一部捏造などがありますが、ご容赦ください。
カロス地方ミアレシティ。花のように文化と光が広がるこの街は、ファッションも芸術も、昔から世界トップクラスであることを誇りとしている。
街の中心にそびえるタワーから放射線状に伸びる石畳の通りの数々には店が並び、客の気を引き入店させる為に洗練されたデザインの看板を掲げている。清掃の行き届いた通りを人々やポケモンが通り、時折タクシーが車道を駆ける。
そんな街だから、食文化もまた世界トップなのだ。各通りには飲食店が複数立ち並び、通りがかった人の鼻と胃を擽る香りをふわりと放つ。日当たりの良いテラスでサンドイッチを食べられるカフェ、スタイリッシュな客が出入りする高級レストラン、時には雰囲気自体にコンセプトを持った独特な店…。特にここ数年は街全体の再開発の話が賑わっているのも関係しているのか、カロス地方以外の料理を提供する店も増えてきている。
しかしどれほど店が増えて、味わえる食事が豊かになったとしても…自分の求める味が、その中に必ずあるとは限らない。
そのことをサビ組トップであるカラスバが痛感したのは、ある会合の翌日のことだった。
「………」
アウトローの朝は早い。実際早い。目を覚まして洗顔や髭剃りを済ませ、さっさと台所に向かう。ちなみに今日の朝は普段より更に少ない。カラスバは自炊は出来ても楽しいとは思わないタイプだった。片手で割った殻から飛び出た市販の卵2つをフライパンに乗せ数分焼き、その間に保存していた米を解凍、茶碗に適当に盛る。次に愛用のカップに取り寄せたパックを放り込み、沸かした湯を注ぐ。あっという間にほうじ茶の完成である。そして最後に目玉焼きを皿に乗せ、塩を振った。カロス地方の一般的な店に醤油はない。
「おはようさん、朝やで」
そうして出来上がった簡単な朝食を机に並べて箸を置き、机の側の床に置いた器へポケモンフーズを盛ることも忘れない。主人と違って仕事があっても朝が苦手な体質を隠せないペンドラーが匂いに釣られて寝床からのそのそ這い出てきたのを横目に、カラスバもまた席に着き手を合わせた。
「いただきます」
故郷から遠く離れた地だろうと忘れない言葉。そして箸と茶碗を手に持ち、カラスバの朝食が始まった。
数年愛用している箸で突く目玉焼きは良い感じに柔らかさを残した完熟。塩を振ってさっぱりとした目玉焼きの黄身を器用に下から掬い上げて口に流し込み、熱々のまま米を合流させる。遺伝子に沁み込むような味と温かさに思わずはふ、と溜息が出る。一人暮らしなのだから喋る相手も(寝起きで頭がほぼ回っていない)ペンドラーくらいしかいないし、この後は仕事がある。黙々と箸を動かすうち、あっという間に茶碗も皿もカップも空になってしまった。
「ごちそうさんでした」
空いた皿を流しに運んでさっさと洗い、さっさと歯を磨いてしまう。そして寝間着を脱ぎ捨ててワイシャツに袖を通し、髪も整える。その後なんとか朝食を済ませたペンドラーを軽く撫で、彼の分の器も洗って日当たりの良いところに置いた。そこまでやって相棒をボールに戻し、寝室へ戻ってスーツの上着を取りに…行く前に、カラスバは机の上に置かれた小さな箱に手を伸ばした。
米一杯と目玉焼きに茶で成人の腹が膨れるのか?と聞かれれば答えは否だ。実のところカラスバは健啖家だった。24時間営業の丼屋に行けば毎回大盛りだし、ラーメンは替え玉前提の注文、某世界トップのジャンクフード店のビッグなアレもその気になれば複数平らげてしまう。朝でも目玉焼きを2つ作ろうが実は全く足りないのだ。しかし、それでもこれ以上彼は食べられない事情があった。
彼の手の中の白い箱には「胃腸薬」。中の銀のシートから出てきた白い錠剤を水道水で流し込んだカラスバは、軽く鳩尾のあたりを撫でた。
「気持ち悪…」
カラスバは現在、一晩寝ても全く治っていない酷い胸焼けと二日酔いに悩まされていた。
