血と絶望に染まった故郷に背を向け、少年がどれほどの時間、あてもなく歩き続けたのか。
夜明け前の凍てつくような空気は、肌を刺すというより、じわりと体温そのものを奪っていくようだった。雪を踏みしめる自分の足音だけが、やけに大きく世界に響いている。感情は、あの夜に全て殺したはずだった。だが、ふとした瞬間に脳裏をよぎるのは、自分を見捨てた父親の顔、憎悪に歪んだ村人たちの顔、そして、血に染まった雪景色。そのたびに、心の奥底で、まだ熱く燻る何かがあった。
(……これでいい)
少年は、かじかむ手で自分の胸を強く押さえつけた。
(この痛みも、この怒りも、全て忘れるな。これが、俺を前に進ませる燃料だ)
もう二度と、誰かに期待しない。もう二度と、誰かに裏切られない。そのためには、誰よりも強く、誰よりも冷徹になるしかない。
雪道を歩き続けて数時間。完全に陽が昇り、空が白み始めた頃、彼は村へと続く街道の入り口で、一台の黒塗りの馬車が停まっているのを見つけた。
その馬車は、少年の暮らしていたような貧しい村には、あまりにも不釣り合いなほど豪奢で、そして威圧的な空気を放っていた。磨き上げられた黒い車体には、見たこともない複雑な紋章――皇国の紋章――が、鈍い金色で刻まれている。馬車の隣には、一人の男が、まるで少年が来るのを待ち構えていたかのように、静かに佇んでいた。
男は、上質な黒い外套に身を包み、その顔には何の感情も浮かんでいない。ただ、その鋭い瞳だけが、雪原の向こうから歩いてくる小さな影を、値踏みするようにじっと見つめていた。
少年は、警戒しながらも足を止めなかった。もはや彼にとって、失うものなど何もなかったからだ。
男の前まで来ると、彼は自ら口を開いた。
「……何の用だ」
その声は、年齢にそぐわないほど低く、乾いていた。
男は、少年のその瞳を見ても、少しも驚いた様子を見せなかった。
「君が、月城辰也君だね」
感情の乗らない、事務的な声。
「私は、皇国霊術院管理局に所属する、影山と申します。君の噂を聞いて、調査に来ました」
噂。その言葉に、少年の眉がぴくりと動く。
「君の村で起きた惨劇については、今朝方、生存者からの報告で把握しています。そして、君が持つ『魔法の力』についても」
影山と名乗った男は、淡々と、事実だけを告げた。
少年が魔法使いであるという噂が、辺境のこの村から、どういう経緯か国の中枢にまで届いていたこと。そして、国が、希少な才能を持つ者を保護――実質的には管理下に置く――ために、彼を迎えに来たこと。
「保護、だと?」
少年は、思わず嘲りの声を上げた。
「俺は誰も守れなかった。村の連中からは、人殺しとまで言われたんだぞ」
「存じています」
影山は、平然と頷いた。
「生存者たちの報告書も読みました。彼らは口を揃えて、君を『役立たずの化け物』だと罵っていた。だが、我々の見解は違う」
影山は、初めてその無表情な顔に、かすかな、研究者のような興味の色を浮かべた。
「魔狼の群れの襲撃を受けながら、1つの家屋を中心に、一晩中、完璧な防御結界を展開し続けた。しかも、君自身を含め、その中にいた人間は全員が無傷。これは、並の防御魔法の使い手には到底不可能な芸当です。報告書を読んだ分析官たちは、君のその膨大な魔力量と、持続力に驚嘆していた」
初めてだった。
自分の力が、「使えない」や「気味が悪い」ではなく、客観的な「戦力」として、正しく評価されたのは。
村人たちの感情的な罵声とは全く違う、その無機質で、冷徹な分析。それは、奇妙なことに、今の少年の心にはすんなりと受け入れられた。
「……俺を、どうするつもりだ」
「君には、2つの道がある」
影山は、人差し指と中指を立てて見せた。
