私の気がまた変わらないうちにね」
「ごめんねぇ。ありがとね」
そしてバス内の誰もが、この結果に驚いていたことだろう。
ほかの結果がありえたとしても、あの男子生徒が意見を変えることだけはないだろうと思っていたはずだ。なにしろあの唯我独尊具合だ。テコでも動きそうになかった。
だからオレも結果を見誤ったんだろう。
ありえないだろうと決めつけ、選択肢から除外したのがダメだったらしい。
だが、それが面白くもあった。
これこそオレが求めていた、未知との出会いだ。
分かりきっている結果ほど、つまらないものはない。
あれだけ目立っておきながら、何事もなかったかのように隣に戻ってきた人物を再び分析する。間違いなく自分の判断を狂わせている原因は、コイツだ。
このバス内においてコイツの行動は、オレの想像を超えている。
一瞬、目が合った。
思わず笑みがこぼれたが、コイツからはただの無表情にしか映らないだろう。
まあ、なんにせよ。
今は凝り固まった表情筋に感謝だな。
「一体なにを言ったんだ? あの男が自分の意見を変えるなんて、よっぽどのことだと思うんだが」
なにしろ自分でも驚くほどの積極性だからな。
気持ちの高ぶりを抑えきれずに、自ら話しかけてしまった。表情筋が働いていたら、きっとニヤニヤしすぎて気持ち悪がられていたに違いない。
「意外ね。さっきまで一言も話さなかったから、あなたは他人に興味のない人だと思ってたわ」
「人と話すのが苦手なんだ。別に興味がないわけじゃない」
「ふーん……まあ、そういうことにしといてあげる」
コイツはオレを見つめながら微笑んでいる。
その笑顔が、少し意地悪い。
まるでオレの内心を見透かしているかのような、そんな目をしていた。
だからオレは心境を悟られないように、さっさと本題に入る。
「それで、何を言ったんだ?」
何を言ってあの唯我独尊な男を心変わりさせた?
そもそもお前は何者なんだ?
その異常に発達した脚の筋肉はどうやって作り上げた?
聞きたいことはたくさんあったが、まずは目の前の未知を解消したかった。
だがその答えを聞いた瞬間――
脱力した。
バスの天井を見上げる。蛍光灯の明滅が、やけに目に痛い。
「なにって……言うこと聞かないと蹴り殺すわよ、って言っただけよ?」
「……それは恐ろしいな」
まさかオレの知りたかった未知が、ただの脅迫だったとはな。
というかお前は、その脚で人を蹴り殺すことができるのか。
色々とツッコミどころはあったが、実際この脚なら人間の首をヘシ折るくらいできそうではある……怖いな。
あの男子生徒も頭は回るようだから、最悪の事態を想定して余計なトラブルは避けたか……可哀そうに。オレがフォローするのもなんだが、アイツはただ優先席に座っていただけの学生だ。ある意味今回の被害者ともいえる。
だからコイツが何故こんな強硬な手段をとって席を譲らせたのかも気になった。
「お前が席を譲っても良かったんじゃないか?」
「それをあなたが言うの? ただ見ていただけの人間のくせに」
「いや、オレが悪かった。ただ平和的な解決もあったんじゃないかと思っただけだ」
「まあ、それは否定しないわ。でも彼みたいに自分中心に世界が回っていると勘違いした男が、私は嫌いなの。だから少し痛い目を見せてやろうと思っただけよ」
「そうか……まさか、あいつが頑なに拒否したら本気で蹴るつもりだったわけじゃないよな?」
「さあ、どうかしら? ご想像にお任せするわ」
不安だ。
笑顔が怖いぞ。
よくよく見れば、オレと同じような目をしている。
コイツは間違いなく、いざとなれば手段を選ばない人間だ。ホワイトルームを抜け出して初めて出会った人間が警察沙汰になるのは勘弁願いたい。なまじ行動力もあるから本当に不安だが……
それにしても、コイツはどうやら思ったよりも女王様気質の持ち主のようだ。
つまり今回動いたのは、あの男子学生の態度が気にくわなかったから痛い目を見せたかったと。同時にお婆さんを助けるつもりも当然あったようだが、ただの善人というわけでもない。
正義感は強い。だが、それを実現する手段に容赦がない。
性格はキツめで、場を支配する能力もある。
身体能力は未知数だが、男子高校生の中でも上澄みであろうオレやあの男子学生と同等か、もしくはそれ以上。
学力などその他の能力は未知数。
現状コイツについて分かるのはこの程度か。
本当はもっと聞きたいことが山ほどあるし、コイツに興味も尽きないが、とりあえず一番知りたいことを聞くことにした。
相手の事を知りたければ、まずは自分からだったな。
「オレは綾小路清隆だ。よろしく頼む」
「急にどうしたの?」
「これから学校で顔を合わせることがあるかもしれないからな。お互い名前くらい知っていても損はないんじゃないか?」
「ふふ、それもそうね。私は
どうやら日本人じゃないらしい。留学生か。
だが、それだけじゃない。
この鍛え上げられた肉体。躊躇なく暴力を示唆する胆力。そして――オレの気配探知を無効化した技術。
コイツは一体、何者だ?
高度育成高等学校での生活が始まる前に、オレは既に予想外の出会いを果たしていた。
そしてその予感は――間違っていなかった。
オレの知りたいことは、山のように膨れ上がっていく。
これから始まる高校生活が、どれほど刺激的なものになるのか。
窓の外では、桜の花びらが風に舞っている。
新しい季節の始まりを告げるその光景を横目に、オレは隣に座る謎の少女を見つめた。
春麗。
その名に相応しい、麗しくも危険な存在。
期待に胸が高鳴るのを、オレは抑えることができなかった。