カラスバはミアレシティでは泣く子も黙るサビ組にてトップを務めている。つまり曲がりなりにも組織の顔役であり、何かあれば他の勢力やら資産家やらとの会食もそれなりにこなす立場である。こんな時勢のミアレシティには、現在様々な勢力が溢れかえっている。そんな場所で大なり小なり自分の勢力を持ち、傘下に人を従える。それはつまりこの街の中で動き続ける金の流れに踏み込むことと同義だ。抜け駆けは許されず、互いが互いを監視することで最低限度の秩序を守る。人の集まる場所というのはそういうものだ。それ故にここで上手くやっていく上で人付き合いというのは避けて通れないものであり、彼が表に出てきて行なう仕事もそれなりにある。例えば昨晩開かれた会合も、その一環だった。
こうやってサビ組を立ち上げる時点で自分に何が求められるのかなんてことは分かりきっていたし、カラスバも人と喋れないほど陰気でもない。だから会合や食事自体は別に構わなかったのだ。カロス地方は幸いにも昔からグルメ地方と名高い場所でもあったし。食事会も飲み会もどんと来い。とはいえ、である。あくまでカラスバは他所の地方出身の人間であり、例えミアレ育ちであろうがカロス地方の人とは遺伝子も食の嗜好もかなり違う。同年代の人間と比べて背も若干低ければ顔立ちも若々しく、アルコールの許容量もやや低い。そんな彼にとってミアレシティでの食事は当たり外れが激しいガチャだった。腐ってもミアレシティだし、カラスバにとって〝外れ〟はそんなにない(あってもそんな場所を会合に使うバカはいない)。しかし、昨晩は久々に…それも、近代稀にみるレベルの大外れを引かされた。
店で出される肉料理、魚料理、酒…その全てがカラスバの胃にとって大ダメージだったのだ。肉に絡むソースの味が受け付けない。肉汁ではなく肉の油が濃すぎる。ついでに多い。魚にかけられた調味料やハーブの風味が強すぎて魚本来の味が分からない。酒で誤魔化そうにも酒にも合っているような気がしない。他の顔触れは普通に飲んでいたので店が悪いのではなくカラスバ個人の体質的な問題だとは思ったが、とにかく何か胃が拒絶反応を起こす。しかし脂っこすぎる肉料理やあまり好きではないハーブの風味を無視する為には酒を流し込む以外の術はなく…と言った感じで普段の倍近いペースでワインを開けまくる。といった感じで乗り切った結果、会合中に醜態を晒すことはなかったがカラスバの胃と食道はほぼ瀕死になった。スジモン特有のガッツがなければ即死だった。
そのダメージはこうして一晩無理に寝てみても改善せず、寧ろ中途半端に残った二日酔いと胸焼けで気分は最悪だ。元々仕事がなければ日光を浴びながら惰眠を貪るのが常みたいなところがある男には拷問である。その不機嫌さは部下の転がす黒塗りの車に乗っても変わらず、ドカッと雑に腰を下ろしたカラスバにドライバー役の部下は内心悲鳴を上げた。
「ぼ、ボス…何かありました?」
「あ゛?」
「ヒッ」
哀れ部下、アーボックの尾を踏む。死を悟った部下は脳内でそっと実家にいる母親への手紙を書き始めた。拝啓お袋様、俺はミアレで朽ちます。
とはいえカラスバにはこんなことで怒鳴る気力もなかった。今大声を出したら確実に頭に響く、寧ろ省エネしたいし休みたい。その為ここで彼は組のボスの立場を濫用しておくことにした。
「おいお前」
「はい!?」
「うるさ。あんな、事務所までより遠回りのコースで車回し」
「…わ、わかりました」
「あと、運転中余計なお喋りしなや。やかましいようなら後で沈めんで」
それだけ言い残すと、後部座席で頬杖をついて黙ってしまったカラスバ。上司の言いたいことを何となく察した部下は脳内でしたためた手紙を一旦机の引き出しにしまい、代わりに普段よりアクセルを緩めながらカーナビの設定を切った。
