私、後藤ふたりは4月から高校一年生になる。
通う高校は、家から片道二時間くらいかかる。電車を乗り継ぎ、駅から延々歩いて、やっと到着の遠場だ。
教師からは反対され、家族からは呆れられた。近場で、もっと偏差値の高い高校に行けるのに。それはそう。賢い選択ではない。学校では一応、優等生ということになっている後藤ふたりだから。わざわざなんでそんなところに行くのか、疑問を持たれて当然だ。
でも。
私には、他に選択肢はなかった。
それに、通学の問題はなんとかなるかもしれない。高校の近く、下北沢に姉が住んでいるのだ。そこに下宿させてもらえば、片道二時間の苦労を味合わずに済む。
姉がうんと言えば、なのだけど。
そういうわけで、私は姉の住むアパートのすぐ前にいる。
デザイナーズ物件というやつで、小さな建物だがなかなかおしゃれだ。姉にはふさわしくない、とか言ったら怒られるかな。
勝手知ったるなんとやら、オートロックの入口を開け、姉の部屋の前に立つ。先程ロインで連絡したのに、既読がつかない。嫌な予感がする。インターホンを鳴らすが、やっぱり何の反応もかえってこない。
出かけている……わけがないな。あの姉が昼間から外出なんてありえないことだ。
合鍵を取り出して、玄関を開けた。
暗い。
「おねえちゃーん? いるの? 入るよー」
カーテンを締め切っているのだ。何やら不穏だった。サスペンス小説の導入みたいじゃない? 私はこれから、姉の変死体を発見してしまうのか?
そのくらいだったら驚かないけど。
昔、部屋でミイラ化してたときもあったしね。あのときはさすがにちょっと焦った。水をかぶせたら復活したけど。
「お姉ちゃーん?」
声をかけながら入る。手探りで電気をつけた。
姉は居間に転がっていた。
死んではいない。寝ていた。ソファの上で、両手両足を投げ出し、大口を開けて安らかな寝息を立てている。Tシャツにショーツだけの、だらしのない格好だ。たとえ身内でも、いや身内だからこそ、あまり見たい姿じゃない。
ソファの前のテーブルに、チューハイの空き缶が一個だけ置かれていた。酒に弱い姉が酔いつぶれるには、これくらいで十分である。
私は嘆息した。
妹が来ることを知っていて、なんで酒を飲むのか。そんなに私と会いたくないわけ? だんだん腹が立ってくる。私は姉の肩を掴んで、強めに揺さぶった。
「お姉ちゃん、起きて。もう昼だよ。ふたりが来ましたよー。おきなさーい」
「う、う、うーん……」
呻く。
しばらく揺さぶられて、ようやく姉は細く目を開けた。開けっ放しだった口から、よだれが垂れている。
「あ、あれ……? ふたり……おはよ……」
「おはよじゃないよ。だからもう昼だよ。なんでまだ寝てるの?」
「あー、うん……ちょっと……昨日、飲みすぎたかも……」
そう言って姉は、のろのろと身を起こす。そして今更ながら、自分の格好に気づいたみたいだった。
大慌てで、Tシャツの裾を伸ばして隠そうとする。
「わ、わ、ふたり、見ないでよ〜」
「だったら、そんな格好で寝てないでよ!!」
とうとう私は、癇癪玉を破裂させた。
作り置きのスープがあったからそれを温め、トーストをオーブンに放り込む。
焼ける匂いが漂ってきたころ、ようやく姉は自室から戻ってきた。髪をまとめ、いつものジャージに着替えている。
「ど、どうもふたりさん。お久しぶりです」
へこへこしている。実の妹相手に。
トーストを皿に乗せ、器にスープを盛って、姉の前に出した。
「あ、ありがと」
「目が覚めた?」
「ええ、覚めた、覚めました。ごめんね、ふたり」
「もういいよ。慣れてるから」
そう言って私は、深々と嘆息する。
「今日、何のために私が来たか、覚えてる?」
「ええと……」
姉はトーストにバターを塗り、かじりついた。もぐもぐと咀嚼しながら、
「ここに住みたい、って、ほんとらの?」
「……」
食べながら喋るんじゃありません、とお母さんみたいなことを言いたくなる。でも我慢する。私は母ではなく、この人の妹なのだ。
「だって、ここからなら歩いて行けるじゃない。高校に。部屋もあいてるでしょ?」
「うん……」
覇気のない答えが返ってくる。
また、いらいらが背中を這い上がる。妹と一緒に住むのがそんなにイヤなわけ? 口元まで出かかるその言葉を、なんとか飲み込んだ。言っても何も始まらない。姉は姉だ。たとえ相手が妹でも壁を作る。誰であろうと、そこを超えられない。
ただ一人を除いて、ね。
姉はスプーンで、スープをかき混ぜながら言う。
