「話は全て聞かせてもらったわ。綾小路君、私も混ぜてもらって構わないかしら」
応接室から出てきた綾小路君に、私は真っ直ぐに問いかけた。
茶柱先生から聞き出した話は、正直なところ予想以上に厄介なものだった。綾小路君の父親であり、私が最も嫌う類の権力者でもある男が、この学園に乗り込んできたらしい。
わざわざ息子を連れ戻しに来るなんて、ただの親子喧嘩で片付く話ではないでしょう。
「ああ、問題ない」
綾小路君は即答した。
その返事に、私は内心で小さく安堵の息をつく。彼がこういう時に素直に頼ってくれるようになったのは、この学園に来てからの成長の証だと思っている。以前の彼なら、きっと1人で全てを抱え込もうとしたはずだから。
私は綾小路君の瞳を見つめた。普段は感情を読み取らせない鉄壁の仮面。けれど今、その奥にわずかな揺らぎが見える。それは恐怖ではない。怒りでもない。
もっと複雑な何か――長い間抑え込んできた感情が、水面に浮かび上がろうとしているかのようだった。
「ありがとう。じゃあいつも通り、2人で悪者を懲らしめに行きましょうか」
私は微笑みながらそう告げた。子供を支配しようとする親を見逃すわけにはいかない。それが綾小路君の父親であろうと関係ない。むしろ彼を支配しようとする存在だからこそ、私が立ち向かうべき相手だ。
「そうだな。だが先に理事長に確認したいことがある。あの男は後回しだ」
さすがは綾小路君、冷静な判断ね。感情に流されず、まず状況を正確に把握しようとしている。
私たちのやり取りを、茶柱先生は沈黙したまま聞いていた。その表情には苦渋の色が滲んでいる。彼女にも立場というものがある。一介の教師が学園の闇に首を突っ込むには、あまりにもリスクが大きすぎるのでしょう。
「理事長室に急ぎます。先生はどうしますか?」
綾小路君が尋ねると、茶柱先生は重い口を開いた。
「……私は校長先生にお前を応接室に連れて行けと指示されただけだ。それ以上のことは知らない」
歯切れの悪い言葉。でも、それが彼女なりの精一杯の誠意だということは分かる。私に情報を漏らしてくれたのも、きっと相当な覚悟があってのことだったはず。
「そうですか。ならオレたちは勝手に動かせてもらいます」
「ああ、好きにするといい」
綾小路君が歩き出そうとした瞬間、私は咄嗟に彼の腕を掴んでいた。
「ちょっと待って、綾小路君」
彼が振り返る。無表情な顔。けれど私には分かる。この男の子は、いつだって最悪の事態を想定して動いている。
「その前に一つだけ確認させてちょうだい。もし退学届が受理されていたとしたら、あなたはどうするつもりなの?」
私は彼の目を真っ直ぐに見つめた。
これは重要な質問だ。もし彼が諦めるつもりなら、私は自分の立ち振る舞いを考え直さなければいけない。親子の問題に他人がどこまで口をはさむべきなのか。行き過ぎた正義は悪と何ら変わらないのだから。
「その時はその時考えるつもりだ」
曖昧な答え。でも、それは逃げの言葉ではないと直感で分かった。
綾小路君はそのまま階段を駆け上がっていく。私は一瞬戸惑ったものの、すぐにその背中を追った。彼の足取りには迷いがない。それだけで充分だった。
理事長室に到着すると、綾小路君は扉を三回ノックした。
「どうぞ」
中から穏やかな声が返ってくる。理事長先生は在席中のようね。
「失礼します」
重厚な木製の扉を開けると、そこには坂柳有栖さんの父親――坂柳成守理事長が大きなデスクの向こう側に座っていた。娘と同じ銀色の髪、知的な眼鏡。穏やかな表情を浮かべているが、その奥には鋭い洞察力が潜んでいるのが窺える。
「おや、綾小路清隆君。そして春麗君まで。急にどうしましたか」
彼は私たちの名前を正確に把握していた。さすがはこの学園の最高責任者といったところかしら。
「理事長先生に聞きたいことがあって来ました。すぐ終わるので時間をください」
「そうですか……分かりました。実は僕も君に用があってね。ちょうど良かった」
理事長先生の言葉に、私は内心で身構えた。用がある――それはつまり、退学の件について何らかの決定が下されているということなのでしょう。
「じゃあ単刀直入に聞きます。オレの退学届が受理されたというのは本当ですか?」
綾小路君は回りくどい駆け引きを一切せず、核心を突いた。その簡潔さは彼らしいと言えば彼らしい。