数年前より遥かに静かな音で朝のミアレシティを走る黒塗りのシルエット。下っ端によってよく磨かれ点検もされたタイヤが石畳を踏みしめる音だけが微かにする中、ぼんやりと窓の外を眺めているカラスバの眼が不意に何かを捉えた。
「………?」
信号待ちの間停止した風景。メガネと窓の二重の壁を挟んで少し青く曇った四角くて丸い視界に映るのは、普段通りの街の様子。いい加減カラスバの眼から見ても真新しさが抜け始めてきた、特に代わり映えのしない石畳の続く白っぽい道路と色とりどりの店の外装。しかしその中に何か、見慣れないものが混じっていた。
前後を大小の車輪で支えられた四角いシルエット。パッと見は車輪を付けて動かせるようにしたコンテナにしか見えない。カラスバから見える側面には特に何の文字もなく用途も不明だが、なんとなくカラスバにはそのコンテナの正体が分かった。
「…屋台?」
ミアレシティには数々の飲食店が居を構えている他、人通りの多い場所ではキッチンカーなども出てきている。とはいえ現れるのは大体もっとサイズが大きくて調理スペースや機材が整っているキッチンカーが大半だ、こんな小柄なコンテナ屋台なんてあっただろか。他所の地方を知らないわけではないカラスバだからコンテナが屋台だと何となく察したが…。そこまで考えて頭に重く鈍い痛みが走り、カラスバは考えることを中断した。そのタイミングを見計らったかのように信号が青になり、また車も動きだす。流れ出した風景の中で屋台もすぐにフェードアウトしていく。
(まぁ…考えても、しゃあないな)
見えなくなったものを見ようとすることもない。とにかく怠い頭が休息を求めるのに逆らうことなく、カラスバは頬杖をついたまま目を閉じる。
あの屋台は結局何屋なんだろうか。そんな泡のような考えも車に微かに揺られ続け、やがてすぐに頭の沼の底に沈んでしまった。
**
夜になっても結局カラスバの二日酔いは微妙に残った。質の悪いものほど後を引くが、本当にあの店の料理は食べて大丈夫なものだったんだろうかと今更カラスバは若干不安になってきた。白いと言われがちな顔は輪をかけて白く、側近には軽く引かれるし部下達はビビり散らかしてミスを連発する。立っても座っても微妙に居座り続ける胃腸のむかつきは存在感を消さないままで、仕事も微妙に手に付かない。かといってバトルでもしてスッキリしようという気分でもない。結局仕事にならないと判断したカラスバは軽く荷物をまとめ、側近に軽く指示を出すとさっさと帰ることにした。
ついでに送迎の車も断ってしまった。たまには夜風に当たって帰るかと思ったのも理由だし、車内の匂いが何となく嫌だったのもある。胃がムカついている時は大体何でも嫌なのだ。朝に死を覚悟していた部下は人知れず約束された延命に雄たけびを上げた。
最低限の私物だけ入った鞄を手に、ミアレの石畳を革靴で踏んで歩く。サビ組はミアレシティ内ではそこそこ名も知れてきている。今のカラスバに話しかける猛者はおらず、それがまた都合が良かった。頭に響く声も、頭を悩ませる仕事の話も、胸焼けした肺に埃のように積もる車のシートの匂いもしない。アウトローだろうと、たまにはこんな夜を謳歌したくなるのだ。
喧騒を遠巻きにしたまま、のんびり歩を進めるカラスバ。彼がこの通りは今朝通った道だと気付いたのは、目の前数百メートル先で例のコンテナが街頭にぼんやり照らされているのを見た時だった。
(そういえばあったな、謎の屋台)
足を止めることなく進んでみれば、道路側に面したコンテナの側面が開いている。開いた窓から暖色の灯かりが漏れ、コンテナの前に行儀よく並べられた椅子を照らしていた。どうやら営業時間を迎えたらしく、屋号も出さない謎の店が開いているらしい。遥か数百キロ離れた故郷で見た景色に重なって見えて、重たい頭の中でむくりと好奇心が頭を起こした。
