朝日の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。遠くでヤヤコマの鳴き声がする。
微かな光だけが頼りの薄暗い部屋の中、カラスバは慣れた感触のベッドの上で慣れない体温を感じながら目を覚ました。
眼鏡がないと視界全体がぼやけて仕方がない。生来のものでもあるが、劣悪な環境で育ったツケもあってカラスバの視力はすこぶる悪い。フシデに似たあの眼鏡がないと、手の届く距離のものもほとんど見えないどころか鼻先がつくレベルで近いものしか分からない。
眠気に包まれ怠い腕を動かせば、ふに、と柔らかい温もりに掌が触れる。カラスバより高い体温、女ほど柔らかくもないが硬すぎない感触。そこまで思い至って漸くこれは昨夜自分が自宅に連れ込んで手を出した相手の体温かと頭が回りだした。
ツキトジ。移動式の屋台バーで出会った、不思議なバーテンダー。シェイカーを振る姿は不機嫌だって洗い流してしまうのに、少し話すだけで頭がおかしくなりそうなくらい甘い気分が胸を満たす。普通なようで普通じゃない、衝動的な食欲を満たしてやまなくて、結局その勢いに身を委ねてカラスバが食べてしまった相手。そこまで考えてふふ、と笑いが漏れそうになるが、眼鏡がないことにはそのツキトジの寝顔も拝めない。
最初は見えないと不便だからといつも通り眼鏡を掛けて事に及んでいた筈だが、ラストスパート辺りの記憶がどうにもぼやけている。どうやら昨晩の自分は相当ハイテンションで暴れまくっていたらしい。それだけ良い気持ちをしたのは結構だが、そのテンションで果たして自分は眼鏡をどこにやったのか。
「…眼鏡、探してます?」
眠気を残した掠れた声が、すぐそばから聞こえる。ツキトジの声だ。昨晩酷使した喉から発する声に甘さは薄くて、代わりに一晩を越えた疲労感と気怠さが色濃く滲んでいる。それがまた店で見てきた彼とのギャップを感じさせて単純な男の脳を擽ってくるわけだが、本人は気付いているのだろうか。
ぼやけた視界の中、白っぽい色が動く。それがツキトジの腕だと気付いたのは、首の後ろにグラスコードの少しひんやりした感触が走るのとほぼ同時に、彼の手で眼鏡を掛けられてからだった。
「はい、これ」
お探しの品でしょ?
そう冗談めかしたように囁いて、服も着ずにベッド上に横たわったままのツキトジが目を細めて笑っている。赤黒い痕だらけの白い全身を横たえて穏やかに微笑む姿のチグハグな苛烈さに、自業自得とはいえ朝っぱらから目がチカチカして眉間の奥が痛むような心地がした。
「はー…目に毒やわ」
「自分のしたことやろ」
大きな一人用のベッドに、二人分の体温。
一人で暮らしている部屋に、会話の応酬が満ちていく。
ずっとここにはカラスバ以外の人間なんていなかったのに、自分のものではない声が当たり前のように積もっていく。それに対して、カラスバの心の中に何か名前の分からないものが溜まっていく。
内に積もりゆくものの正体をカラスバは知らない。それの名前も、どこから来たのかも、どうやって片付ければ良いのかも。全部全部、この男が持ってきたものだ。カラスバの持ち込んだものじゃない。
だけどこの男を連れ込んできたのは紛れもなく自分自身で。ということは、巡り巡って自業自得というわけで。
「…あきまへんわぁ…」
そこまで頭が回るようになって、カラスバは音を上げた。どう考え直しても自分が悪い。責任的な意味でも、分が悪いという意味でも。カラスバの考えを読んだのか、彼がまたくすくすと目を細めて笑う。その笑い声に背骨を直接撫でられたような心地がして、毛羽立つ甘さに背筋がぞわりとした。
ベッドの主が床に脚をつけると、懐いたペットのように彼もまたベッドから這い出てハンガーに掛けたスラックスへ手を伸ばす。一度顔を洗いに離れたカラスバが戻ってくる頃には着替え終えていたので、よたよたと歩く彼と入れ替わるようにカラスバもまた寝間着を脱ぎ捨てた。サビ組で常時来ている黒スーツではなく、ごく普通の私服をクローゼットから取り出し袖を通す。グラスコードも普段のものではなく簡素なものを。あれは癖が強すぎて普段使いに苦労する。
カラスバが着替え終わったのとほぼ同時に、髪まで整え終えた彼が戻ってきた。事前にハンガーに掛けておいたワイシャツとスラックスに乱れは見えない。よもやこの男がサビ組ボスの自宅へ招かれた挙句夜通しどれだけ痴態を見せまくっていたかなんて、言ったところで誰も信じないだろう。そんなもの吹聴する気もないが。