「退学届……ですか」
理事長先生はデスクの上にあった数枚の書類を手に取った。その書類に綾小路君の名前が印字されているのが見える。私の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
「ええ、確かに。君の父親である綾小路先生から、君を退学させて連れ戻すという要求と、それに伴う書類が提出されました。僕が直接受けたわけではありませんが、校長先生経由ですべて伝わっています」
やはり――彼の父親は本気だったのね。
私は拳を握りしめた。どんな手段を使っても息子を取り戻そうとする執念。そうする理由は分からないけど、少なくともまともな親のやることではない。
「しかし」
理事長先生の声のトーンが変わった。
「僕はそれを受理していません。この学校の生徒の身分は、生徒自身の意思と学校の定める手続きによってのみ決定されます。外部からのいかなる圧力も、この学校の教育方針を曲げることはできません」
毅然とした宣言。この人は――信頼できる。
私は綾小路君の横顔を窺った。彼の表情に変化はない。けれど、肩の力がわずかに抜けたように見える。
「綾小路先生はこの学校の運営に関わる、ある重大な取引を校長先生に持ちかけてきました。我々が君を連れ戻すことに同意すれば、学校にとって非常に有利な条件を提示すると。校長先生はその取引に応じたようですが、それは学校の総意ではありません」
なるほど。校長先生は買収されていたわけね。卑劣な手段だけれど、権力者なら当然使ってくる手でしょう。
理事長先生は書類をデスクに戻し、柔らかく微笑んでいる。
「だから君の退学はないので安心してくれて構わないよ」
「……分かりました」
綾小路君の声は平坦だった。でも私には分かる。彼は安心などしていない。そしてその勘は正しかった。
「清隆君」
理事長先生の声が、わずかに重みを帯びた。
「綾小路先生は僕が要求を飲むまで何度でも、そして様々な方法でこの学校に圧力をかけてくるだろう。先生にとって君を連れ戻すことは何よりも優先されるべき事項だからね」
彼の父親が諦めの悪い権力者だというのなら、理事長先生の言う通りなのでしょう。
その証拠に綾小路君も静かに頷いている。
今回は退学が阻止されただけで、問題の根本は何も解決していない――そう理解しているのでしょうね。
「そのプレッシャーにこの学校がどこまで耐えられるか。それが今後の焦点になるだろうね」
理事長先生は一度言葉を切り、そして力強く続けた。
「それでも僕は君を守るよ」
けれど、すぐに続きがあった。
「でも恐らく僕の力だけでは守り切れないだろう。君にも自分を守るための覚悟が必要だ」
理事長先生は綾小路君の目を真っ直ぐに見据えている。
「清隆君、君はどうする? 自分で選択してほしい」
私は息を呑んだ。
理事長先生は今、綾小路君に選択を迫っている。それは脅迫ではない。純粋な問いかけ。
「綾小路先生からの執拗なアプローチを避けるために、それから君の周りの人間が代償を支払う可能性を避けるために、君は自ら退学を求めることも出来る。そして自ら退学を選ぶというのなら、僕にそれを止めることは出来ない」
理事長先生の声は静かだけれど、その言葉の重さは計り知れない。
「それでも君はここに残るかい?」
自主退学という選択肢。
それは確かに、周囲への被害を最小限に抑える合理的な判断かもしれない。綾小路君がいる限り、彼の父親は何度でも仕掛けてくるでしょう。その度に学校は揺さぶられ、関係者は巻き込まれる。
でも――私はそんな結末を認めない。
綾小路君の横顔を見つめる。彼は何を考えているのだろうか。自分の青春と、周囲の安寧を天秤にかけているのだろうか。
沈黙が流れる。
窓の外で、風が木々を揺らす音が聞こえる。夕陽が少しずつ沈んでいき、部屋の中に長い影が伸びていく。
そして彼は、静かに、けれどはっきりと答えた。
「この学校に残ります」
その瞬間、私の胸に温かいものが広がっていく。
よかった。彼は逃げなかった。自分の意思で、この場所に留まることを選んでくれた。
私は満足げに頷いた。理事長先生も同じように頷いている。その表情には、どこか安堵の色が混じっているように見えた。
「よろしい。では、我々は君たちを守るために全力を尽くすと誓おう。綾小路先生の事は僕が何とかするから、君たちはもう帰りなさい」
