少年が「魔法使い」として村の英雄になってから、数日が過ぎた。
この世界において、魔法や精霊の存在は、誰もが知る常識だ。子供たちは寝る前に、炎を操り竜を屠った精霊騎士や、嵐を鎮めた水の魔術師の物語を聞かされて育つ。しかし、それはあくまで「おとぎ話」の中の出来事。現実の世界で魔法の才能を持って生まれる者はごく一握りであり、さらにその上の、精霊と契約を交わす「精霊使い」に至っては、国中を探しても百人といないと言われる伝説上の存在だった。
そんな「おとぎ話」が、自分たちの村で現実になった。
その衝撃は、瞬く間に村全体を熱狂の渦に巻き込んだ。
辰也の世界は、まるで薄暗い舞台に突如としていくつもの照明が当てられたかのように、目まぐるしく、そして鮮やかに色を変えた。朝、彼が目を覚ますのは、もう軋むベッドのスプリングの音ではなく、階下から漂ってくる焼きたてのパンとベーコンの香りによってだった。食卓には、村長や有力者たちからの「贈り物」と称された食材が、これみよがしに並べられている。
「さあ、辰也。たくさんお食べ。あなたはもう、この村の宝なのだから」
母は、見たこともないほど柔和な笑みを浮かべている。
「すごいぞ、辰也。父さんは嬉しいぞ」
父もまた、誇らしげに息子の肩を叩く。
その言葉、向けられる笑顔の1つ1つが、辰也の心を甘く満たしていく。自分は、この幸せを自分の力で掴み取ったのだ。その事実が、少年の自尊心をくすぐり、肥大させていった。
彼の隣では、誰の目にも見えないルミナが、そんな家族の光景を少し戸惑いながらも嬉しそうに見つめている。辰也は、両親にさえ彼女の存在は明かしていなかった。「魔法の力に目覚めた」。彼はそうとだけ説明していた。力の源泉が、この無垢でか弱い精霊にあることは、二人だけの秘密だった。
家を一歩出れば、世界はさらに彼を甘やかした。
「おお、辰也君! 我らが村の英雄よ!」
「辰也君のおかげで、この村も安泰だ」
大人たちは、おとぎ話の主人公を見るような、熱に浮かされた瞳で彼に賛辞を投げかける。
そして何より大きな変化は、子供たちの世界で起きていた。
村の広場。そこはかつて、辰也にとって最も居心地の悪い場所だった。しかし、今やその広場の中心には、間違いなく彼がいた。
「なあ、辰也! 魔法ってどんな感じなんだ?」
「今日は何か見せてくれるのか?」
好奇心と羨望が入り混じった視線が、心地よかった。昨日までの自分ではない。自分は特別な存在なのだ。
そこへ、いつものように数人の取り巻きを引き連れて、ガキ大将の大雅がやってきた。腕を組み、辰也を値踏みするように見下ろしている。
「よお、辰也。偉くなったもんだな」
その声には、嫉妬が隠しきれない色で滲んでいた。
「なあ、見せてみろよ。その、魔法ってやつをさ。口だけじゃなくて」
挑発的な言葉。だが、それは辰也が待ち望んでいた言葉でもあった。
「いいよ。よく見てな」
彼は、あたかも自分自身の力であるかのように見せかけるため、静かに目を閉じ、集中する振りをした。内心で、隣にいるはずのルミナに呼びかける。
(ルミナ、『防御障壁』をお願い)
『うん!』
誰にも聞こえない健気な声が応える。辰也がすっと前に手をかざすと、彼の周囲に淡い光の膜が出現し、きらきらと光の粒子を撒き散らした。
「おおっ!」と、周囲の子供たちから感嘆の声が上がる。
大雅は、その美しさに一瞬怯んだが、すぐにそれを隠すように悪態をついた。
「ふん、ただの光の壁かよ」
彼は試しに、足元の小石を拾い、力いっぱい障壁に投げつけた。小石は障壁に触れた瞬間、カキン、と澄んだ音を立てて弾かれ、大雅の足元に転がった。彼はさらに大きな石を拾い、何度も投げつけるが、結果は同じだった。障壁は、微動だにしない。
「どうだ、すごいだろ!」
辰也は、勝ち誇ったように胸を張った。周囲の子供たちからも、賞賛の声が上がる。大雅は、苦虫を噛み潰したような顔で辰也を睨みつけていた。
だが、その賞賛の輪の中で、辰也が気づいていない、あるいは気づかないふりをしていた小さな不協和音が、確かに生まれ始めていた。
「……へえ。なんだ、光るだけか」
「火とか、氷とか出ねえのかよ。それじゃ、喧嘩にも使えねえじゃん」
「なんか、地味だな」
子供たちが物語で聞く英雄は、もっと暴力的で、分かりやすい力を持っていた。炎の渦で敵を焼き払い、巨大な岩を軽々と持ち上げる、圧倒的な破壊の力。それに比べれば、ただ守るだけの、美しいだけの力は、彼らの原始的な興奮を少しも満たさなかったのだ。
「ちぇっ、本当に使えねえ魔法だな」
形勢が悪いと見た大雅は、ここぞとばかりにそう吐き捨てると、くるりと背を向けた。
「お前なんかが英雄なもんか。行こうぜ、お前ら」
その一言は、今まで辰也に賞賛の声を向けていた子供たちの心にも、すんなりと染み込んでいった。そうだ、ただ守れるだけじゃないか。それの何がすごいんだ?