「朝ごはんどないすんの。奢ったろか?」
「…ええの?」
「ええよ、誘ったんオレやし。屋台も預かっとるさかい、食べたら事務所に取り行こか…って何やその顔」
「天下のサビ組ボスが随分優しいんやなぁって。起きたら出てけ言われるかと思うてたわ」
「自分で連れ込んどいてそれ言うたらただの鬼やん」
朝食に誘えば、分かりやすく声を明るくして釣られてくる。裏を感じさせない反応は前に動画で見たワンパチみたいだ。これがついさっきまで自分の情緒を朝から翻弄する微笑みを浮かべていた人物とは俄かに信じがたい。一体どれが本当の彼なのやら。自前のコートを羽織りながら追いかけてくる彼の姿はもう眼鏡越しにちゃんと見えているのに、肝心なものは何一つ見えてこない。それでもその不透明さに覚えるものが不気味さではなくミステリアスな魅力なあたり、いよいよカラスバの脳は重症だ。
外でヤヤコマが鳴いているのを聞きながら、玄関の鍵を捻る。
「ほな、行こか」
ギ、と軽く音を立てて開いたドアを自分に続いて彼が通り抜けていく。羽織ったコートの襟に隠れたその首筋の、ワイシャツの襟と首の境界付近に鬱血痕が覗く。
白い首に映える色をしたそれに目を細めて、カラスバはドアを閉めた。
「うまー…」
「そら良かったわ」
ミアレシティは今日も快晴。穏やかな風が流れるテラスで、目の前に座った彼は大変幸せそうにパン・オ・ショコラを齧っていた。そこに夜に灯りの下で見せていた怜悧さは微塵も見えず、さながらヌメラのごとき緩い表情でパンを齧っている。酒を扱う仕事をしているが、素面の彼は割と甘党なのかもしれない。カラスバもまた焼きたてのクロワッサンを齧ると、バターの風味がふんわりと口を満たしていった。
ここはサビ組事務所から少し距離のあるプランタンアベニュー。サビ組事務所も見えない大通りだからか、テラス席で食べていても私服姿のカラスバを見て分かりやすくあれこれ言ってくる者はいない。この店も事務所やカラスバの自宅からは少々距離があるが、焼きたてとはいえ見事な味のクロワッサンである。今後も休日に時々通うか。
そんなことも知らずに多幸感に緩んだ顔のままパンを頬張っている彼を、頬杖をついて眺める。
屋台の光の下でも、街灯の下でも、その後連れ込んだ寝室の灯かりの下でも見せなかった新しい顔。夜の気配なんて感じさせない無邪気な顔は、しかし昨夜カラスバに組み敷かれて真っ赤になっていたのと同一人物だ。また増えてしまった一面に、ますます彼が分からなくなる。
「オマエ、ホンマなんやねん…」
「ん?」
この男は本当に何なんだ。そう思うカラスバの口から出てきたのは、そんな形の問いなのか文句なのか曖昧な言葉だった。カラスバのぼやきに、咀嚼したパンを飲み込んだ彼がにへらと笑う。
「修行中の身やって、前話しませんでしたっけ?」
「出身はジョウトやろ。なんでカロスなんてわざわざ遠いとこ来たんや」
「ああ、そういうことか。別に話してもええけど、そんなおもろい話ちゃいますよ?」
「ええから早よ言い」
はー、この助平。
そう呟いたツキトジは指先に付いたショコラを嘗めとると、一緒に頼んでいたカフェオレを一口啜った。
「まず僕がジョウト出身なんは前言うた通り。お金がまあまああるお家の一人っ子ですわ。
んで僕ってば、生まれつきそれはそれはもう可愛くてな?言葉も喋れんうちから肌は真珠のように輝き、髪はシルクのような肌触りやったらしいんです」
「……ん?」
「お父様もお母様もそんな可愛い可愛い僕がいっとう大事やさかい、家ん中にでっかい水槽作って、そん中に僕を入れて、お世話もテレポート使えるポケモンにやらせてな…」
「待て待て待てタンマやタンマ。誰が生い立ちから言え言うた。水槽って何やねん」
「おお、ナイスツッコミ」
「やかましいねん」
何故十秒そこらでこんなにツッコミどころが増えるんだ。明らかに盛りまくって原型を留めていないだろう出自をつらつらと語るツキトジに思わず待ったをかければ、蛇口を捻ったようにピタリと止まる。そこにツッコミを入れれば、けらけらとふざけたように笑ってまたおちゃらけた。この男、緊張しないとは言ってもいささかカラスバを軽く見過ぎているのではないか。おちょくられて軽んじられているような感覚に、こめかみに青筋がピキリと浮かぶ。それが彼にも見えたのか、即座に眉尻を下げながら手を合わせて「ごめんて」と柔らかく謝られた。…この表情に、カラスバは弱い気がする。なんというか、強く出られなくなる。