理事長先生はそう言って、再びデスクの書類に目を落としている。
どうやら最初から彼の父親と話をつけるつもりだったらしいけど、綾小路君の意思も確認しておきたかったみたい。
それならもっと早く声をかけてあげて欲しかったけど、今は文句を言っても仕方ないわね。
いずれにしろここから先は任せた方が良さそう。私達がいてもかえって邪魔になるかもしれない。
そう判断した私たちは理事長室を後にした。
廊下に出ると、私はすぐに綾小路君の顔を覗き込んだ。
夕陽に染まった廊下は人気がなく、私たちの足音だけが静かに響いている。
「堂々として男らしい返事だったわね。格好良かったわよ」
「そうか? ただのわがままなんだけどな」
感情の込められていない声。
でも、わがままを言ってくれたことが私にとっては何よりも嬉しい。
「それでもよ。綾小路君に一番足りないものは自己主張なんだから」
「それは褒められてるんだか貶されてるんだかよく分からないな」
「もちろん褒めてるのよ」
私は少し離れたところから、改めて彼の顔を見つめた。
綾小路清隆。この学園で一番最初に出会った存在。他の生徒とは明らかに違っていて、その瞳には何も映っていないように見えた。でも彼の中には確かに人間らしい感情がある。それを表に出すことを必要としていないだけ。
そんな彼が、自分の意思でこの学園に残ることを選んだ。それがどれほど大きな一歩か、考えるまでもない。
「理事長も言っていたが、あの男の執念は生半可なものではないだろうな。学校に頼るだけではいずれ限界がきそうだ」
「息子のあなたが言うならそうなんでしょうね」
私は足を止め、彼に向き直った。
「でも、だからこそ私たちの出番があるんでしょう?」
私は自信を込めて微笑んだ。
自分の父親が失踪したあの日から、悪と戦う覚悟はとうに決めている。彼の父親である綾小路篤臣がどれほどの権力を持っていようと、私には関係ない。
「私たちはあなたのお父さんが何を仕掛けてこようと、何度でもそれを打ち砕く。あなたにはここで平穏な日常を最後まで過ごしてもらうわ」
だから自分の言葉に一切の迷いはない。
綾小路君が私を見つめ返した。その瞳に、かすかな光が宿った気がした。
「頼りにしている」
短い言葉。だけど、それで充分ね。
「ふふ、頼ってくれてありがとう。でも一番重要なのはあなたの覚悟よ、綾小路君」
「オレの覚悟?」
「そうよ。理事長先生も言っていたでしょ? 君にも自分を守るための覚悟が必要だって」
私は立ち止まり、彼の肩に手を置いた。
触れた肩は、見た目よりもずっとしっかりしている。
「私たちは覚悟を決めたあなたのわがままに付き合うと決めた。あそこで自主退学を選ぶようだったら、きっと止めることは出来なかったでしょうね。でもあなたがこの学校に残ると決めた以上、私たちは徹底的に抗うわ」
そして、私は彼の目を真っ直ぐに見つめて告げた。
「だから絶対に後悔しないでね」
強い決意を込めた言葉。綾小路君は静かに頷いている。
「ああ、後悔はしない」
その答えは、普段の彼らしくないほど力強い。
「やっぱり綾小路君らしくない返事ね。どうかしちゃったの?」
「どうもしてない。お前が覚悟を決めろって言うからそうしただけだ」
他愛のない会話。でも、こういう何気ないやり取りが、私たちの日常だ。
私は窓の外に目を向けた。
舞い散る雪が、世界を白く染め上げている。儚くも美しい景色。
けれど私は知っている。白というのは全てを塗りつぶす支配の色でもあることを。自由も、感情も、人間らしさも――全てを消し去る冷たい白。
しかしこの雪は違う。やがて溶けて、春の訪れを告げる。儚いからこそ美しい、自然の営み。
そして私の名前は春麗。春を麗しく彩る者。
この白い世界に、必ず春を連れてくる。
「悪者を懲らしめるのはこれからが本番よ、綾小路君」
「そうだな。少し手間取るかもしれないが、あの男は必ず終わらせる」
綾小路君の声には、父親に対する明確な敵意が込められていた。
彼が父親を悪と見定めた証拠だ。
なら遠慮はいらないわね。思う存分暴れてあげましょう。
私は彼と肩を並べて、窓の外の雪景色を見つめた。
この学園に嵐が来る。でも、嵐の後には必ず晴れ間が訪れる。
私たちが、その晴れ間を切り開いてみせる。