店に入るかはともかく、何の屋台かくらいは見て帰ろうか。どうせ家に帰ったところでやることもないし、風呂に入って煙草でも吸いながらぼんやりするくらいが関の山なのだろうし。珍しく起きている好奇心に従い、脚がおのずと屋台へ向かう。客がいないのもラッキーだ、いたら近寄らずに帰っただろう。
そこまで考えて屋台に近付いていったカラスバの影が地面に伸びて、屋台の光の中に浮き上がる。
「邪魔すんで、やっとるか?」
「いらっしゃいませ。先ほど開店したばかりですよ」
カタギを無駄に怖がらせる趣味はない。なるべく圧を掛けないよう意識して声を出したカラスバを、耳に心地の良い柔らかさを帯びた声が迎え入れた。椅子を引いて腰を下ろし顔を上げれば、屋台のカウンター越しに声の主と目が合った。
パリッと着こなされている糊の効いた白いワイシャツに、シルエットを引き締める黒いベストとシャープなネクタイ。袖口から覗く手は白く、爪は若い男にしては整い過ぎているほどに切りそろえられている。総じて清潔感とある種のブランド力を感じさせる、行き届いた外見。項の近くで結ばれた髪が、風に煽られ軽く毛先を揺らす。そして無造作にセットされた少し長い前髪から覗く、温厚な光を宿した瞳。昼というより夜、星というより月に似た光を抱えた眼が、カラスバを見ている。それに気付いた瞬間、胸の内で小さくトクンと音がした気がした。
「——……」
同性に言うには少し語弊があるかもしれない。ただ彼を見たカラスバの印象は、「美人」だった。ミアレシティの中では少し珍しい、自分に似た顔立ち。そこに感じる微かな故郷の気配が、胸を微かに擽る。
着席早々に顔を見て固まってしまったカラスバの様子に小首を傾げながら、人好きのする笑みを浮かべて彼が口を開いた。
「ご利用ありがとうございます。屋号もない屋台ですけど…ここ、バーをやっているんです。今日はあなたが最初のお客様ですね」
「バー?屋台で?」
「はい。メニューはこちらですね」
すらりと伸びて形の良い指ですっと示されたのは、壁に立てかけられたメニュー表。ジントニック、ジンフィズ、ソルティドッグ、ホワイトレディ…なるほど、本当にこの屋台はバーテンダーが営むバーらしかった。
「僕、最近こっち来た新参でして。修行がてら色んな人に僕のお酒飲んでほしくて、屋台であちこち回っているんです」
「ほぉん。練習中やから屋号ないんか?」
「そんな感じです」
そう言って温かい光の中で柔らかく微笑む彼に、好奇心の横でちょっとした嗜虐心が鎌首をもたげた。
ただでさえ二日酔いでコンディションが振るわない日に、朝から魚の小骨のごとく存在感を微かに残していたコンテナの屋台。それが蓋を開けてみたら屋号のないバーで、しかも店主らしき男は修行中を名乗る。既に嫌な予感しかしない。お通しなんて出される前に席を立ってしまおうかと一瞬考えたカラスバだが、逆に居座って飲んでやろうと考えたのだ。バーは通常、注文をすればチャージ代が発生する。これで下手な味を出されれば、逆にこんな出来で金を取るなんて冗談じゃないとカラスバにもキレる理由が出来る。見た限り、このバーテンダーに喧嘩が出来るとは思えない。一度土俵に引き摺り込めば後は俎板のコイキング、アーボックに睨まれるオタマロ。なんというかこの男を見て、事故を避けて安静にする以上に色々と憂さ晴らしがしたくなってきたのだ。
「ほんなら…せやなぁ。ベースは何でもええから、スッキリ飲めるやつ頼むわ」
そしてそんな下衆丸出しの考えでカラスバがニッコリ微笑みながら出したオーダーは大概性悪だった。真意を気付いてか気付かずにか、光の中に立つ彼は微笑みを崩すことなく逆さ吊りになっていたグラスをテーブルに置き、汚れ1つないまま光を反射するシェイカーの蓋を開けた。
「アレルギー等は?」
「特にないわ」
