灼熱の太陽が照りつける夏休み。
豪華客船での試験を乗り越えた後の束の間の休日。
高度育成高等学校の生徒たちはしばしの自由を謳歌していたが、俺の心は決して穏やかではなかった。
Aクラスの坂柳有栖の忠実なしもべとして立ち振る舞う日々は、飽くなき野心を満たすには程遠いものだ。
だから俺は簡単に人を裏切る。
誰もいない、ケヤキモールの隅にある倉庫。
埃っぽい空気と、微かに錆びた金属の匂いが漂っている。
俺はここでアイツと接触する手筈になっていた。
「待たせたな、橋本」
約束の時間よりも少し遅れてやってきたのは綾小路清隆。
綾小路は遅れたことを詫びてはいるが、何の感情も読めない眼差しで俺を見つめていた。
入学早々にDクラスを束ね上げてBクラスに昇格し、その勢いのまま船上試験で1年全体を掌握しようとしていた女王さんの側近。
やはり、この男は底知れない。
「いいや、俺の方こそ女王さんの腹心であるお前とこんな場所で会うことになるとはな。姫さんにバレたら、何をされるか……」
綾小路からの問いにわざとらしく苦笑いしてみせる。
俺の癖みたいなもんだ。
自分の本性をひた隠して生きていくために、知らない間に身についていた術でもある。
「お前が動いたんだ。リスクは承知の上だろう」
そんな俺の軽薄さを見透かすかのように、綾小路の言葉はいつも通り簡潔で鋭い。
それでいて的確に核心を突いている。
これは小細工は通用しなさそうだな。
「まぁそうだな……じゃあ単刀直入に言うぜ。Aクラスの坂柳有栖という生徒はもちろん知ってるな?」
「ああ、まだ会ったことはないけどな」
「そうか……いや、無人島にも船上試験にも不参加だったからそうだろうとは思ってた。ってことは坂柳有栖についての情報をお前らは欲してるはずだ。もし俺が姫さんを裏切ると言ったら信じるか?」
そう切り出した俺に対し、綾小路は動じることなく、静かに応じた。
「信じないな。というかその必要がない」
「どういう意味だ?」
「最初からお前が坂柳に忠誠を誓っているとは思っていない。それにお前たちの情報なんてとっくに入手済みだ。お前が勝ち馬に乗る人間であることも。坂柳が理事長の娘で好戦的な人物であることも」
「おいおい、マジかよ。すでに筒抜けじゃねえか」
只者じゃないとは思っていたが、まだ入学してから4か月しか経ってないのにそこまで分かってんのかよ。
想像以上の強者だが、恐らく女王さんの力だな。
「ああ、お前が1番警戒している春麗は情報収集のスペシャリストだ。だからお前もわざわざ金魚の糞でしかないオレに近づいてきたんだろ?」
「いやぁ、怖いなお前ら。そこまで分かっちゃうかー」
「当たり前だ。お前が興味を持つのは常に勝者だ。そして今、お前は坂柳よりも春麗の方にその可能性を見出したんだろう」
「へぇ……本当になんでもお見通しなんだな」
見事に図星だった。
この男は俺の性格を完全に理解している。
もしかしたらうちのクラスにスパイでもいるのかもしれねえな。
この感じだと葛城と坂柳の間を行ったり来たりしてる状況はバレてそうだ。
そうじゃなきゃ俺個人の情報がこんなに筒抜けになるなんてあり得ない。
こりゃ姫さんのご機嫌伺ってる場合じゃねえわ。
「話が早くて助かる。俺はお前らが勝つための手駒になるぜ。その代わりに相応の恩恵を要求する」
「要求とはなんだ? オレ達はお前を必要としていないから、内容次第では今ここでお前を潰しても構わないが」
「オイオイ、そんなつれない事言うなって。別に難しい要求はしねえよ。お前らが船上試験で言ってた計画をそのまま進めてくれりゃいい」
「つまりお前はAクラスで卒業したいんだな?」
「そりゃそうだろ。だから今のまま突き進んでくれ。俺はお前らのおこぼれをもらうために協力してやるってだけの話さ」
