ようこそ格闘女王のいる教室へ   作:デュラ様

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第16話

 

 

 

 

 

 夜の森は、思った以上に暗かった。

 

 

 

「ねえ、本当にやるの? 肝試しなんて」

 

 

 

 私――軽井沢恵は、焚き火の明かりが届かなくなった森の入り口で、既に後悔し始めていた。

 

 頭上では木々の葉が風に揺れ、不気味な影を落としている。

 

 

 

「いいじゃん、せっかくの無人島なんだし!」

 

 

 

 佐藤さんたちがはしゃいでいる。無人島での過酷な試験も5日目ともなれば不思議と慣れてきて、夜になると暇を持て余すようになっていた。

 

 その結果がこれ。肝試し。正直、勘弁してほしいだけど……

 

 

 

「軽井沢さんは怖いのかい?」

 

 

 

 隣から聞こえた穏やかな声に、私は慌てて首を横に振った。

 

 

 

「べ、別に怖くないし。ただ面倒くさいだけ」

 

 

 

 平田洋介くん――私の"彼氏役"。

 

 優しくて、爽やかで、クラスの中心人物。今も私の手をそっと握ってくれている。

 

 嘘だ。本当は怖い。怖くてたまらない。

 

 暗闇は当然怖いけど、連想されて蘇る過去がそれ以上に怖い。

 

 常に強がらないと生きていけないほどに、トラウマが私を襲い続けている。

 

 だからここで「私だけ参加しない」なんて言えるわけがない。軽井沢恵は、クラスのトップカーストに君臨する女。怖いものなんてない強い女のはずなんだから。

 

 それに――みんなが肝試しに行っている間、ベースキャンプに1人で残るのも、それはそれで怖い。

 

 結局、どっちに転んでも怖いなら、みんなと一緒にいた方がマシ。

 

 

 

「大丈夫だよ、僕がついてるから」

 

 

 

 平田くんがいつもの優しい笑顔で言う。

 

 ありがとう、平田くん。

 

 でもね、アンタのその笑顔、全然怖さを和らげてくれないんだけど……

 

 森の中を歩き始めて、たぶん10分くらい。

 

 懐中電灯の明かりだけが頼りの中、私の足はもう完全に震えていた。

 

 

 

「ひ、平田くん……」

 

「うん? どうしたのかな」

 

「なんか……この森、おかしくない?」

 

 

 

 月明かりがほとんど届かない。木々が不気味にざわめいている。どこかで鳥――たぶん鳥――が奇妙な声で鳴いた。

 

 その声が闇の中に吸い込まれていく。

 

 

 

「そうかな。無人島だから、本土の森とは雰囲気が違うのかもしれないね」

 

 

 

 平田くんは相変わらず冷静だ。てゆーか怖いものがないのかも。

 

 付き合ってはいるけど、それは利害関係に基づいただけの形式的な姿で、彼の事なんて実際はほとんど知らない。

 

 その証拠に入学当初から付き合っているにも関わらず未だに名字呼びだ。

 

 でも今はそれどころじゃない。

 

 前を歩いていた佐藤さんたちの声が、少し小さくなった気がする。

 

 

 

「なあ……なんかここ、マジでやばくね?」

 

「は? ビビってんの?」

 

「ビビってねーし。ただ、なんつーか……」

 

 

 

 今度は後ろにいた池くんが言い淀む。

 

 分かる。分かるよ、その気持ち。

 

 最初はただの肝試しのはずだった。みんなではしゃいで、キャーキャー言って、怖がるフリをして――そういうノリだったはず。

 

 でも、今の森は違う。

 

 何かが、おかしい。

 

 

 

「ねえ、あれ……」

 

 

 

 松下さんが震える声で指差した先には――

 

 木の幹に、赤い何かが塗りたくられていた。

 

 ドロリとした質感。月明かりに照らされて、黒に近い赤色が不気味に光っている。

 

 

 

「な、なに、あれ……」

 

「ペンキ、だろ……たぶん……」

 

 

 

 誰かが言った。でも、誰も近づこうとしない。

 

 月明かりに照らされたそれは、どう見てもペンキには見えなかった。

 

 私は平田くんの手を、ほとんど握り潰すくらいの力で握っていた。

 

 

 

「軽井沢さん、大丈夫?」

 

「だ、大丈夫なわけないじゃん……」

 

 

 

 もう体裁なんて気にしていられない。私は平田くんの腕にしがみついていた。

 

 森の奥から、風とは違う音が聞こえる。枝が折れる音。何かが動く気配。

 

 背筋が凍る。

 

 

 

「みんな、一度戻ろうか」

 

 

 

 平田くんが提案する。

 

 そうだ。戻ろう。お願いだから戻ろうよ。

 

 

 

「えー、もうちょっとだけ――」

 

「平田!」

 

 

 

 その時、前方から須藤くんの声が響いた。

 