初見の客にスッキリ飲めるやつなんて雑なオーダーを寄越されたバーテンダーなら、大体ジントニックでも出すのが普通だろう。しかしシンプルなものだからこそ、粗は目立つ。苛立ちから性格の悪さと気性の荒さに割と歯止めが効かなくなっている自覚がある今なら、嫁をいびる姑より細かい言いがかりを簡単につけられる気がしたのだ。あとはノリと勢いで目の前のこの顔が良いオタマロを虐めるだけでカラスバの快眠は決定する。そういう魂胆だった。
さぁ、ジントニックでもジンフィズでも出せ!そんでオレに虐めさせろ!そんな最低すぎる考えで腕を組んでいるカラスバの目の前で、しかしバーテンダーは冷静だった。
大小の円錐を2つくっつけたような形をしたメジャーカップにオレンジジュースとライムジュースを注いでシェイカーにさっと注ぎ、カウンターの影からガラスの瓶を取り出す。それは無論ドライジン…ではなく。
「に、日本酒やと!?」
「ええ、ジョウトで販売されているものです」
カラスバにとっては馴染み深い、しかし何年も見ていなかったデザインのラベル。茶色い色の一升瓶を軽く持ち上げ、バーテンダーは微笑んだ。
「お客様、本当はカロスじゃなくてジョウト地方の方でしょう?折角なら向こうならではのお味の方が良いんじゃないかと思いまして」
「は、なんで出身…」
するりと白い指を走らせ撫でるように蓋を開けられた瓶から、日本酒特有の香りが微かに広がった。
「……!」
その香りまで一滴も逃がさないよう、彼は重たい筈の一升瓶を何でもないように傾け溢すことなく計量しシェイカーへ閉じ込めてしまう。そして追い打ちのようにすかさず冷却用の氷を注ぎ、シェイカーの蓋を閉じた。そしてシェイカーの蓋が外れないよう蓋を右手、底を左手で押さえ、柔らかくスナップを利かせた手で軽やかにシェイクしていく。
シャカ、シャカ、シャカ、シェイカーの中で氷の踊る音がする。涼し気な音が夜風に乗って心地良く耳に響くその涼やかで軽やかなリズムに、いつしかカラスバの苛立っていた内心は氷に音を奪われたように静かになっていた。
「………」
淡くオレンジ色を帯びた光の中、カウンター越しにシェイカーを振るう彼の腕がしなる。柔らかい眼光はそのまま、しかし彼はカラスバでもシェイカーでもない何かを見ているようだった。その姿にカラスバは何も言えないままでいた。それなりに酒や料理の味の良し悪しは分かっても、バーテンダーが酒を造る時に考えているものは分からない故に。分かるのは、彼の見栄えの良さと、眼の光に違わない柔らかさだけ。そしてそれだけのことが分かる頃には、さっきまでの威勢のいい性悪っぷりはすっかり氷に飲まれて消えていたのだった。
やがて音が止む。時間にして約15秒。静かにシェイカーを下ろした彼が蓋を外し、その中身をカクテルグラスへ注いだ。
オレンジとライムによって淡い黄色に染まった、しかし日本酒本来の透明感を残したグラス。カウンターに置かれたコースターの上へ、カラスバも殆ど知らない故郷の香りを纏ったその一杯は静かに置かれた。
「お待たせしました。日本酒ベース、『サムライ』です」
「……サムライ」
どんな味なのか、どんなカクテルなのかの説明はない。ただそれを聞く前に、カラスバは目の前のカクテルグラスを手に取ると、すっと傾け流し込んだ。
瞬間、広がるか柑橘の華やかな香り。オレンジとライムの香りと酸味が口から鼻腔に至るまで広がり、花のようにふわりと開いていく。二日酔いの余韻を引き摺る胃でも飲みやすい、明るく爽やかな味だ。そしてその華のある香りが広がったと思った瞬間、キレのある味が舌の上を駆け抜ける。2つの柑橘類の花の下に潜んで抜き放たれる、透明な味。まるで居合の達人が神速で鞘から抜いた、刀のような——カラスバの思考を読んだように、目の合った彼が再び微笑んだ。
「日本酒のキレのある味を、味も香りも強いオレンジとライムが包み込む。色まで2つのジュースに染まりマイルドな味になったカクテルですが、しかし見えないだけで魂は変わることなくちゃんとそこにある。鞘から抜かれて、初めて刀が姿を見せるように。