「1つは、このまま野良の魔法使いとして、国から追われる立場になるか。もう1つは、我々の管理下に入り、《皇国霊術学院》へ入学するか」
「がくいん……?」
「ええ。国中から、君のような特別な才能を持つ者たちを集め、国のための『戦力』として育成するための、言わば選抜施設です」
影山の言葉には、一切の甘えも、優しさもなかった。学院は、学び舎などという生易しい場所ではない。生徒は、国の「資産」であり「戦力」としてしか見なされない。そこで待ち受けているのは、才能を競わせ、ふるいにかける、冷徹な生存競争であると。
その無機質な説明は、祭りの夜に地主が吐いた下品な言葉や、父親が見せた保身のための偽りの笑顔よりも、よほど少年の心に信頼できるものとして響いた。
この男は、嘘をついていない。欺瞞も、建前もない。ただ、ありのままの事実を告げているだけだ。
「学院では、君の力を正しく評価し、それを最大限に引き出すための知識と技術が与えられる。もちろん、君がそれに見合うだけの『価値』を示せれば、の話ですが」
価値。その言葉が、少年の心に深く突き刺さった。
そうだ、この世界は、価値が全てなのだ。価値があれば人は集まり、価値がなければ容赦なく捨てられる。ならば、圧倒的な価値を持つ者になればいい。誰にも文句を言わせない、誰にも見捨てられない、絶対的な価値を。
「……行く」
少年は、即答した。
「その学院とやらに、俺を連れて行け」
その答えを聞いても、影山は表情1つ変えなかった。ただ、静かに馬車の扉を開け、乗るように促すだけだった。
その日から、少年の新たな生活が始まった。だが、それはすぐに学院へ入学するというものではなかった。
王都のはずれにある、管理局が管理する人目につかない施設。それが、十二歳から十五歳になるまでの三年間、彼が過ごすことになる「揺り籠」であり、そして「調教施設」だった。
影山の下で、少年は徹底的な教育を施された。
最初の一年は、ひたすら知識を詰め込む日々だった。過去の代理戦争における膨大な戦闘記録。敵の思考を読み、誘導するための心理学。人心を掌握し、駒を意のままに動かすための話術。そして、ルミナの持つ光の異能――「純化」と「干渉」――が、戦場においてどれほど恐ろしい兵器となりうるかの理論。少年は、まるで乾いた砂が水を吸うように、それら全てを吸収していった。
次の一年は、実践だった。管理局が捕らえた犯罪者や、敵国の密偵を相手にした、模擬尋問。そこで彼は、相手の心の弱さを見抜き、言葉巧みに情報を引き出す術を学んだ。ルミナの光で相手の心拍や発汗を読み取り、嘘を完璧に見抜く訓練は、彼の人間不信を、より精度の高い「武器」へと昇華させた。
最後の一年は、精神そのものを改造する期間だった。瞑想と薬物投与によって、極限まで感情の起伏を抑え込む訓練。恐怖、怒り、喜び、悲しみ。そうした、戦場において判断を鈍らせる全ての「ノイズ」を、自らの意志で遮断する術を叩き込まれた。
村で経験した裏切りと絶望は、その歪んだ教えを、何の抵抗もなく受け入れさせた。彼は自らの意志で、傷ついた心を折り、溶かし、そして研ぎ澄ませて、一本の冷たい「鉄」になることを選んだのだ。
そして、三年の月日が流れた。
《皇国霊術学院》の壮麗な門の前に立った時、十五歳になった青年の顔には、もう以前のような幼さの欠片も残ってはいなかった。その瞳は、全てを値踏みするような冷たい光を宿し、唇の端には、ごくかすかな、皮肉な笑みが浮かんでいた。
(大丈夫だ、ルミナ)
彼は、心の中でだけ、常に隣に寄り添ってくれた唯一の存在に語りかけた。
(三年間、待たせたな。ここが俺たちの戦場だ)
さあ、始めよう。
俺とルミナだけの、戦いを。
この腐った世界から、俺たちの未来を勝ち取るための、戦争を。