「そのくらいなら問題ない。裏切るそぶりを見せたら容赦なく切り捨てるけどな」
「そうかい。じゃあせいぜい切り捨てられないように頑張るとするか。よろしく頼むぜ、綾小路」
「ああ」
その日から、俺と綾小路による全てを出し抜くための密約が始まった。
俺が坂柳や龍園まわりの情報を流し、綾小路がそれを利用する。
恐らく信頼されちゃいねえだろうが関係ない。
俺の目標はただ一つ、勝ち馬に乗ることだけだ。
◆ ◇ ◆
体育祭と生徒会の世代交代が終わり、学園はまた日常を取り戻した。
木々の葉が色づき始め、秋の気配が漂っている。
そんなある日、俺は南雲雅に呼び出されていた。
生徒会長に就任したばかりの男の呼び出しに多少の緊張を覚えたが、同時に「これだ」という直感も働いていた。
「よう、橋本。随分と大胆なことをするじゃねぇか。最近1年から妙な情報漏洩があったって話だ。まさか、お前が裏切ったなんて坂柳は思ってもねぇだろうな」
南雲は俺の目の前で、悠然と脚を組んだ。
その笑みは自信に満ちていて、どこか挑発的だ。
「何の話か分かりませんね」と俺は適当に誤魔化す。
「とぼけるなよ。お前が顔の広さを利用して色んな人間と接触してるのは知っている。こう見えて生徒会長なんで下級生の情報を集めるくらいわけはねえのさ」
心臓が跳ねる。
どいつもこいつもプライベートを無視して人のことを覗き見やがって。
この学校は気味が悪いな。
だが、そんな感情は顔に出さない。
「その様子だと何か企んでるみたいだな。面白い。俺がお前に最高の舞台を用意してやるよ」
南雲は悪魔的な笑みを浮かべ、俺に手を差し伸べた。
「俺のスパイになれ橋本。2年生側のスパイとして、1年生、特に春麗や坂柳の情報を根こそぎ俺に流し続けろ。そうすれば、お前は1年を卒業する頃には俺の右腕になっているだろう」
「つまり俺は確実に勝者になれるってことですね。先輩はこの学校の支配者ですから」
「そういう事だ。悪くない話だろ?」
これは願ってもないチャンスだ。
姫さんが綾小路の支配下にあることをコイツはまだ知らないらしい。
という事は集められる情報にも限界はあるという事。
恐らく目につく情報しか集められず、水面下で動いてることまでは分ってねえな。
その証拠に体育祭での因縁がある春麗は警戒しているが、綾小路は未だにノーマーク。
つまりそういった隠れた情報を提供してくれる人間をコイツは欲してるわけか。
だが俺に目を付けたのは何故だ?
顔の広さを買われたのか切り捨てやすさを買われたのかは知らねえが、どっちにしろ目をつけられたみてえだな。
それなら綾小路との関係を隠して南雲を利用してやるか。
両者の間で情報を操ることが出来れば、あの女王さんに認めてもらえるかもしれねえ。
「……分かりました。俺は南雲先輩の忠実な手駒となりましょう」
だから俺は南雲の手を握り、心の中で嘲笑った。
これで俺は、春麗、綾小路清隆、そして南雲雅、三者すべての動向を掌握する立場になったんだ。
◆ ◇ ◆
南雲からの指令は単純だった。
1年生に関する情報を集め、特に春麗の動向を常に報告しろと。
俺はすぐに実行に移したが、南雲に伝える情報はすべて捏造したものだった。
例えば「春麗は龍園のクラスを完全に掌握しきれておらず、2人の間で不穏な動きがあります」とか、「坂柳有栖は最近体調が優れず、重要な決断を俺に任せることが増えています」などのように、2年生側が優位に立てるような、あるいはコイツらが油断するような情報を嘘と真実を巧妙に織り交ぜて流した。
南雲は俺の報告を聞きながら興味深そうに頷いていた。
この表情から察するに、生徒会長でも知りえない情報を入手出来て満足してるんだろうな。