だから最初で最後になるかもしれないこの一杯は、このカクテルにしようと決めたんです。
遥か遠いこのカロスの地で生きながら戦う、お客様への一杯として」
「は……」
柔らかくも真っ直ぐな光を湛えた眼が、カラスバを見ている。その光を眺めているうちに、カラスバのささくれ立った内面へ夜の湖面のように光が射すような心地がした。気付けば彼を虐める気なんてとっくに失せていた。二日酔いの怠さも胃のムカつきも、もうどこにあるのか忘れてしまった。ただ穏やかに凪いだ心のまま、自ずと口角が少しだけ持ち上がる。
無論ここから適当な言いがかりをつけてやることも出来なくはないが、そんなことはカラスバの立場も矜持ももう許さない。気の利くバーテンダーと、カロスの夜景を横目に味わう美味い一杯。これを台無しにするほど無粋ではないつもりだった。カタギのいかにも弱そうなこの男に見透かされたことには驚いたが、それもどういうわけか腹立たしさよりも清々しさの方が勝る。この男がカラスバのことを見抜いてきたことを鼻にかけるような様子を見せないせいか。
「こっちは意地悪したっちゅーのに、ここまでシカトされたら敵わんわ。オレの鼻明かしたろとか思わんかったんか?」
「僕はバーテンダーですから。都に怒気バーテンなんて言われたりもしますけど、元々はガラルやイッシュの言葉であるバー(Bar)とテンダー(Tender:世話役、番人の意)を組み合わせたのがバーテンダーという名前だと言われています」
洗い終えたシェイカーの水滴を拭いながら、彼が口を開く。どこか暖かいようで冷たい、秋の夜風のような声と滑舌が耳に心地いい。言葉を紡ぐ彼を眺めているうちに、その眼の宿す光が決して熱いものではないものではないことにカラスバは気付く。
「誠意と慈愛を以って酒を作るバーテンダーがいて、初めてバーはバーたり得る。お客様の求める一杯を提供し、魂の憩いの場を守る、止まり木の番人…それがバーテンダーだと僕は思っています。例えお客様が意地悪でも、アウトローでも…僕はバーテンダーである限り、お客様が真に求める一杯を全力でお作りして提供するのが仕事ってだけです」
そう言い切る彼に迷いはない。即座にカラスバの出身に気付いて日本酒まで出してきたこの男だ、カラスバの注文の真意にも気付いていたのだろう。なのに腹を立てることも得意げになることもせず、ただこの一杯を出すことだけに専念し、最初から変わらない温度で佇んでいたのだ。そもそも喧嘩にすらなっていなかった。
「…完敗やな」
カラスバの口から零れるように出たその一言が、全てだった。
**
「ご馳走さん。久しぶりに日本酒飲めて嬉しかったわ」
「光栄です」
数時間後、カラスバは会計を済ませ帰る準備を始めていた。あのサムライで見事に舌を射止められてしまったカラスバは、二日酔いで早退した事なんてすっかり忘れてあれから更に数杯注文していた。体調不良をカミングアウトしたわけでもないのに、どういうわけかこのバーテンダーは毎回胃が拒まないグラスを提供してくれる。そのせいもあった。すっかり予定が狂ってしまったが、特に後悔はない。寧ろ当初の目論見が外れて良かったのかもしれない。心地の良い酩酊に包まれながら、軽い鞄を肩に担ぎ直す。
「また飲みに来てもええか?」
「勿論営業中ならいつでも。ただ、うちは屋台ですから…お店を開く場所は、カロスの風に聞いて決めます」
「本格的に屋台やん。店持たへんの?勿体ない」
「でもお店の中で待ってたら、お客様とも今夜出会えなかったでしょう?」
「だいぶ口説いてくれるやん」
そんなやり取りも、どこかカロスでは味わってこなかった心地よさで。気付けばこの男にかなり入れ込んでいる自分がいることを、カラスバは自覚せざるを得なかった。