 

 

「ちょっと来てくれ! 佐倉が転んで足挫いたっぽい!」

 

「分かった。今行くよ」

 

 

 

 平田くんが私の手を離そうとする。

 

 

 

「ちょ、ちょっと待って!」

 

 

 

 私は咄嗟に平田くんの腕を掴んだ。

 

 

 

「行かないで。お願い」

 

「でも、佐倉さんが怪我を――」

 

「だ、誰か他の人が行けばいいじゃん! ねえ、お願いだから……」

 

 

 

 我ながら情けない声だった。でも、もう限界だった。この森で1人になるなんて、絶対に無理。

 

 

 

「軽井沢さん……」

 

 

 

 平田くんは困ったように笑う。

 

 

 

「大丈夫だよ。すぐ戻るから」

 

「やだ。行かないで」

 

「軽井沢さん、僕はクラスのみんなを――」

 

 

 

 分かってる。平田くんがそういう人間だってことくらいは分かってる。

 

 みんなのためなら、自分を犠牲にできる人。それが平田くんだ。だから私は彼を"彼氏役"に選んだ。

 

 でも、今だけは――

 

 

 

「すぐ戻るから。ここで待ってて」

 

 

 

 平田くんは優しく私の手を外すと、佐倉さんたちの方へ駆けていった。

 

 懐中電灯の明かりが遠ざかっていく。

 

 

 

「ま、待っ――」

 

 

 

 声が出なかった。

 

 周りを見れば、みんな前の方に行ってしまっていて、私は――

 

 1人だった。

 

 足が震える。

 

 いや、足だけじゃない。全身が震えている。

 

 置いてかれるぐらいならついていけば良かったのに、いつものように強がってるからこうなるんだ。

 

 

 

「へ、平田くん……」

 

 

 

 声が掠れる。

 

 ちょっとヤバいかも。今からでも追いかけなきゃ本気でまずいことになりそう。

 

 でも周囲は闇。月明かりがかろうじて木々の隙間から差し込んでいるだけ。

 

 闘が私を包み込む。まるで生き物のように、じわじわと。

 

 どこかで、また枝が折れる音がした。

 

 

 

「――っ!」

 

 

 

 私はその場にしゃがみ込んだ。立っていられなかった。

 

 怖い。怖い怖い怖い。

 

 昔から暗いところは苦手だった。それは今でも変わらない。

 

 誰かが潜んでいる気がして。誰かに見られている気がして。また誰かに虐められるような気がして。

 

 あの頃の記憶が蘇る。

 

 暗い部屋。冷たい床。誰も助けてくれなかった日々。

 

 

 

「平田くん……誰か……」

 

 

 

 声を出そうとしても、喉が震えてうまく出ない。

 

 その時――

 

 すぐ近くの茂みが、ガサッと揺れた。

 

 

 

「ひっ……!」

 

 

 

 悲鳴が出た。

 

 何? 何がいるの?

 

 目を凝らすが、暗くて何も見えない。

 

 ガサガサガサ。

 

 音が近づいてくる。

 

 

 

「い、いや……来ないで……」

 

 

 

 涙が込み上げてきた。もう無理。限界。誰か助けて――

 

 

 

「軽井沢」

 

 

 

 低い声が、頭上から降ってきた。

 

 

 

「――え?」

 

 

 

 顔を上げる。

 

 そこに立っていたのは――

 

 

 

「あ、綾小路くん……?」

 

 

 

 綾小路清隆。

 

 同じクラスの男子。いつも無表情で、何を考えているのか分からない、見た目は地味な男。

 

 でも春麗さんと一緒にいることが多いから、目立たないわけじゃない。

 

 月明かりに照らされたその顔は、相変わらず何の感情も読み取れない。

 

 

 

「どうしてここに……」

 

「通りかかっただけだ」

 

 

 

 抑揚のない声。感情の読めない目。

 

 普段なら、この男と会話することなんてない。だって何を考えてるのか分からなくて怖いから。

 

 でも――

 

 

 

「た、助けて……」

 

 

 

 私は自分でも驚くくらい素直に、そう言っていた。

 

 

 

「怖いの。お願い、1人にしないで……」

 

 

 

 みっともない姿だった。クラスのカーストトップに君臨する私が、地味男に助けを求めるなんて。

 

 でも、もうそんなこと気にしていられなかった。

 

 綾小路くんは少し黙った後、

 

 

 

「……分かった」

 

 

 

 と言って、手を差し出した。

 

 

 

「立てるか?」

 

 

 

 私は迷わずその手を掴んだ。

 

 綾小路くんの手は、思ったより大きかった。そして、温かい。

 

 

 

「み、みんなは……?」

 

「まだ奥で騒いでる。戻るか?」

 

「無理……もう無理。帰りたい……」

 

 

 

