陰陽課特命係・対極院禊―浮気され禁足地に異動させられた警察官― 作:華洛
城の天守閣で両儀と別れた魔神は、地上にぽっかりと口を開けた巨大な大穴へと降り立った。
直径数キロ。まるで世界そのものに穿たれた洞。――底知れぬ深淵だった。
魔神が宙に浮き、暗黒の底を覗き込んだ瞬間。
奥底から、黄金の稲光が走った。
ずるり、と。
金色の毛並みが夜闇を押しのけるように浮かび上がり、巨大な狐の顔がぬっと姿を現す。
次の瞬間、九尾は顎を裂けんばかりに開き、深淵ごと魔神を丸呑みにしようと襲いかかった。
魔神は瞬間転移――呼吸するように。
ただそこにいた場所から別の座標へ滑るように消えた。
穴から這い上がった白面金毛九尾の狐は、全長三百メートル以上。
立ち上がれば四百メートルを超える天災の体躯。
その動き一つが風を裂き、地形を変える。
≪約千年ぶりの再会だというのに、いきなり食べようとするなんて……礼儀もへったくれもないわね、畜生≫
『また妾の邪魔をする気か、人に飼われた零落神め!!』
九尾が吠えた瞬間、世界が割れた。
空間に亀裂が奔り、千の雷が同時に落ちたような衝撃波が大地を砕く。
山々が軽く吹き飛ぶ。
≪あら、意外と悪くなかったわよ。誰かと一緒にいるっていうのは。
……従者に囲まれて孤独を知らない畜生には、分からないでしょうけど≫
『何をぬかす! 晴明を引き離しておいて!!』
九尾が喉奥で呪力を圧縮し、大口を開く。
赤黒い閃光――世界そのものを焼く“滅の光”が今まさに放たれようとしていた。
だが魔神は左手を軽く掲げ、ただ一つスキルを起動させる。
【術を無効化するスキル】
赤黒い呪力は放たれる前に青白い波動に触れ、霧のように消滅した。
『……晴明の十二天将――天空の権能……!』
≪驚くことじゃないわよ。十二天将は私の力で進化した存在。
元を辿れば、彼らのスキルは全部、私のもの。
――なら、私が使えるのは当然でしょ。だから、こういうこともできる≫
【重力を操作するスキル】
十二天将・勾陳の権能。
大地が悲鳴を上げた。
周囲十キロの地面が波紋のように沈み、空間そのものが重く歪む。
九尾の巨体は押し潰され、山脈のような体が地表にめり込み、ひの地響きが連続爆発のように響いた。
『ヲォォォォオオオ……ッ!!』
≪さて、何倍まで耐えられるのかしら?≫
地が砕け、大穴がさらに陥没し続ける。
九尾の体表に金の火花がはじけ、重圧に抗うように尾が逆立つ。
そのときだった。
九本の尾が、それぞれ別の意思を持つように異なる方向へ伸び、空間を掴み、捻じ曲げた。
そして九尾の体はふっと消失――。十キロ離れた重力波の外へ再出現する。
≪空間操作ね。千年前にはできなかった芸当だけど……成長したみたいね≫
魔神は素直に感心したように呟く。
九尾は白光に包まれ、人の姿へと収束した。
金色の長い髪。白い着物。死人のように白い肌。
背後に揺らめく九本の尾だけが、先ほどの怪物の残滓。
≪人型に? 大きい方が的として便利だったのに……残念≫
九尾は忌々しげに睨み付ける。
≪正直、お前のことは嫌いよ。でも、少しは感謝しているの≫
「貴様が妾に、感謝……?」
≪ええ。神獣であるお前が人との間に子を成し、心から慈しんでいる――。
当時の私には、その意味が分からなかったの。
だから、知りたくなった。九尾が何を抱いて晴明と生きたのか≫
魔神は淡々と続ける。
≪色々考えた末に、対極院両儀と結婚した。
対極院家なら事情を話しやすかったから。
……そして禊が生まれた時――あの小さな手を握った瞬間、私は初めて涙を流した≫
魔神の声音がわずかに震える。
≪愛おしくて、可愛くて、胸が満たされて。
そのとき初めて、九尾……あなたが晴明に向けた想いを理解したの≫
そして――突然、静かな声で宣告した。
≪だから、感謝の印よ。
禊とその子が生きている間だけでも、飼い狐として服従を誓うなら――半殺し程度で許して≫
言い終える前に、魔神の躰に衝撃が奔る。
9本の尻尾が交互に空間を削り、その衝撃を一身に受け、魔神は地面へ伏した。
「痴れ者が! 妾は九尾!! 人間ごときは元より、貴様に頭を垂れる事など万に一つもないわ!!」
魔神はエネルギー体で血を流さない。
だが、確かに損傷した。
≪ハ……ハハハハハ!!≫
魔神のエネルギーが肥大化し、損傷箇所が瞬時に再生する。
紅い瞳が愉悦に震える。
≪ああ……愉快。身体に痛みを感じるなんてどれだけぶり?