「兄ちゃんの店が事務所から近いとこならなァ、毎日飲んだってもええくらいやねんけど」
「そう言っていただけるのは嬉しいんですけど…客様みたいな男前のそういうのは女の子口説く時に、ね」
「あんなん飲んで今更クラブの水割りに世辞とか無理やで」
カラスバの言葉に困ったように笑うバーテンダーだが、実際これはほぼ確信に近い。カラスバと二人きりで話していて気まずくならない人間の方が少ない。こんな風に気遣い上手で臆したりもせず、しかも酒まで美味い相手(ついでに同性だが顔もかなり綺麗どころである)なんてそうそう遭えない。それにこのバーテンダーを忘れられるような水割りを出せる女がいるわけもない。今後どこの高級クラブでどれだけ美人でナイスバディな嬢を宛がわれても、この店で過ごす時より気分が良くなるとは思えなかった。
しかし彼は屋台のバーテンダーで、出店場所は日によって変えるという。サビ組事務所の近くなら別に良いが、下手にホテルシュールリッシュの近くなんかに屋台を出されては近付きにくい。この腕前なら、あのホテルを根城にしている女なんかが金を積んで囲うことだって考えられないわけではない。というかあの女ならやる。絶対にやる。
カラスバは己の直感にそれなりの自信がある。なんせ蛇の鼻と舌は鋭いのだ。その直感が、損得勘定を抜きにしてこのバーテンダーを今すぐ捕まえたいと告げている。そしてカラスバは直感的に動きやすい男であるのと同時に、気に入ったものを他人に取られると非常に腹が立つタイプの男だった。
顔が良くて、酒が美味くて、話も上手くて居心地の良い人物。
こんな極上の獲物を逃がすだなんて勿体ない。このままハイさよならと別れて帰るわけにはいかない。
だって欲しい。絶対に欲しい。誰かが手をつけてしまう前に、今すぐ欲しい。そう本能が言っている。
「せやからな、これ割と本気で言うてんねんけど。
アンタにはオレんとこで毎日酒作ってほしいねん」
本能のまま獲物を狩る蛇の動きのように、一直線なアプローチ。それを言うのに迷いも何もなかった。躱されるのなんて承知の上、断られるのが関の山。そう思っていても言うべきだと思ったことだからだ。
しかし、カラスバの真っ向でこう言われた本人はというと。
「————………」
カラスバの真っ向勝負じみた口説き文句を、全く何の感情も読めない表情で、ただ目を丸くして聞いていた。ずっと細められていたその目の瞳が存外淡い色をしていたことを、ここにきてカラスバは改めて認識した。藤色ともピンクとも言い難い、不思議な色。その色の輝きをはて、カラスバはどこかで見たことがあるような。
「あっははははは!」
そこまで考えたところで、思考は突如弾けた笑い声に霧散した。沈みかけた思考に引き摺られて焦点を失っていた視界を前に戻せば、さっきまで黙っていた彼が腹を抱えて笑っていた。
「毎日酒を作ってくれって…そんな、ここミアレやろ…!くく、ミアレでそない口説き方する人、おるんや…ふふふふ!ひー、腹痛…」
「あ?」
「ああ、すんません、お客様が変で笑てるわけやなくて。皆さんもっと分かりやすく口説くから、つい…んふふふ!懐かしくて」
「…懐かしい?」
腕で腹を抑えながら震える声で詫びを入れてくるが、笑いの波はまだまだ引きそうにないらしい。過呼吸でも起こすんじゃないかと思うほど細い声で引き攣ったようにひーひー言って笑っている彼を冷めた目で見ていたが、不意に彼の言葉に引っかかりを覚えた。そして同時に、彼の言葉遣いが変わっていることに気付く。カラスバが気付いたことに彼も笑いながら気付いたのか、腹を抱えて前倒しになった上体のまま首が微かにこちらを向いた。長い前髪が笑いに震える身体に釣られて揺れる。その奥で、淡い色が何かさっきまでなかった筈の感情を帯びて揺れている。