「まあ、あんま怒らんといて?…軽いジョークですやん」
「漫談聞きたくて話振ったんちゃうぞオレは」
「分かっとりますって、ちゃんと話しますさかい」
目を伏せて、カフェオレを一口飲む。飲んでいる割に下がらないその水面は、今の彼の態度に似て黒とも白ともつかない曖昧な色をしていた。
「ホンマにおもろい話やあらしまへんけど堪忍な。…僕、ジョウトにおった頃は路地裏で稼いでたんや。あとヒモ生活」
そうして改めて口を開いた彼にアミングアウトされたのは、カラスバにとっては身に覚えのある、しかし目の前の彼から聞くなんて思ってもいなかった話だった。
「彼氏さんと上手くいってへんおねーさん家で飼われたり、まあ物好きの寂しそうなおじさんらに遊んでもらったり、そんなんしとりましたわ。
皆大変やんなぁ。人生大変すぎて、僕みたいなんにでも縋らへんと生きていけへん夜がある。まあ皆そうやって苦労してはるから僕の需要もあったんやけど。
お家には帰られへん、学もあらへん。どっかの店の子でもないから当然ケツ持ちなんておらん。そない子やから食い繋ぐのに色々やらなアカンかったし、色々あったで。おねーさんに貰たお金を別の人に取られたり、急に知らん人に因縁付けられて殴られたり。朝起きたら何故かゴミ袋ん中に包まれとったり。あれはあれで寒さ凌げて良かったけど。あとは嫌や言うてんのに寒い中ひん剥かれて突っ込まれたり…ああ、これは朝から下品やったな。僕の悪い癖や。
……なあ、そない顔されたらあきまへんわ。聞きたい言うたのアンタやろ、口滑らしたんは謝るけどこれじゃ僕が悪人や」
「………。オレ今、どない顔してる?」
「家出した途端に雨に降られた子みたいな顔」
「…どんな顔やねん」
とうとうと語られる、ジョウト地方にいた頃の彼の経歴。特に恥じたり傷付いたりした風もなく穏やかな顔で語られるそれを聞いているカラスバの耳の奥で、冷たい雨が石畳を叩く音が反響していた。
…彼の語る過去の痛み、冷たさ、辛さ。それをカラスバは知っている。居場所は違えど、同じように生きてきた身だから。だからこそ、目の前の彼が“そう”であるとは俄かに信じがたかった。逢ったのはたった二回だが、カラスバの知る彼はずっと綺麗だった。糊の効いたワイシャツにネクタイを締めて、穏やかな笑みで、カンテラの光に柔らかく照らされて、感情を抜き去った目でただ一人のプロフェッショナルとして酒を作り提供する。あるいはカラスバとそう離れていない高さの視線で会話を交わして、時に腹を抱えて爆笑して、時に目を細めてうっそり妖艶に微笑む。服を脱がせば、首まで真っ赤になりながらもより柔らかく笑う。それがカラスバの知る彼だ。目を向ければ満ち欠けはあれど、いつだって同じように空で光っている月みたいな綺麗な人。サビついた鉄屑のような過去しかない自分とは違う、それがカラスバから見たツキトジという人物への評価だった。だからこそ昨日は見透かされたらどうしようと、軽蔑されていたらどうしようと、らしくもなく臆病風に吹かれたりしていたというのに。
なのに、彼は“そう”だと言う。裸足で歩く冬のアスファルトの痛さ。ろくに洗っていない顔をにわか雨に叩かれる冷たさ。突如振るわれる理不尽、裏切られることへの疲れ、殴られる痛み、踏みにじられ浪費される辛さ。それを知っていると言う。あんなに綺麗なのに。自分とは違うと、あれだけ思っていたのに。
「…幻滅した?」
カラスバが空に浮かんだ月だと思っていた人物は、月なんかじゃなかった。
空なんかじゃない。地面に流れるドブの中から現れた、宝石のような人だった。
それを知ってしまったカラスバの中には、嫌悪感なんてものは微塵も浮かんではこなかった。
「——いや、全然」
代わりに覚えたのは、微かな高揚。
手が届かないほど遠くにいると思っていた、ただ綺麗だと思うことしか出来ないと思っていた存在が、自分にも手の届いてしまうところにいる。水面に映った月の輝きだと思っていた光は、水底に沈んだ宝石の光だった。彼の輝きは幻なんかではなく、カラスバにも触れられるところにある。それを知って昂らないほど、カラスバは利口になれなかった。自覚があるがカラスバは強欲だ。欲しいものはそうそう諦められないし、手に入れる為に手段を択ばない時もある。そんな人間にとって、たった今暴露された事実は正に青天の霹靂だったのだ。心臓が早鐘を打つ。警鐘に似たそれが、止まらない。
