秋が過ぎ、村に最初の雪が降った日、少年の中で崩れ落ちた「家族」という砦は、二度と再建されることはなかった。家は、ただ食事と睡眠をとるためだけの、冷たい箱になった。
父親は、祭りの夜以来、息子と目を合わせようとしなかった。その気まずい沈黙は、少年に対する罪悪感からではなく、村の有力者の前で恥をかかされたという、自己中心的な苛立ちから来ていることを、少年は痛いほど理解していた。母親は、そんな夫と特別な力を持つ息子の間で、ただおろおろと影のように存在するだけだった。食卓からご馳走が消えることはなかったが、そこに温かい会話が上ることは、もう二度となかった。
季節は本格的な冬へと移り、世界は白と灰色に閉ざされた。山々は雪に覆われ、村人たちの顔からも祭りの頃の陽気さは消え、日々の糧を心配する厳しい表情が刻まれていく。冬が長引けば、蓄えは底をつき、飢えがやってくる。そんな閉塞感が、村全体の空気を重く、ささくれ立たせていた。
少年は、以前のように森へ行くことが多くなった。雪に覆われた静寂の森は、人の悪意や欺瞞から彼を遠ざけてくれる、唯一の安息の地だった。
『辰也、寒くない?』
ルミナが、心配そうに少年の頬に寄り添うように、彼の周りの空気をわずかに温めた。彼女の存在だけが、凍てついた少年の心に、かろうじて微かな温もりを灯していた。
「大丈夫だ」
少年は短く答え、吐く息の白さに目を細める。
その時だった。森の奥深くから、空気を震わせるような、低く、長い遠吠えが響き渡った。それは、ただの狼の鳴き声ではなかった。飢えと、血への渇望に満ちた、不吉な獣の声。
『……いやな、声』
ルミナが、怖がるように少年の服の裾を掴んだ。少年もまた、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。山の猟師たちが「冬の魔狼」と呼んで恐れる、飢えて凶暴化した狼の群れ。その存在を、噂でしか知らなかった。
遠吠えは、日を追うごとに村に近づいてきた。
村人たちの顔に、明らかな恐怖の色が浮かび始める。男たちは、夜毎に見張り台に立ち、松明を焚いて警戒にあたった。だが、相手がただの獣ではないことを、誰もが心のどこかで理解していた。
そして、運命の夜がやってくる。
その夜は、猛烈な吹雪だった。風が家の隙間から侵入し、不気味な笛のような音を立てる。窓の外は、荒れ狂う雪で何も見えない。そんな、天候さえもが獣たちの味方をするかのような夜だった。
最初の悲鳴は、村の外れにある一軒家から上がった。
吹雪の音を切り裂く、絶望的な叫び声。それに続く、獣の獰猛な咆哮と、肉が引き裂かれるおぞましい音。
「魔狼だ! 魔狼の群れが来たぞ!」
見張り台からの絶叫が、村中に響き渡った。鐘が狂ったように打ち鳴らされ、村は一瞬にしてパニックの坩堝と化した。
家の扉を固く閉ざし、震える両親の隣で、少年はただ静かに外の音を聞いていた。次々と上がる断末魔。助けを求める人々の声。建具が破壊される音。その全てが、吹雪の音に混じり合い、地獄の交響曲を奏でていた。
(……関係ない)
少年は、そう自分に言い聞かせた。
(あいつらがどうなろうと、俺には関係ない。誰も俺を守ってくれなかった。だから、俺も誰も守らない)
彼は、自らの心を凍らせようと、必死に努めていた。
だが、その冷たい決意は、玄関の扉を叩く激しい音によって、いとも容易く打ち破られる。
「辰也君! 辰也君、いるんだろ!?」
「開けてくれ! 頼む!」
扉の向こうから聞こえてくるのは、聞き覚えのある村人たちの声だった。恐怖に歪み、懇願に濡れた、必死の声。
父親が、恐怖に青ざめた顔で少年に尋ねる。
「た、辰也……どうする……?」
少年は何も答えず、ただ扉を見つめていた。扉を叩く音は、1つ、また1つと増えていく。少年の家に、村人たちが殺到してきているのだ。
「頼む、辰也君! 君の魔法の力が必要なんだ!」
「我らが英雄様! どうか、我々をお助けください!」
英雄。その言葉を聞いた瞬間、少年の唇に、氷のような笑みが浮かんだ。
ついこの間まで、自分の力を「使えない」「地味だ」と蔑み、遠巻きにしていた連中が、今、死の恐怖を前にして、掌を返して自分に助けを求めている。その滑稽さが、そして人間の身勝手さが、どうしようもなく可笑しかった。
