陰陽課特命係・対極院禊―浮気され禁足地に異動させられた警察官― 作:華洛
空気が、変わった。
肺に入るたび、何か古い血の匂いが混ざっている。
けれど、そのすぐ前を歩く禊さんの背中が見えると――少しだけ、安心した。
ポニーテールにまとめられた黒髪が、歩くたびにふわりと揺れる。
そのたび、指先がうずく。
――ダメ。そんなこと、絶対に言えない。
私はただの“知りたい人間”。
禊さんのことを何も知らない、他人にすぎない。
だからこそ、知りたいと願ってしまう。
知り合いになりたいと、心の底から思ってしまう。
先頭を歩くのは、赤髪の鬼の少女――罪華(ざいか)。
目元を包帯で覆っているのに、まるで見えているみたいに私たちを“見据えて”くる。
その笑い方は挑発的で、どこか哀しい。
「あ、あの……目は、どうしたんですか?」
気づいたら、口に出していた。
罪華は立ち止まり、首をかしげて笑う。
「見たいの?」
嫌な予感が背筋を這った。
けれど、目をそらせなかった。
罪華は、包帯をほどいた。
――眼球が、なかった。
「ひ……っ!」
息が詰まる。
罪華は淡々と、まるで独り言みたいに言った。
「目は、自分で潰したんだ。
僕にはね、“人の罪が視えるスキル”がある。
……でも、あまりにも汚くて、気が狂いそうになった。
だから、見ないことにした。自分で、視るのをやめたんだ。」
その声は軽く笑っていたけど、どこか達観しているようにも聞こえた。
禊さんは何も言わず、静かに彼女を見つめていた。
その横顔が、あまりにも綺麗で――息をするのも忘れそうになった。
気づけば、胸が痛くなっていた。
たぶん、これは怖さじゃない。
名前をつけるのも恥ずかしい感情。
罪華の言葉を聞いても、禊さんは一切表情を変えない。
その静けさが、逆に恐ろしいほどで――
けれど、どうしようもなく惹かれてしまう。
罪華の案内で進むうちに、森が開けた。
木の柵で囲まれた集落――“隠冥村”。
外からの光を拒むように、沈黙していた。
罪華が呼びかけると、門がギィ……と開く。
中から、黄色の髪をした鬼が現れた。
氷のような無表情。その瞳の奥は、空のように深く、何も映していない。
彼女は無言のまま、指で古びた小屋を示した。
罪華が軽く笑って通訳する。
「向こうで、着てるものを脱いで、白い布を着ろってさ。」
「断ったら?」
禊さんの声は、低くて冷静だった。
けれど、その声音には、私を庇うような芯の強さがあった。
罪華は肩をすくめる。
「罪人に断る権利はない。大人しく言うことを聞いた方が、身のためだ。」
――罪人。
その言葉が胸に刺さる。
心当たりは……ある。胸の奥がキュッと痛む。
――私の罪。
あの日のことを、今でも夢に見る。
友達と遊び半分で、曰く付きの神社へ肝試しに行った。
昔から「邪悪なものが封印されている」と言われていたけど、誰も信じていなかった。
だから罰ゲームで社に入った私は、怖さより好奇心が勝った。
中は静かで、埃っぽいだけ。
何も起きなかったから、私は笑って帰った。
――でも、夜になって異変が起きた。
家の空気が、どこかおかしかった。
闇の中で、形のない「何か」が、私を見ていた。
声も出せず、体が凍りついた。
悲鳴を聞いた両親が駆けつけ、私を庇って――血を流した。
その赤を、今も夢で見る。
怪異に喰われかけた私の前に、光が差した。
闇を裂くように現れたのは、“陰陽少女・祓ちゃん”だった。
祓ちゃんは怪異を一瞬で祓い、瀕死の両親を救った。
その姿は、現実じゃないほど眩しかった。
――あの人がいなければ、私は死んでいた。
その事実が、今でも私を生かしている。
今、思う。
姿は違うけど、禊さんは祓ちゃんにどことなく似ている。
声の温度も、瞳の奥の静けさも。
でも、確かめたくなかった。
もし同じ人なら、私は“あの日”と再び向き合わなければならない。
だから今は、知られたくなかった。
小屋の中は、暗くて冷たかった。
籠の中には白い布。死装束のように見える。
「あの……やっぱり、下着も脱がないとダメなんですよね」
言いながら、自分でも赤面した。
禊さんが、ほんの少しだけ笑った気がした。
「そうだね。着ている物を脱ぐって言われた以上、下着も対象だと思う」
その声が落ち着いていて――好きだった。
地獄の中でも、きっとこの人は崩れない。
どんな暗闇でも、手を伸ばしたら掴める気がする。
私は震える手で服を脱ぎ、白い布を取った。
誰かがつい先ほどまで着ていた温かさがある。
「……変な感じですね」
思わず言うと、禊さんは「そうだね」とだけ答えた。
その短い言葉に、温度があった。
外では、罪華が立っている気配。
目が見えないはずなのに、確かに“見られている”。
息を止め、禊さんと視線を交わす。
その瞬間、怖さがふっと薄れた。
禊さんの瞳は、夜のように静かで、でもどこか優しかった。
(……この人がいるなら、きっと大丈夫)
心の奥で、そう呟いた。
それは祈りのようで――恋みたいだった。
「……着替え、終わりました」
私の声が震える。
禊さんが軽く頷き、扉を開ける
恐怖がふっと薄れた。
禊さんの瞳は夜のように静かで、でもどこか優しい。
(……この人がいるなら、きっと大丈夫)
心の奥で呟く。
祈りのようで――恋のようで。