もしくは俺の実力を試しているのか。
まあどちらでも構わない。
真偽不明な情報を錯綜させることさえ出来れば、それで充分役目は果たされる。
俺の真の目的は、南雲雅という邪魔な存在を春麗と綾小路が料理しやすいように下ごしらえすることだ。
南雲が俺の嘘情報を考慮して戦略を立てるたび、それは綾小路が思い描く舞台の準備に知らず知らずのうちに組み込まれていく。
南雲から連絡を受けた後、俺は綾小路に連絡してすべてを報告した。
「南雲は俺の情報に踊らされてるのかどうか分からねえが、とりあえず1年生を軽視してる。次の特別試験でも堀北学と遊ぶんだとよ」
「そうか。お前の存在は南雲の過信を促すものとして有効かもな。今の働きを続けていれば春麗にも受け入れてもらえるだろう」
俺の本当の主はこの無表情な男であり、その奥にいる女王さんでもある。
1年生は全員での勝利を目指していて、Aクラスに関して言えばもう勝利は約束されてるようなもんだ。
いくら俺でもこんな安泰な状況で裏切って主の機嫌を損ねたくはない。
だから分かってるよ綾小路。
俺はお前の指示に忠実に従っておけばいいんだろ?
「今回の合宿でなにかやることはあるか?」
「南雲に関してはオレが直接探りを入れるから、お前は龍園を見張っててほしい」
「龍園? 今更アイツの動向なんか気にする必要あるのか?」
「もちろんある。今回の合宿でアイツが南雲に対してどんなアクションを取るのか知りたい」
へえ……またなんか悪そうなこと考えてる顔だな。
いや、いつも通りの無表情なんだが、俺にはそう見える。
俺は自分の勝利のためにしか動かないが、楽しい話は別に嫌いじゃないぜ。
「面白そうだな。具体的に聞かせてくれよ」
「もし龍園が南雲に与する動きを見せるようならアイツは確実に潰す」
「おいおい、相変わらず怖いことをサラッと言うなよ」
「そんなに怖いか? オレには全くそんなつもりはないんだが」
「ああ……いや、分からねえなら別にいい。それで、南雲と龍園が敵対するならどうするつもりだ?」
「とりあえず合宿中は龍園を抑えて欲しい」
ん? コイツにしては中途半端な物言いだな。
まあ警戒されてるからだろうが、少し探りを入れてみるか。
「とりあえずね……じゃあ合宿後はどうするんだ?」
「別にどうもしない。お前も今まで通り二重スパイに専念してくれればいい。ただし合宿中は龍園を徹底的にマークしてくれ」
「そうかい。俺にその役が務まるかわからねえが、出来るだけ頑張ってみるさ」
「ああ、助かる。オレも余裕があれば助力する」
「はいよ。んで? 本当の所はどうなんだ?」
「どういう意味だ?」
「お前がわざわざ監視させるくらいなんだから、龍園をなにかしらの作戦に利用するつもりなんだろ?」
「いや、さっき言った通りどうもしない。龍園にはいつも通り龍園らしくいてもらうだけだ。それだけで囮としての役割は充分に果たせるからな」
「囮ねぇ。本命は別にあるって事か」
「当たり前だ。仮に龍園が南雲に喧嘩を売ったとしても、アイツじゃ南雲には勝てないだろう」
「まあそうだろうな」
「だから龍園はただのオプションだ。オレ達は坂柳を利用して南雲を引きずり下ろす。それも別に本命というわけではなくて1つのオプションに過ぎないが、今はここまでしか話せない」
「ハハッ……そりゃまた面白そうな話だ。これ以上は聞きたくもねえ」
やっぱヤバすぎるわコイツ。
思わず乾いた笑いがこぼれちまったじゃねえか。
コイツと仲良くやってる女王さんは一体どんな化け物なんだよ。
窓の外では、雪がちらちらと舞い始めていた。
林間学校の冷たい空気が、俺の背筋を凍らせる。
いやぁ……
姫さんを早々に見限っておいて良かったぁ。