「ああ、僕これでもジョウトの方の出身なんです。お客様とは同郷かなぁ。『俺に毎日○○作ってくれ』なんて、向こうじゃ昔の人が使うてたけど…今のミアレの人も、案外言うんやなぁって」
「…なんや、そんなことかい。別にオレは言いたいこと言っとるだけさかい、深い意味なんてあらへんよ」
「けど、言われた方からすればすんごい熱烈。真剣な目も含めてな、ほんま喰われるんちゃうかと思ったわ。…あー笑った…僕にそんなん言ってきたの、流石にあなたが初めてやわ」
そう言う彼は漸く笑いの波が引いてきたのか、数回深呼吸をすると背を伸ばして顔を上げた。カラスバより少し背が高いのは気のせいではなかったらしい。笑いすぎたせいで白い頬を上気させたまま、墨を吸ったように黒い前髪の向こうに見える色の薄い瞳が少しだけ高いところにある。カウンターがない分カラスバと彼の距離は自ずと近くって、シンプルなバーテンダーの服装に身を包んだ身体からは微かに酒のせいか甘い香りがした。
「僕はツキトジ。さっきは笑ってしまってすみませんでした」
目尻に浮かんだ涙を拭いながら、標準語に戻ったトーンでそんなことを言うバーテンダー、もといツキトジ。しかし一方言われているカラスバの方はと言えば、半分くらいは声が頭に入ってこない。代わりに胸の辺りから飛び出す大きな音がやかましくて、耳を占領していた。
ツキトジ。月兎耳。丸い月で餅を延々ついている、肉が柔らかい獲物。
男の割には柔らかそうな、まだ染まったままの頬。街灯の光を映して柔らかく光る淡い瞳。薄すぎず顔全体の印象を引き締める形の良い眉。ピアス痕もない血の気の薄い耳朶。シャツの襟首から伸びた白い首。無造作に束ねられた後ろ髪の微かに跳ねた毛先すら色気を醸す一因に見えて仕方がない。酒をあれだけ飲んだのに気付けば喉が渇いていた。
酔ったせいか。そういうことにしておいた方が良くないか。そんな、どう考えても不味い気の迷いを起こしていないか今。出会って数時間、この街に流れ着いた同性を相手に自分は何か、とんでもないことを考えていないか?
「お詫びと言ってはなんですが、次にいらした時に一杯無料で出させてください」
「……ええの?」
「寧ろ来てくださるなら光栄です。こんな失礼なバーテンダーの店、もう来たくないかもしれませんが…」
「また今度来るさかい。んなこと言わんといてや」
そんな台詞をほぼ反射で言う程度には、もう頭が参っていた。自分が理性のある人間で良かった。もしポケモンだったらきっと今頃喋りながら涎が出ている。
「お店出すとこ、毎度変えるんやろ?あんま事務所から遠いと行かれへんけど、近いとこならまた寄らせてもらうわ」
「本当?」
申し訳なさそうに眉尻を下げて手の指を組んでいたツキトジの声が微かに明るくなった。眩しいものでも見ているかのように淡い色の目を細めて、小首を傾げて微笑む。小悪魔め。その姿に軽く脳裏で軽く火花が散る心地がした。
「嬉しいなぁ」
嬉しそうにそう言って微笑む彼の声は、さっきまでプロフェッショナルの貌でシェイカーを振るっていた人物とは思えないほど甘い響きをしていた。勘弁してくれ。黒焦げになったなけなしの理性が、荒い息のまま悲鳴をあげた。
今夜は二日酔いの八つ当たりに来ただけの筈だったのに。飲んで終わりの筈だったのに。この男は自分で言うには余所者で、ミアレシティの人間ですらないというのに。百歩譲って、自分が欲しいと思ったから声を掛けただけなのに。これは行きずりの出会いであって、総じて、こんな筈じゃなかったのに。
街の汚れを落とす汚れ役。それがサビ組であって、カラスバはそんなサビ組のトップを担う男なのに。今こうしてエンジンのようにがなる心臓の音と焦げついた頭の温度をどうやって落とせば良いのか、どういうわけだかまったく思いつかなくなっていた。
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