(……いいだろう)
少年は、ゆっくりと立ち上がった。
(見せてやる。お前たちが「使えない」と馬鹿にした、この力の本当の価値を。そして、思い知らせてやる。お前たちの命が、今、誰の掌の上にあるのかを)
それは、誰かを救うための決意ではなかった。
自らの力を証明し、愚かな村人たちを嘲笑うための、冷たい復讐心からくる決断だった。
「父さん、扉を開けて。みんなを中に入れてあげて」
その静かな、しかし有無を言わせぬ響きに、父親は操られるように頷き、震える手で扉の閂を外した。
雪と恐怖に塗れた村人たちが、なだれ込むように家の中へ転がり込んできた。その中には、祭りの夜、少年を「小銭稼ぎ」と侮辱した地主の姿もあった。彼は、助かった安堵と、少年に頭を下げる屈辱とで、顔をぐちゃぐちゃに歪めていた。
(ルミナ)
少年は、誰にも聞こえない声で、心の中で呼びかけた。
『……うん』
ルミナの声は、悲しそうに震えていた。彼女は、少年の心が復讐心で黒く染まっていることに気づいていた。それでも、彼女は主の命令に逆らえない。
(この家を中心に、最大範囲で『防御障壁』を展開しろ。一匹たりとも、中に入れるな)
少年がそう命じると、家の外で、淡い光が爆発的に広がった。窓から差し込む光が、恐怖に歪む村人たちの顔を白く照らし出す。家全体が、巨大な光のドームに包まれたのだ。
直後、障壁に何かが激突する、鈍い音が響き渡った。魔狼だ。獲物を求めて殺到してきた魔狼たちが、見えない壁に阻まれ、唸り声を上げている。ガリガリと、爪で障壁を引っ掻くおぞましい音が、家の外から響いてきた。
だが、障壁は揺らがない。何十、何百の衝撃を受けても、完璧な球体を保ち続けている。
家の中にいた村人たちは、その絶対的な安全性を確認すると、へたりと床に座り込み、安堵の涙を流した。
「助かった……」
「ありがとう、辰也君……君は、やはり我々の英雄だ」
感謝の言葉が、少年へと向けられる。だが、彼の心は少しも満たされなかった。彼の目は、窓の外、障壁の向こう側にある、闇に包まれた村を見つめていた。
障壁の外では、本当の地獄が始まっていた。
障壁に阻まれ、中に入れないと悟った魔狼の群れは、その飢えた牙を、障壁の外に取り残された他の家々へと向けたのだ。
最初に聞こえてきたのは、少年の家の隣に住む、パン屋の親父の絶叫だった。
「やめろ! こっちへ来るな!」
木の扉が内側から破壊される音。女子供の悲鳴。そして、獣が骨を砕く音。
「辰也君! 隣のパン屋が!」
誰かが叫んだ。
「助けてやってくれ! 君の魔法なら、奴らを追い払えるんだろう!?」
だが、少年は動かない。彼に、攻撃手段はない。ルミナの力は、守ることに特化した力。魔狼を直接攻撃し、撃退する術などないのだ。
彼は、窓の外の闇を見つめたまま、冷たく言い放った。
「無理だ。俺にできるのは、ここまでだ」
その言葉を皮切りに、家の中の空気は再び変質した。
障壁の向こう側から、次々と絶叫と断末魔が響き渡る。それは、ついさっきまで酒場で共に笑い合っていた隣人の声であり、市場で顔を合わせていた顔見知りの声だった。自分たちは安全な光の中にいる。だが、一歩外では、仲間たちが無残に殺されていく。その残酷な現実が、生き残った者たちの心を蝕んでいった。
「なぜだ……なぜ、もっと早く力を貸してくれなかった!」
「そうだ! お前がぐずぐずしていたから、逃げ遅れた者が出たんだ!」
「見殺しにする気か!」
ついさっきまで彼を英雄と見ていた目が、今度は非難の色を帯び始める。感謝は、助からなかった者への罪悪感と、それを転嫁するための身勝手な怒りへと、いとも容易く姿を変えた。
少年は、何も答えなかった。ただ、光の壁の内側で、その地獄の音と、内側からの罵声に、じっと耐え続けた。
(そうだ。それでいい)
心の中で、彼は呟いた。
(もっと憎め。もっと罵れ。お前たちのその醜い本性を、俺に見せろ)
彼の心は、もう何も感じなくなっていた。いや、感じないように、分厚い氷の壁で覆ってしまっていた。
夜は、永遠に続くかのように思われた。