さっきまでの熱気が嘘のように冷めていく。大雅の後ろに、子供たちがぞろぞろとついていく。
「使えなくない!」
辰也は叫んだが、その声は誰にも届かなかった。
追い打ちをかけるような出来事が、すぐに起きた。
大雅たちと入れ替わりに広場にやってきた、もっと幼い子供たちの一人が、はしゃいで走り回っているうちに派手に転んで、膝を擦りむいてしまったのだ。土と血に汚れた膝を見て、わっと泣き出す子供。母親が慌てて駆け寄る。
「大丈夫!」
辰也は、これこそ本当の力の素晴らしさを見せるチャンスだと、名誉挽回の機会だと信じて疑わなかった。攻撃魔法だけが魔法じゃないのだと。
「俺が治してやる」
彼はそう言うと、泣いている子供の前にしゃがみ込んだ。
(ルミナ、お願い)
『うん、わかった!』
辰也は子供の傷に、そっと自分の手をかざした。彼の体内にある魔力にルミナが干渉し、その手を媒介にして、温かい光が溢れ出す。光は傷口を優しく包み込み、みるみるうちに出血が止まり、赤く腫れていた皮膚が元に戻り、擦り傷は跡形もなく消え去ってしまった。痛みも、傷も、完全に。
奇跡の御業。辰也は、今度こそ万雷の賞賛が巻き起こるだろうと期待した。
だが、返ってきたのは、「ありがとう」という感謝の言葉ではなかった。
傷を治された子供は、きょとんとした顔で自分の膝を撫で、そして辰也の顔を見上げた。その瞳に宿っていたのは、尊敬ではなく、理解できないものに対する、純粋な「畏れ」だった。
母親もまた、我が子の膝に傷1つないのを確認すると、感謝するどころか、まるで人間ではない何かを見るかのような目で辰也を見つめ、子供の手を引いて後ずさった。
「……さ、行こう」
それだけ言うと、母親は足早にその場を去っていった。
その反応は、伝染した。周りで見ていた子供たちが、ひそひそと囁き始める。
「……すごいけど、なんか怖い」
「あいつ、俺たちとは違うんだ……」
「もう、一緒に遊べないかもな……」
常識を超えた現象は、人々の理解の範疇を超えた時、尊敬ではなく恐怖の対象となる。派手な攻撃魔法ならまだ「物語の英雄みたいだ」と納得できたかもしれない。だが、生命そのものに干渉するような、神の御業にも等しい治癒の力は、彼らにとってあまりにも異質すぎた。それは、自分たち人間とは根本的に違う存在であるという、残酷な事実を突きつけているようだった。
羨望は、畏怖に変わった。
そして、畏怖は、明確な「拒絶」と「疎外」へと姿を変えていった。
気づけば、辰也の周りには、ぽっかりと空白が生まれていた。さっきまで輪の中心にいたはずの彼は、今や誰からも避けられる「異物」になっていた。遠巻きに見つめる視線は、冷たく、鋭く、彼の心を突き刺した。
砂糖菓子のように甘かった栄光の日々は、驚くほど呆気なく、そして残酷に崩れ落ちた。
広場の隅にあるベンチに、辰也は一人座っていた。周りからは、子供たちの楽しげな声が聞こえてくる。しかし、その声はもう、自分を歓迎するものではない。むしろ、自分を嘲笑い、拒絶しているように聞こえた。
『ごめんね、辰也……。ルミナのせいで、ひとりぼっちに……』
彼の隣で、誰にも見えないルミナが涙声で謝る。その姿は、心なしかいつもよりずっと小さく、儚げに見えた。
その言葉に、辰也の中で何かがぷつりと切れた。悔しさと、怒りと、そしてやり場のない悲しみが、濁流のように込み上げてくる。
「お前のせいじゃない!」
彼は、誰にも聞こえない声で、心の中で叫んだ。
「お前は、悪くない! お前はすごい力を持ってるんだ! あいつらが、何も分かってないだけなんだ!」
そうだ、悪いのは全部、価値を理解できないあいつらの方だ。ルミナのこの優しくてすごい力を、「使えない」だの「怖い」だのと言う、無知な連中が間違っているのだ。
悔しさで、唇を強く噛みしめる。鉄の味が、口の中に広がった。
『……辰也』
ルミナが、心配そうに彼の顔を覗き込む。その潤んだ大きな瞳を見ていると、どうしようもなく、この子だけは自分が守らなければならないという、強い使命感が込み上げてきた。
この世界で、たった一人。自分の力の源泉であり、唯一の理解者。
「俺が…俺が、お前を守るから」
辰也は、震える声で言った。それは、ルミナに言い聞かせると同時に、崩れ落ちそうになる自分自身を奮い立たせるための言葉だった。
「誰にも、お前のことを悪くなんて言わせない。お前の価値が分からない奴らなんて、こっちから願い下げだ。俺だけが、お前のすごさを知ってる。だから、俺が絶対にお前を守る」
この時、月城辰也の心に、1つの揺り動かせない誓いが刻まれた。
それは、世界中の誰に拒絶されようとも、たとえこの身がどうなろうとも、この唯一無二の存在であるルミナだけは、俺が絶対に守り抜く、という、孤独で、純粋で、そしてあまりにも危うい誓いだった。
夕暮れの空が、広場を茜色に染めていた。その色はまるで、少年の心に灯った、歪な決意の炎のようにも見えた。