魔神王(クソ野郎)を殺した時以来かしら。
こんな力があるなら、向こう側の世界でも遊んでくればよかったわね≫
「向こう側……?」
≪この世界とは違う未来に分岐した世界よ。
向こうでは貴女と晴明と暴れ回って、世界を滅しかけていたわね≫
「滅しかけ……。では、貴様が止め――いや、戦ってはいない……」
≪戦う気なんてなかったわ。禊を過去に戻したら何も残らなかったから。
興味も失せた世界だったし、久しぶりにビッグバンを起こしてみたの。
――とても綺麗な花火だったわ≫
九尾は一歩、後ずさる。
魔神が嘘偽りを言わないのは知っている。
なら――世界を一つ消し飛ばしたという言葉は真実。
「……狂って堕ちたか、零落神!」
≪失礼ね。私は正常よ。
そもそも、私は狂うことができないの≫
魔神は淡々と告げた。
≪一族が王を殺した罰として、私に『正常なる不死』を呪いかけたの。
狂えず、眠れず、意識を手放すことも許されない。
永劫の時を、すべて素のままで存在し続ける罰よ≫
しかし、魔神の口元は幸福そうにほころんだ。
≪そんな苦行の中で――私は今、愛しい娘を持った。
この一瞬は、私にとって 1/グラハム数の確率でしか得られない奇跡。
だから、誰にも邪魔はさせないわ≫
魔神の紅い瞳が炎のように輝く。
「妾とて同じ! 晴明に逢うためにも……零落神!
不死とはいえ、倒せぬとは限るまい!!」
≪ええ、倒してごらんなさい。――できるのなら≫
二体の怪物が激突した。
魔神のエネルギーは空を裂き、九尾の神通力は大地を反転させる。
重力は狂い、天と地が逆さに捻じれ、地平線が波のようにたわむ。
空間が泡立ち、光と闇の柱が何百と立ち昇り、空が悲鳴をあげる。
【山河社稷図と同等のスキル】で構築された幻術世界は、悲鳴のような軋みを上げ、
天空から地底まで、一気に崩壊を始めた。
そのすべてを飲み込む閃光の中――
「――晴明!!」
「ふふ、流石。復活に気づいて移動してきたのね。どうやら向こうも決着がついたみたい」
互いに母親の直感。
魔神は禊の勝利を悟り、九尾は晴明の敗北を悟った。
動いたのは九尾だった。
「八門金鎖!!」
九尾は尻尾を八本の尾を消費して結界陣を生み出した。
九尾を神獣足らしめるのは、神通力を溜め込んでいる尻尾が九尾あるからに他ならない。
それを八本の尾を使用し、相手を閉じ込めるだけのために使用した。
先ほどまでの戦いで、例え閉じ込めたとしても長くて一分程度しか持たないとは察していた。
結界は長くて一分。
だが、九尾には一分で十分だった。
八本の尾は魔神を囲い、空間ごと封じた。
九尾は残る神通力をすべて空間跳躍へ使用。
愛する我が子――晴明のもとへ、ただ一瞬で。