「だって、ふたりはイヤじゃないの? その、私と……」
「別に」
私はそう答えた。
「私はお姉ちゃんのこと、嫌いじゃないし」
「あ、そ、そうなんだ」
姉の顔がぱっと明るくなる。……やっぱり、妹に嫌われていると思ってたのか。
「ここ、部屋も空いてるでしょ。私はそこを使わせてもらうから」
「う、うーん」
「なんなら、家賃も折半しようか? バイトも始めるし」
「だ、だめだよ」
慌てて身を乗り出して、姉は強く言う。
「こ、こ、ここは私のうちなんだから。それに、お、お姉ちゃんはお金には困ってないんだよ」
「……」
本当かなあ、と思ったけど、そこは黙っておく。
姉、後藤ひとりの職業はミュージシャンだ。
いま在籍しているバンドは活動休止状態なので、あちこちのバンドでサポートギターとして参加している。また、楽曲の提供も行っている。印税がなかなかいい収入になるのだと、前に語っていた。他にオーチューブでの配信や動画の収入もある。カネに困っていないというのは事実なのだろう。
それでも、こういう職業の人気は、水物だ。いつまで食えるか分からない。そのことを姉は痛いほど分かっている。
「と、ところでさ」
姉は無理やり、話題を軌道修正しはじめた。
「ほ、ほんとにウチの高校に通うの?」
「当たり前じゃない。もう合格通知出てるんだよ」
「だ、だって」
姉は本当に不思議そうだった。
「ふたりの成績なら、もっといい高校行けるでしょ」
またそれか。
家族も、教師も、友人たちも、みなそれをいう。放っておいてよ。どんな高校を選ぼうと、私の勝手でしょ。そう言い返したい。でも、本当に勝手なわけがないと私は気づいている。少なくとも学費を出すのは両親なのだ。なるべくいい高校に通うべきなのは、誰の目にも明らかで。
それでも両親は結局、さして反対することもなく私の進路を認めてくれた。頭が上がらない。
私の沈黙をどう捉えたのか。姉は突然、にやけ顔を見せて、
「あっもしかして、お姉ちゃんの行った学校だから? な、な、なーんて……」
「……」
「す、スイマセンふたりさん」
姉は笑顔を消して縮こまった。
私は無言のまま鼻を鳴らした。腹が立つ。何に腹が立つって、姉の言い分が間違っていないことだ。
でも、もうひとつ。より大きな要因がある。
「喜多ちゃんがいるでしょ」
「えっ?」
きょとんとした顔で、姉は私を見返す。
私はもう一度言った。
「あの学校に喜多ちゃんがいるのよ」
その部屋は、数年前とまるで変わっていないように見えた。
彼女がここから出ていって以降、ずっと空き部屋だ。がらんとした物のない部屋に、ベッドだけが残っている。汚れているわけでもないし、埃も積もっていない。姉が定期的に清掃しているのだろう。綺麗好きなのは、姉の数少ない長所のひとつだ。
私はその部屋の中央に立って、無言で部屋を見渡した。
ここが、今度から私が住むことになる部屋。のはず。
姉はまだ言を左右にして、私の下宿を認めていない。それでも強く言えば、姉は断れないだろう。妹には結構甘いのだ。
引っ越しの手間もあまりなさそうだ。ベッドはこのままでいいし、衣服や何やらを実家から持ってきて、衣装ケースやテーブルを用意すれば、それだけで住める。
あとは姉を説得するだけだ。
どのように言いくるめるか、それを頭の中で組み立てながら居間に戻ると、姉が真っ青な顔でスマホの画面を見つめていた。
「……どうしたの?」
「あっ、えっ、えっと」
動揺のあまり声が震えている。
「き、今日、ライブがあるの、忘れてた……」
「は?」
「これから、あ、あと十分で、リハ始まる、って……」
涙目で、姉は私を見た。
絶句した。なんで、ちゃんとスケジュールチェックしておかないの……喉元まででかかった言葉を飲み込み、姉のもとに駆け寄る。
「場所、どこなの? ライブの」
「す、スターリーで……」
「じゃあ、すぐ近くじゃん!」
私は姉をどやしつけた。
「行くよ、今から!」
「あっ、でっ、でも準備が……着替え……」
「その格好でいいでしょ! いつも通りじゃん!」
立ち尽くす姉の腕を取り、強引に引っ張る。
「ギターどこ!? 急ぎなさい、早く!」
「あ、ま、まって、ふたり、待ってってばあ……」
ライブハウス「スターリー」は、姉の家から歩いて十分ほどのところにある。
ぎりぎりで間に合った、と思う。早歩きでここまで来たから、姉は息を切らしていた。早くも疲労困憊だ。こんなに体力ないのに、いざライブが始まると平気で数時間も演奏できるのは、いったいどういうからくりなんだろう。