どれほどの時間が経っただろうか。あれほど激しかった魔狼の咆哮と、人々の悲鳴は、いつしか止んでいた。外には、吹雪の音だけが響いている。
長い、長い沈黙。
やがて、東の空が白み始め、夜の闇が薄れていく。
少年は、ゆっくりと立ち上がり、ルミナに命じて障壁を解かせた。
そこに広がっていたのは、悪夢としか言いようのない光景だった。
白い雪は、夥しい量の血で、まだらに赤黒く染まっていた。破壊された家々。そして、雪の上に無残に転がる、村人たちの亡骸。魔狼の群れは、食い散らかすだけ食い散らかすと、夜明けと共に森の奥へと去っていったらしかった。
村の半分近くが、壊滅していた。
そして、その地獄絵図の中に、唯一、昨夜のままの姿で、傷1つなく佇む少年の家。
その異様な光景の前に、生き残った村人たちが、一人、また一人と集まってきた。彼らは皆、家族や友人を失い、その瞳には深い絶望と、そして燃え盛るような憎悪の色が宿っていた。その憎悪の矛先は、ただ一点に向けられていた。
「なぜ……」
最初に口を開いたのは、妻を失った若い男だった。
「なぜ、お前の家だけが無傷なんだ!」
その言葉が、引き金だった。
「そうだ! お前の魔法が中途半端だったから、奴らを追い払えなかったんだ!」
「いや、そもそもお前のような異物がいたから、魔物どもを呼び寄せたに違いない!」
「人殺し!」
感謝されるどころか、守れなかったことへの全ての責任を押し付けられ、全ての憎しみを一身に受けるための、都合のいい「スケープゴート」にされたのだ。
彼らは、自分たちが昨夜、少年にみっともなく助けを乞うたことなど、とうに忘れていた。自分たちの罪悪感と無力感を正当化するために、共通の敵を作り上げ、石を投げることに必死だった。
父親と母親は、青ざめた顔で、村人たちと息子の間に立ち尽くしているだけだった。庇う言葉1つ、出てこない。
その時、逆上した一人の男が、近くに転がっていた農具――一本の錆びた鍬を、その手に掴んだ。
「化け物が! お前さえいなければ、こんなことには……!」
男は絶叫し、そのやり場のない怒りと悲しみの全てを乗せて、少年自身に向かって、鍬を振り上げた。
『辰也!』
見えないルミナが、悲鳴のような声を上げた。
――やめろ。
その瞬間、少年の中で、最後の何かが、音を立てて砕け散った。
時間が、まるで引き伸ばされたかのように、ゆっくりと流れる。振り上げられる鍬。男の憎悪に歪んだ顔。恐怖に凍り付く周囲の人間たち。
自分に向けられた、剥き出しの殺意。それは、これまで彼が経験してきた侮辱や拒絶とは、全く質の違うものだった。
少年の瞳から、恐怖も、悲しみも、怒りさえも、全ての感情が急速に消え失せていった。後に残ったのは、どこまでも深く、冷たい、底なしの暗闇と、絶対零度の殺意だけだった。
「――俺に触るな」
地を這うような、低い声だった。
それは、今まで誰も聞いたことのない、少年の声だった。
その声に、振り上げられた鍬が、ぴたりと止まる。男は、少年の目を見て、全身が凍り付くような恐怖に襲われた。そこにいるのは、もう、ただの子供ではなかった。獲物を前にした、飢えた獣の瞳だった。
少年は、ゆっくりと、男を、そして周りの村人たち全員を見回して、言った。
「……次にその手を上げたら、殺す」
その言葉には、一切の比喩も、脅しも含まれていなかった。ただ、冷徹な事実だけが、そこにあった。
村人たちは、本能で理解した。この少年は、本気で自分たちを殺せるのだと。
恐怖が、憎悪を上回った。彼らは、じりじりと後ずさり、道を開けた。
少年は、もう誰の顔も見なかった。絶望の表情で立ち尽くす両親さえも。
彼は、故郷を捨てることを決意した。
英雄になる道も、誰かに理解されることも、全て捨てた。
この腐った世界で、信じられるものなど何もない。守るべきものは、ただ一つだけ。
(大丈夫だ、ルミナ)
少年は、心の中でだけ、震える唯一の存在に優しく語りかけた。
(俺が、お前を守る)
夜明け前の、最も冷たい空気の中、少年は、血と絶望に染まった故郷に背を向け、一人、まだ誰も踏み入れていない、真っ白な雪の上を歩き出した。
彼の少年期は、この夜、完全に終わりを告げた。