ことは数日前に遡る。
「……歌姫先輩?」
その名前を口にした瞬間、空気が一瞬、妙な形で歪んだ。
悟は露骨に顔を逸らし、傑は何かを思い出したように遠い目をし、硝子は小さく息を吐いた。
三者三様だが、共通しているのは――嫌な予感だ。
「知らないなら、知らないままでいた方がいい」
硝子が淡々と言う。
「人生、知らなくていいこともあるから」
「いや、そこまで言われると逆に気になるんだが…?」
「気にした時点で負けだよ相澤」
悟が肩をすくめる。
「歌姫はさ、簡単に言うと――」
「被害者」
硝子が被せた。
「ちょっと!?」
「……語弊がありすぎないかい、硝子?」
傑が苦笑しながらフォローを入れるが、硝子は視線を動かそうともせず、事実のみを淡々と積み上げていく。
俺は、一連のやり取りを傍観しながら、改めて隣に座る悟を見た。
「お前ら、本当に裏で何をしたんだ?術式を使わずに人をそこまで追い詰める方法があるなら、参考までに聞いておきたいんだが?」
「心外だなぁ! 私はいつだって、後輩として『普通』にコミュニケーションを取ろうとしてただけだよ?」
「その『普通』のコミュニケーションが特級汚物級なんだよお前ら…
特に悟は。自覚ないのか…?終わってんな?」
「消太、さっきから普通にひどくない?」
この時点で、すでに嫌な予感は確信に変わっていた。関われば、間違いなく疲弊する。
だが、おそらくもう逃げられない。
そして進級祝いの当日…
任務帰りで体の節々が痛む中、指定された居酒屋の暖簾を潜ろうとして、俺は思わず足を止めた。
(……騒がしいな?)
遠くからでも分かる。防音対策がされているはずの建物から、壁を突き抜けてくるような圧力。これは祝いの席の盛り上がりではない。
特級や一級案件の現場に足を踏み入れる直前のような、ヒリついた気配だ。 意を決して重い扉を開けた瞬間、鼓膜を直接突き刺すような音が炸裂した。
扉を開けた瞬間、耳を刺すような声が飛び込んできた。
「だから!! 私は!! 悪くないって言ってるでしょ!!!」
鋭く、張りつめた声。
感情が限界まで研ぎ澄まされている。
合掌。心の中で、まだ名前しか知らない先輩に最大限の同情を捧げる。ご愁傷様です…。
「あ、いたいた」
悟が呑気に手を振る。
「歌姫、お疲れーって言えば?」
「その呼び方やめなさい!!!」
怒声と同時に、空気が震えた。
――なるほど。
これが、歌姫先輩か。
長い黒髪に、苛立ちを隠そうともしない目。
こちらを一瞥し、すぐに興味を失ったように視線を逸らす。
「……誰?」
「転校生です」
硝子が簡潔に答える。
「あ、どうも。相澤消太です」
「ふーん……」
歌姫先輩は一瞬だけ俺を観察し、すぐ悟へと向き直った。先輩の瞳の奥に憐憫の情が見えた気がしたのは気のせいだろうか。
「で? あんたたち、反省は?」
「え、なにを?」
「そこからか!!」
怒鳴り声と同時に、机が叩かれる。
硝子が俺の袖を引いた。
「相澤、立ち位置そこ」
「?」
「五条から三歩以上離れると被害が減る」
忠告としては十分すぎるほどだった。
宴会は、開始して十分も経たずに完全に崩壊した。
悟が余計な一言を言い、
傑がそれを笑顔で補強し、
歌姫先輩がキレる。
「なんであんたたちは!! 人の神経を逆撫でする才能だけは無駄に一級なの!?」
「才能って言われると照れるな。おい傑、今の褒め言葉だよな?」
「ああ、最高の賛辞じゃないかな。歌姫先輩なりの」
「黙れクソガキ!!!」
拳が悟の頭に落ちる。
無下限があるせいであたらない。抹消しとけば良かったな。
「今の攻撃、危なかったなー。警察呼ぶ?」
「ノーカン!! 今のはノーカンよ!!」
「何がノーカンなんだよ。物理法則に謝ってから言えよ」
硝子はその喧騒をBGMに、冷めた枝豆を淡々と口に運んでいる。
「……相変わらずだね」
「……毎回、こうなのか?」
「毎回。むしろ今日は大人しい方」
いつの間にか俺の隣に移動していた傑が、声を潜めて告げた。
「慣れた方がいいよ、消太。二年生になったら、きっとこういう『理不尽』の単位が、これまでの数倍に増えるから」
「……その予言、全くもって慰めになってないんだが」 「だろうね。でも、これが私たちの日常だよ」
硝子はその様子を眺めながら、静かに酒を飲んでいる。
それでも――不思議と嫌じゃなかった。
怒鳴り声も、騒音も、どこか人の温度があった。
最終的に、悟と傑は歌姫先輩に追い出され、
硝子は「お疲れさまでーす」と軽く手を振り、
俺はなぜか歌姫先輩に呼び止められた。
「……あんた」
「はい」
「大変ね」
唐突だった。彼女の瞳には、先ほどまでの激情は消え、深い、深い同情の色が浮かんでいた。
「この三人と一緒にいるなら」
「……そうですね」
歌姫先輩は一瞬、困ったように笑う。
「でも、その顔なら大丈夫か」
「?」
「逃げない顔してる」
俺は少し考えてから答えた。
「……もう、慣れました」
その言葉に、歌姫先輩は一瞬だけ目を丸くし、
それから静かに息を吐いた。
「そっか。じゃあ、あんたももうこっち側ね」
あんまり嬉しくはない…むしろ不名誉とも言えるそれが、妙にしっくりきた。
こうして、進級祝いは終わった。
正直、騒がしくて、理不尽で、面倒で、疲れる。
それでも――
この場所で、この三人と過ごす時間は、確実に俺の中に根を張っていた。
高専二年目。
もうそろそろだ。
この先、もっと酷い任務も、もっと壊れる瞬間も待っているだろう。
それでも俺は、この場所を離れるつもりはなかった。
……悪くない。
そう思ってしまった自分を、もう否定する気はなかった。
やばい…久しぶりなのに文字数が少ないような…