「おはようございまーす」
こちらも勝手知ったるなんとかかんとかなので、関係者面で平然と踏み入る。
受付のところにいた小柄な女性が、顔を輝かせて私たちを見た。
「あーきたきた。ぼっちちゃん、遅いー」
姉は即座に、土下座せんばかりの勢いで頭を下げた。汗に濡れた髪を振り乱しながら。
「ご、ご、ごめんなさい虹夏ちゃん。その」
「はいはい、リハはじまるから挨拶してきてねー。あ、ふたりちゃんはお久しぶりだね」
「はい、ご無沙汰してます」
私は手を揃えて頭を下げる。
結束バンドの元リーダーこと伊地知虹夏ちゃん。腱鞘炎はまだ良くなっていないらしく、最近はずっとスターリーの店番をしている。ほぼ副店長のような役柄だと、あちこちから伝え聞いている。
姉がへろへろの足取りで控室へと駆けていく。それを見送って、私は虹夏ちゃんに言った。
「相変わらず、姉がご迷惑をおかけしているようで」
「あはは、もう慣れてるから。ふたりちゃんもそうでしょ?」
「まあ、そうですね」
お互い、苦笑を見せ合う。実際、私も虹夏ちゃんも、姉に振り回されること十年以上だ。嫌でも慣れるというものだ。
「こっちの高校に通うんだって?」
虹夏ちゃんはそう問いかけてくる。私は肯いて、
「はい、それで、姉の家に間借りしようと思うんですが」
「はー、ぼっちちゃんが、また何か言いそうだねえ」
「そうです、まさに。でも、たぶん断らないと思います」
「それがいいね。ぼっちちゃんも、誰かと一緒のほうがあたしも安心できるし」
「あ、あのぉ」
私は恐る恐る聞いた。
「姉は、ひとりで、うまくやっていけてるんでしょうか」
「あはは、そうだねえ」
再び、虹夏ちゃんは苦笑する。
「でも、最近はわりといい感じになってきたんだよ。あたしも呼び出されることとか、全然なくなったし」
「あの……返す返すも、申し訳ありません」
恥じ入る私である。血縁の私だけならともかく、恩人である虹夏ちゃんにまで迷惑をかけないでほしい。
「ところで、今日、店長はいないんですか?」
私は尋ねた。スターリーに来たのは久しぶりだし、店長さんにも挨拶したいのだけど。
虹夏ちゃんは頬杖をついて、
「お姉ちゃんは銀行に行ってる。2号店を出す計画があるから」
「え、スターリーの2号、ですか?」
「そうそう。まあ、やれるかどうか分からないんだけどねー。ここの店だけでもカツカツなのに」
苦笑して虹夏ちゃんは嘆息する。
「まあ、うまい条件とハコがあれば、ということなんだけどね」
「そうですか……じゃあ、虹夏ちゃんはそっちの店長に、とか?」
「お姉ちゃんの構想ではね」
虹夏ちゃんは肯いた。
「でもあたしはまだ引退するつもりとかないんだけどなー。腕の調子も良くなってきたし。まだまだやれると思うんだけど」
「そうですよ」
私は首肯した。虹夏ちゃんは童顔だから、二十代後半という年齢よりずっと若く見える。私が子供の頃から全然変わらない。
「でもなあー、ふたりちゃんが高校生かあ」
そう言って、深々とため息。
「あたしも年を取るわけだわー」
「虹夏ちゃんは若いですよ。それに、かわいいです」
「あはは、ありがと。若い子に褒められると嬉しいなー」
そんなことを言ってる間に、姉とバントの人たちがステージへ上がってきた。
リハーサルがひととおり終了し、舞台袖に引き上げる姉に、私は駆け寄った。
「はい、お姉ちゃん」
ペットボトルのお茶を突きつける。
「え、あ、はい。ありがとう、ふたり」
汗を拭きながら、姉はそれを受け取った。その姉に言う。
「今日は私、帰るよ。遅くなっちゃうから。来週また来るからね。お父さんと一緒に」
「えっ」
途端に情けない顔になる。
「じ、じゃあ、ふたり、本当に……?」
「当たり前でしょ」
苛立ちをこらえ、腰に手を当てて言う。
「じゃね、お姉ちゃん。リハーサル良かったよ。本番もその調子でがんばって」
「え?」
不思議そうな顔の姉は、私の言葉を飲み込むと、急に相好を崩した。
「ふ、ふたりが褒めてくれた……嬉しい……」
「……」
全く。
ぷいと顔をそむけ、手を振って私はスターリーを後にした。外はもう暗い。ここから2時間かけて帰ることを考えると、ちょっとげんなりする。
姉の演奏を聞くのは、久しぶりだった。
圧巻、という言葉がふさわしい。私の心は芯から震えた。ギターヒーローは未だ健在、というわけだ。
それでも。
駅に向かって歩きながら、私は心のなかでつぶやいていた。
まだやれる。もっとすごい演奏ができる。
だって私の姉は。
誰よりもすごいギタリストなんだから。