彼は自分とよく似た過去をしている。光の射さない路地裏に生きて、時に寄生して、時に人に利用され、裏切られて。そうやって冷たさと痛みを散々知り尽くしながら生きてきた。彼は月で、自分は日陰を這う毒蛇——彼は日陰なんて知らないカタギである。その前提条件が、音を立てて崩れていく。
「ま、そない生活も急に終わった。でなきゃ今頃バーテンダーなんてやってへんわなぁ。
ある晩にまたゴミ捨て場にブチ込まれたんやけど、転がってた僕をある人が拾ってくれたんや。
——その人に連れられて、僕はバーって世界を知った」
カラスバの内心なんて知る由もなく、手の中で相変わらずどっちつかずの色をしているカフェオレの水面へ視線を落としたまま彼はぽつぽつと語る。彼とカラスバの最大の違い、人生の岐路を。
「それまで僕、生きてくには嫌な事でも何でもして、人の助けにならなアカンと思うてた。そうせな捨てられるし、そうなったらご飯も食えん。せやからペットでも恋人でも何でもしたし、それが正解やって。
せやけど、僕を拾ってくれはった人…恩人さんは、んなことないって。嫌なことは嫌って言ってええ。今の天運に抗いたいなら賭けに勝つしかあらへんけど、配られたカードをただ享受する以外にも出来ることはある。それに人の助けになんのに、いちいちそうやって自分を削らんでええって…そう言うてくれはったんや。ホンマ、すごい人やったわ。僕とそない歳変わらんように見えたけど、二十にもなってへんのにそないことスッと言えるってすごない?
……その恩人さんの奢りで飲んだお酒が、また美味しくてな。他に客もおらんせっまいバーやったけど、薄暗い店ん中で飲んだその一杯で、僕は決めたんや。バーテンダーになろうって」
「……………」
彼が路地裏の子供から、バーテンダーに生まれ変わった契機。彼を拾ったという“恩人さん”との記憶。それを静かに語っていくツキトジに、何の相槌も打てない。伏せられた目に宿ったあまりにも穏やかな光が、挟み込む言葉を奪っていった。それほどに満ち足りている目をしていた。彼の目に宿っているのは、十分な量の幸福を詰め込んだ光だった。
「恩人さんの口利きで見習いにしてもらって、そっから数年かけて僕はバーテンダーになった。そんで店を移ったり、ホテルにスカウトされたり…んで、色々あって今は屋台バーの経営者って感じやな。
僕がバーテンダーやってんのはそない理由。ま、僕は僕んこと好き言うてくれる人のことも気持ち良いことも別に嫌いやないさかい、こうやって店以外の場所で一緒におることもあるけど」
「………」
「ミアレを選んだのは、恩人さんがカロス出身やって話を思い出したから。特に今の時期は再開発の為に人が集まっとるし、夜もZAロワイヤルで起きとるトレーナーがぎょうさんおる。観光に力入れとるって話やったし、屋台で黒字を狙うにも丁度ええと思ってな。
——僕って人間が何なんやって言われて答えられること、多分これで全部やと思うわ」
喋りすぎやな、口疲れてもうた。そう言ってまたカフェオレをちびちび飲み始めたツキトジの目からは、気付けばあの完全無欠とでも言うべき光は消えている。あるのは夜と同じ、無害で温度のないただの光だけ。口すら挟ませないほどの輝きは、記憶への追想だ。それは過去を語り終えた今、外野に見えない箱の中にしまわれてしまっていた。
手に届く距離にありながら、決して自分と同じにはなり得ない輝き。光の中にあって尚も目を奪うほどに強いそれは、カラスバが素手で触れてポケットに捻じ込むには聊か眩しすぎるし熱すぎる。無理に触れれば火傷では済まされない。そう思わされるほどに、圧倒的だった。ここにいない、今の口ぶりから察するにカロスにも現在いないのであろう、カラスバには顔も名前も一切分からない“恩人さん”。その人への恩義を語る彼の中に脈打つそれは、そういうものだった。それを分からない振りをするには、カラスバとツキトジの過去は似過ぎていた。
……過去に思いを馳せていたツキトジの中に見えたもの。その正体が分かるからこそ、カラスバは。
「ホンマ惜しいわぁ」
「?」
「失望はせえへんけど、やっぱオマエが高嶺の花でいてくれはったらなぁ。
…こない強引に迫る気も起きへんかったんやろなぁ」
今見た輝きの全てを無視することに、何の躊躇いも湧かなかった。
Fからもらったメガストーン…どうやって身に着けよう?
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