 情けないけど、本当に無理だった。これ以上この森にいたら、おかしくなる。

 

 

 

「分かった。ベースキャンプまで送る」

 

 

 

 綾小路くんはそれだけ言うと、私の手を引いて歩き始めた。

 

 その手を、私は必死で握りしめた。

 

 

 

「ご、ごめん……手、離さないで……お願い」

 

「ああ」

 

 

 

 綾小路くんは振り返りもせずに答える。

 

 無愛想な男だ。平田くんのような優しい言葉もかけてくれない。

 

 でも――

 

 なんでだろう。

 

 この手を握っていると、不思議と怖さが薄れていく。

 

 平田くんの手は優しかった。でも、どこか頼りなかった。本当に怖い時、この人は守ってくれるのだろうかという不安があった。

 

 綾小路くんの手は違う。

 

 何の根拠もないのに、この手を握っていれば大丈夫だと思えた。

 

 まるで岩のように揺るぎない安心感。

 

 

 

「……綾小路くん」

 

「なんだ」

 

「なんで……私のところに来たわけ?」

 

 

 

 肝試しの最中に1人でいる私を見つけて、わざわざ声をかける理由なんてないはずだ。

 

 

 

「偶然だ」

 

「……嘘」

 

「嘘じゃない」

 

 

 

 それ以上、綾小路くんは何も言わなかった。

 

 私も、それ以上聞かなかった。

 

 森を抜ける道すがら、綾小路くんは迷いなく歩いていた。

 

 まるで闇の中でも完全に見えているかのように。

 

 ベースキャンプに戻っても、私の手は綾小路くんを離さなかった。

 

 

 

「……もう安全だぞ」

 

「分かってるわよ……分かってる……けど……」

 

 

 

 焚き火の明かりが見える。テントが並んでいる。もう森の中じゃない。

 

 オレンジ色の炎が、闇を優しく照らしている。

 

 それでも、恐怖は簡単には消えてくれなかった。

 

 

 

「少し落ち着くまで、このままがいい……」

 

 

 

 我ながら図々しいお願いだと思った。

 

 でも私はそういう人間だ。誰かに守られないと生きていけない寄生虫だ。

 

 綾小路くんは何も言わず、焚き火の近くに腰を下ろした。私もその隣に座る。手は繋いだまま。

 

 炎の温かさが、少しずつ体に染み込んでくる。

 

 

 

「……ありがと」

 

 

 

 小さく呟いた。

 

 綾小路くんは相変わらず無表情だった。でも、私を突き放すことはしなかった。

 

 綾小路くんの手は、なんでか分からないけど安心する。

 

 大きくて、少しだけ硬くて――でも、不思議なくらい安心できる温かさ。

 

 私はいつの間にか、その温かさに身を委ねていた。

 

 瞼が重くなっていく。

 

 怖かった。本当に怖かった。

 

 でも、今は――大丈夫な気がする。

 

 

 

 

 

 ◆ ◇ ◆

 

 

 

 

 

 翌朝。

 

 目を開けると、太陽の光が眩しかった。

 

 テントの布地を通して、朝日が柔らかく差し込んでいる。

 

 

 

「……あれ」

 

 

 

 私はテントの中にいた。いつの間に移動したんだろう。

 

 隣を見ても、昨夜居たはずの綾小路くんの姿はなかった。

 

 

 

「……夢、じゃないよね」

 

 

 

 手のひらを見る。昨夜、ずっと握っていた手。

 

 あの温かさは、確かに本物だった。

 

 まだ指先に、その感触が残っている気がする。

 

 テントから出ると、クラスメイトたちが朝食を食べていた。

 

 朝の空気は澄んでいて、昨夜の恐怖が嘘のようだ。

 

 

 

「あ、軽井沢さん! 起きたー?」

 

 

 

 佐藤さんが手を振ってくる。

 

 

 

「昨日どこ行ったの? 気づいたらいなくなっててさー」

 

「あ、うん……ちょっと気分悪くなって、先に戻ったんだよね」

 

「えー、もったいない! あの後めっちゃ怖いことあったのに!」

 

「……そうなんだ」

 

 

 

 私は適当に相槌を打ちながら、視線で綾小路くんを探した。

 

 いた。

 

 少し離れた場所で、1人で朝食を食べている。今は隣に春麗さんはいなくて、相変わらずの無表情。

 

 目が合った――気がした。

 

 でも、綾小路くんはすぐに視線を外して、何事もなかったように食事を続けた。

 

 

 

「……なによ、あれ」

 

 

 

 昨夜のことなんて、なかったみたいな態度。

 

 でも――

 

 なぜか、笑みがこぼれた。

 

 

 

「何笑ってんの、軽井沢さん?」

 

「別に。なんでもない」

 

 

 

 あの無表情な男が、少しだけ男らしく見えた。

 

 それは多分――私だけの秘密。

 

 

 

 

 

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